010
いなかった。
一時間後、僕と百目鬼は大沼湖の畔に立っていた――水無月診療所からここ大沼湖まで、僕らは特に怪異現象と行き逢うこともなく、ただ春の麗らかな日和の下を普通に歩いて、この湖に辿り着いていた。
大沼湖、というのは、この町に流布する人魚伝説で『誰か』が人魚を見たとされる場所である。
そして、水無月先生との別れ際、最後の会話に登場した湖でもある。
ついでに言うと、あの謎の金髪女――葛霧に場所を問われた湖でもある。
だから、それらがひとつのミッシングリンクとなって、この大沼湖が一連の事件の『なにか』であると僕は読んだのだ。
とんだ誤読だったわけだが。
そういうわけで――僕たちは大沼湖にいたし、そして、水無月先生は大沼湖にはいなかった。
『たぶん、水無月先生は大沼湖にいるんだと思う』なんてカッコつけて言ってしまった手前、恥ずかしい限りだったが、しかし、いないものはいないのだからしょうがない。いないにしてもいなかった。誰もいなかった。水無月先生はいなくても、もしかしたら葛霧がいるかもしれない、なんて道中は思っていたのだけど、その葛霧すらいなかった。
「静かな湖畔だな。郭公の鳴き声が聞こえてきそうだぜ」
「郭公は夏鳥だよ、空木くん」
「へえ、そうなのか。それにしても誰もいないな。清々しいまでに貸切だ。すまないな、百目鬼。とんだ無駄足の無駄骨だったみたいだ。でも、ミスは誰にでもあるし仕方ないよな。ドンマイドンマイ、切り替えていこう」
「自己フォローまでが早すぎるよ……」
自己フォローは冗談にしても、それでも実際のところ、僕はそこまで落ち込んでいなかった。
理由として、そもそもまだ、僕は水無月先生の実力を信頼しきれいていないというのがある。陰陽師だかなんだか知らないが、それがどれほどに役立つ存在なのか……百目鬼が『頼りになる』と言っているのだから頼りになるのだろうけど、しかし、頼めば一瞬で人魚伝説を解決してくれる便利アイテムみたいな幻想を抱くべきではないのではないだろうか。
水無月先生を頼るのは、あくまで『手段』であって『目的』ではない。
だから、切り替えていこう、という言葉もあながち冗談とは言えなかった。
今夜、町に現れる三匹の人魚――もしかしたら、それ以上の数がいるのかもしれないが――そいつらを根絶することが目下最大の目的だ。
今日という日を乗り切ること。
ともすれば、人魚という怪異は際限なく沸いてくるもので、今夜現れる人魚を殺したところで明日明後日にはまた別の人魚が現れるのかもしれず、僕が唱える目的はただの姑息療法なのかもしれないが、それでもいい。
「人魚……ね」
「ん? どうしたの、空木くん」
「いや……まあ、今回こうして大沼湖を訪れたのは見事に空振りになってしまったわけだけどさ――人魚って、考えてもみれば半人半魚なわけで、つまり半分は水生生物なわけで……となると、今回の人魚伝説の一件について、この大沼湖が完全な無関係ってことは、あまりないんじゃないか? というか、人魚はこの湖に住んでるんじゃないか?」
そう考えるのが、妥当な気がする。
そもそも人魚が陸を闊歩していることに、僕は疑問を持っていたのだ。
奴らの呼吸が肺呼吸なのか鰓呼吸なのかは依然知らないが、しかし、鱗を持っているということは、水の抵抗を減らすための構造をしているということ――すなわち泳ぐための身体を持っているということなのだ。
「一理あるね――どころか、その公算が高いと思うけど……でも、それこそ降参だよ。水の中に住んでるからって、住処に突入していくわけにもいかないでしょ? 水の中で人魚と戦うなんて、いくら鬼でも無謀が過ぎるから。湖ごと埋め立ててしまえば解決なのかもしれないけど……さすがにそこまでのことはできない」
「だよな」
「水中に巣を作って、そこで生殖活動を行ってるんだったら、もう、私たちにできることはないだろうね。精々、陸に上がってきた人魚を狩り続けることくらいだよ」
「それは……いたちごっこだな」
根本的な原因を叩かないことには、つまり、根治しないことには、それはやはり姑息療法でしかなく、姑息でしかない。
生殖……生殖か。
そこまで生々しく考えなかったが、しかし、怪異というのはどうやって増えるのだろう。人魚も生殖活動を行うのだとしたら……だとしたら、百目鬼は『怪異は生き物ですらない』と言ったが、しかし、生殖するなら、それはもはや生き物だ。
いや……いやいや。
やめよう。
僕は色々と考えすぎだ。
一度に色々と済ませる必要はない。そもそもキャパの大きい人間ではないのだ、僕は。
人魚とかいう未曽有の危機に立ち向かわなければならない現状で、奴らの生態について哲学している余裕はない。そんなことは、すべてが終わってから考えればいいことだ。
ただ、今は。
今は、ただただ人魚を殺すことを考えていればいい。
「そういえば、空木くん」
「ん?」
「さっき、水無月先生が大沼湖について訊いてきたって言ってたよね?」
「ああ、言ったな。だから、僕はここに水無月先生が来てるんじゃないかと思って、こうしてここを訪れたわけなんだけど……まあ、見事に空振りだったわけだな」
「いやいや……まあ、今回は空振り立ったのかもしれないけど――でも、それはイコールで無関係というわけではないと思うよ? 水無月先生が大沼湖について訊いてきたのは事実なわけだし、さっき空木くんが言った通り、人魚とこの湖が無関係とはとても思えない。つまり、やっぱり水無月先生は人魚伝説について調べていると思われるんじゃないかな?」
そんな風に論理立てて説明されると、なんだか探偵の推理の開陳シーンを読んでいる読者の気分にさせられる思いだった。
間違っても、僕は助手役ではない。
百目鬼にホームズははまり役かもしれないが、僕にワトソンは務まらない。
僕はプレイヤーであり、あるいは読者であり。
そして、それ以上の存在ではないのだから。
「ねえ、空木くん。水無月先生は、なにか大沼湖について言ってなかった?」
「えぇ……うーん」
記憶を遡る。
実時間にしてみれば、それは昨晩のことなのだから思い出すのも本来はそれほど難しいわけでもないのかもしれないが、しかし僕に限っては、昨晩のことを思い出すために今夜の記憶を通らなければならないわけで――人魚に襲われ、友達を殺され、自らも殺されたショッキングな記憶を思い起こす必要があるわけで、簡単な作業ではなかった。
記憶を遡る……。
「ああ、思い出した」
「思い出したの?」
「ああ、百目鬼が処女であることを思い出した。『普通に処女だよ』とか言ってたな」
「そんなどうでもいいことは思い出さなくていいです。ていうか、未来の私、そんなこと言ってたの?」
「言ってた」
「忘れて、早急に。じゃないと捩じるから」
「空木了解」
どの部位を捩じられるのか、恐ろしく訊けなかった。
目がマジだったぜ……。
「私のことはどうでもいいから、水無月先生のことを思い出して」
「おいおい、百目鬼。私のことはどうでもいいなんて、そんな寂しいこと言うなよ。友達だろ? お前のことをどうでもいいなんて、僕はこれっぽっちも思えないぜ」
「ん? なに? 捩じられたいの?」
「捩じられたくはないです――いや、でも真面目にさ。実時間としては昨日のことなのかもしれないけど、ループしてる僕にとっては結構前のことなんだよ。それもただの雑談程度のものだったし……思い出せって言われても、すぐに思い出せるような会話でもなかったんだよな」
人魚に関することなら、具に覚えているのだが。
逆に、忘れてやりたい記憶ほど痛切に焼き付いていたりするのだから、人間の記憶というのはまったく理が尽くされていない。
小説だったらページを戻ればいいだけの話なのかもしれないが、現実はそうはいかない。
現実というゲームには、キーワードを記録してくれる便利な機能などないのだ。
「……駄目だ、百目鬼。思い出せそうにない。なにか雑談してくれ。ふとしたことから、記憶が蘇るかもしれない。不死鳥のごとく」
「『不死鳥のごとく』はよくわからないけど――じゃあ、空木くん、実はちょっと気になっていたことを、今晩命を落とすかもしれないことを憂慮して、言い忘れないうちに、そして言えなくなる前に言っておきたいんだけど……」
「なんだなんだ? なんか、重い導入だな」
ともすれば告白の前口上のようにも聞こえるセリフだけど、まあ、僕と百目鬼の関係に鍵ってそういうことはないだろう。
言えなくなる前に言っておきたいこと?
なんだ?
「さっきさ、空木くん、ここに来るまでの道中で『いやぁ、こんな緊急時だけど、百目鬼とこうして小春日和を共に歩けて、心が安らぐぜ』みたいなことを、鼻を膨らましながら言ってたじゃない?」
「鼻は膨らましてないが……」
そしてそんな気障ったらしい言い方もしてないが……。
しかし、たしかにそれらしいことを言った。
今日の夜、すべての終わりを経験してきた僕にとって、こうして百目鬼と麗らかな陽気の下、並んで歩くことができるなんて……そんなの、安心せざるを得ない。
「あのね、空木くん……せっかくカッコつけてもらったところ言いづらいんだけど――『小春日和』って、秋の陽気を指す言葉なんだよ」
「えっ、マジで⁉」
小春日和なのに?
名前に『春』って書いてあって、春関係ないことあるの?
「『小さな春のような日和』って意味なんだよ」
「『ような』を省略すんなよ……大切な単語だろ、それ――うわ、めっちゃ恥ずかしい。百目鬼はそれ、どういう気持ちで聞いてたんだ?」
「なんかカッコつけてるけど、誤用してるなぁ――って」
「言えよ! 誤用してるなら言えよ! 気づいた時に!」
後から言うなよ。よりダメージが大きいだろうが。
うわぁ、恥ずかしい。
誤用していたことが恥ずかしいとかじゃなくて、冷静に振り返ってみると『お前の隣を歩くと安心できるぜ』みたいなことを言っていた自分が恥ずかしい。あまつさえ言葉を間違って遣っていただなんて、より恥ずかしい。
これは黒歴史だ。
ダークヒストリーだ。
「で、どう? 水無月先生との会話、思い出せた?」
「思い出せるわけねぇだろ――と言いたいところだけど、なんか思い出したよ。なんでかわからないけど思い出したよ」
季節の話、という些細な取っ掛かりがあったからだろうか。
別れ際、水無月先生と交わした会話を、僕は思い出していた。
「大沼湖――この湖が、冬になると凍るのかどうか、訊かれた気がする」
「凍る? この湖って凍らないよね?」
「ああ、そう答えた」
そして、それに対する水無月先生の回答は『そうかい。貴重な情報をありがとう』だった。
貴重な情報。
お世辞というか、社交辞令で言ったという風に考えることもできる言葉だが、しかしその言葉を真に受けると、額面通りに受け取ると、その情報は水無月先生にとって『貴重な情報』だったということになる。
「水無月先生は、なんでそんなこと訊いたのかな?」
「さあ? 医者としての質問ではなかった気がするし、水無月先生が湖で天然アイススケートしたかったわけでもない限り、たぶんあれこそ陰陽師としての質問で、とりもなおさず人魚伝説に関する質問なんだと思うけど……百目鬼は民俗学に興味があるって言ってたよな? なにか、質問の意図に心当たりはないか?」
「うーん……私も学び始めで、そこまで詳しいわけじゃないし……私が知ってるのは、本当に浅いところだけなんだよね。有名な怪談とか、私自身に関する怪異譚についてなら知識はあるけど、そうでないものについてはちょっと……」
百目鬼が民俗学に興味があるのは、たぶん自身の体質が原因なわけで。
その百目鬼がまだ民俗学に詳しくないということは、百目鬼が自身の鬼の血を自覚したのはここ最近ということなのだろうか――という逆算が成り立つのだが、今はそれはどうでもいい。
「つぅか、なんで夜にはバトル展開が控えてるのに、今は謎解きしてんだよ、僕ら。これはバトルものなのか、怪談なのか、ミステリーなのか、はっきりしてほしいぜ」
「これはバトルものでも怪談でもミステリーでもなく、現実だよ、空木くん」
それはそうなのだけど。
現実にジャンル分けなんて概念がないことくらいわかっている――わかっているけど、理性で理解していも、本能が拒絶する。
世界はゲーム画面の中。
馬鹿は死んでも治らないと言うけれど、僕のゲーム脳も、一度死んだくらいじゃ治ってくれないようだった。
「――とにかく、考えても仕方ないことは考えても仕方ない。人魚伝説については水無月先生に会えたら訊いてみよう。夜の戦闘については、百目鬼、よろしく頼んだぞ」
「よろしく頼まれました」
百目鬼は横ピースをして、ニコッと笑った。
笑窪が眩しいくらいの笑みだ。
こうして真正面から笑顔を見てみると、なるほど、そういえばこいつは美少女だったのだな、と思い出される。
アイドルとかモデルとか、そういうレベルでもないのだ、こいつは。
容貌の美しさだけとっても、こんな田舎にいていい存在ではない。
それくらい、百目鬼の容姿は整っている。
そういえば、百目鬼の先祖の百目鬼――僧侶に角と爪を捧げた妖怪の百目鬼も『美しい娘』だったのだっけ?
もしかしたら、そこら辺も彼女は先祖返りしているのかもしれない。
「じゃあ、日が落ちるまではひと休憩だな。やれることもないし、英気を養うことに時間を使おう。ちょうどおやつ時だし、なにか食べるか。腹が減っては戦はできぬ、とも言うし」
「あ、私、パフェ食べたーい」
「お前……朝もホイップクリームまみれのコーヒー飲んでたけど……糖質とか大丈夫なのか? あんまり男にこういうこと言われたくないかもしれないけど、言われたくないだろうから友達として言うけど、太るぞ?」
「太らないんだよね、体質的に。鬼だからかな?」
それはなかなか、鬼みたいな発言だった。




