第20話 アンジェラの決意
「王太子……?」
(グレゴが、ルロワ王国の、王族……?)
アンジェラは目を見開いた。
そんなこと、思ってもみなかった。けれど、心のどこかで腑に落ちるような気もした。アンジェラは以前から彼のことを、異国出身であるのとは別で、どこか遠い存在のように感じていた。
「そう……あなたは、ルロワ王国の王太子だったのね。やっぱり、わたしよりずっと立派な人だわ」
アンジェラはグレゴワールのことを、芯のある人だと思っていた。
自分という軸を持っている人。信念を持って行動している人。
その正体は、滅ぼされた王国で唯一生き残った王族であり「支配された祖国を救い出す」という大きな目標を掲げて生きる一国の王子だったのだ。
「立派なんかじゃありません。俺は、民を守れなかったのに……」
グレゴワールは後ろめたそうに目を伏せた。
「……あなたで二度目です。エミリアンから守ることができなかったのは」
「でも、生きているわ。わたしも、あなたの国の民も」
グレゴワールが顔を上げた。その表情には、驚きが浮かんでいる。
アンジェラは微笑んだ。
「生きていれば、いつでもやり直せる。死んでしまおうと思っていたわたしが、こうやって立ち上がって歩いているように」
「……それなら、俺と一緒に王国軍の拠点へ来てくれますか?」
彼の手が、そっとアンジェラの手を取った。
その握りはどこか慎重で、迷いのないものだった。
「今の俺では、あなたを守りきることができません。ですが拠点に来てくれたら、しばらくはあの男の目から隠すことができます。隠れているばかりではありません。エミリアンに立ち向かうのです」
ひそかに反乱軍を組織して、帝国の支配層を揺るがすような反乱を各地で起こす予定だと彼は言う。各地に散らばっている王国の民や、帝国に不満がある帝国貴族を集め、帝国に抵抗する拠点を築いている最中だと。
それに加わらないか、一緒に来ないかと、彼は言っている。それは、アンジェラにとって嬉しい申し出だった。少し前の自分なら、喜んで飛びついただろう。
こんな夫がいる帝国は嫌だ。
父に泣いて縋ってもどうせ助けてくれないだろうし、何もかも捨てて、彼と一緒に王国の再建を目指すという新しい人生を歩いたほうが魅力的だ──そう思ったかもしれない。
「……でもね、グレゴ」
アンジェラは微笑を浮かべながら、やさしく言い聞かせるように言った。
「それはわたしにとって、逃げる事と同じだわ。いつまでもこんなふうに、エミリアンに怯えて逃げてばかりいるのは嫌よ。守られてばかりなのは嫌」
彼がひとりでエミリアンと戦ったとき。
崖から落ちて重傷を負ったとき。
自分は、何もできなかった。とても悔しくて情けなかった。そして、そんな自分が嫌になった。
今ここで彼の提案を受け入れたら、きっと今までと何も変わらない。
「──だから決めたの。わたし、自分の力でエミリアンに立ち向かうわ」
「……え?」
「村を出てから、ずっと考えていたの」
──権力があれば、自由になれるんじゃないだろうか。
結婚なんかで手に入る権力じゃない。自分だけにある、誰にも侵されない力が欲しい。
エミリアンに対抗できる程の力が。
「そんなの、どうやって」
「わたしはグリート家の血を引いているのよ。知ってる? グリート家が所有しているグリーディー公領はね、帝国にとって『命の源』なの」
「はい。グリーディー公領の異名は、『帝国の食糧庫』でしたよね」
「ええ。そこを代々グリート家が統治しているのよ」
なだらかで日当たりが良く、帝国で最も広い土地。
領民も多く、農家として働く人々には充分な生活が保証されているので、作物の生産量が下がることもない。
食料にも、金にも困っていない。
それにグリーディー公領は帝国にとって、命の源──なくてはならない土地。そこを戦地にしようとする者はいない。だから帝国で内乱が起こっても、巻き込まれることはなかった。
長い歴史の中で、グリーディー公領は──そこを統治するグリート家は、ずっと安泰の地位を保ち続けている。
「わたしには、そのグリーディー公領を相続する権利がある」
有力貴族なら、誰もが我が物にしたい土地。
アンジェラはそれを、正当に受け継ぐ権利がある。だからエミリアンは、アンジェラを夫婦という関係で縛りつけた。
(エミリアンですら欲しがるモノの近くに、わたしはいる)
「ですが、グリート家の当主はお嬢さまのことを──」
「ええ、分かっているわ。お父さまが、今のわたしを相続人に任命するはずない」
グリーディー公の位を継承されるには、当主の父に認めてもらわなければいけない。
相続人として、姉より自分が相応しいことを証明しなければいけない。
少し前のアンジェラなら「わたしがお姉さまに勝てるはずない」と言ってやる前から諦めていただろう。だが、今はそんなことは言っていられない。
(何もしないままじゃ、わたしはエミリアンに支配されたまま、何も変わらないわ)
「お姉さまよりも、わたしが相続人に相応しいってことを証明して、お父さまに認めてもらうの」
現時点で、父は姉のアデールに相続させるつもりだろう。だが、そうすると実権はアデールの夫、タフティン伯に渡る。グリーディー公領の統治権が、次世代からタフティン伯の一家のものとなる。それを父は嫌がっていた。
──しかし、相続人が独身であれば統治権はグリート家にあるまま。
「そのために、エミリアンと離婚するわ」
グレゴワールは絶句するばかりだった。
「皇族と離婚だなんて……簡単にできるはずがありません」
「大丈夫。手段ならあるもの」
皇族に限らず、神の御許で結ばれた夫婦は容易に縁を切ることはできない。けれど婚姻を無効にすることは、決して不可能なことではない。
アンジェラとエミリアンの間には子がいない。それに、通常の夫は妻を監禁なんてしない。これは婚姻解消を希望するにあたって正当な理由になる。
ただ──エミリアンを相手に戦えるかどうかが問題なだけだ。
父は皇太子派に与している。父を味方にすることができれば、引いてはグリート家の貴族たちを味方につけられるということ。それが叶えば、勝算は充分にある。
「わたしはエミリアンの妃のままでいるつもりはないし、王国に亡命もしないわ」
誰かに服従するのも、守られるのも嫌だ。
自分のことは自分で決めたいし、自分の身は自分で守りたい。
「わたしはわたしのまま、エミリアンに立ち向かう。グリーディー公になるの」
グレゴワールは眩しいものを見つめるように目を細めた。
彼女に寄り添い、守ることが役割だった。
だが彼女は今、自分の足で歩いていこうとしている。自分の役目が終わったような気がした。それは誇らしくもあり、同時にひどく寂しいものでもあった。
アンジェラは晴れやかに笑って、グレゴワールの肩に手を置く。
「グレゴに味方がいるなら安心だわ。あなたは王国軍の拠点に戻って、まずは傷を治すことに集中したほうがいい」
「……お嬢さまは?」
「エミリアンに見つかる前に、グリート家へ帰るわ」
実家へ戻って、今までの経緯をすべてを父に話す。
父はまだ現役だから、そのあいだに後継者としての教育を受ける時間はある。肝心なのは父が自分を認めてくれるかどうかだが、まずはやってみるしかない。
「……それでは、お嬢さまは一緒に来てくれないのですね」
「ええ。わたしにもやりたいことができたから。……ごめんね」
グレゴワールは寂しそうに目を伏せたあと、微笑して首を横に振った。
「いいえ。あなたが選んだ道なら、俺はそれを受け入れます」
「……ありがとう、グレゴ」
胸がほんのり暖かくなる。
彼はいつも、アンジェラの気持ちを尊重してくれる。それが嬉しくて、そして少し切なくて、彼の目をじっと見つめた。
「ただ、あなたを帝国に置いて行きたくないという気持ちもあります。だからと言って、俺はあなたの護衛として傍にいることもできない……」
「分かっているわ。あなたは、王太子なんだもの」
彼は自分の使命を優先しなければならない。彼の背負うものの大きさを知っているからこそ、アンジェラはもう、自分のために彼を引き留めることはできなかった。
「はい。俺には、民を守る使命があります」
「それじゃあ、わたしのことは気にしないで」
「……俺は、帝国を滅ぼすために拠点へ戻ると言っているんですよ?」
「帝国が滅んだって、グリート家は何も変わらないわ」
アンジェラは淡々と言い切ったあと、わざとらしく訊ねてみた。
「それとも、あなたは帝国中を焼き尽くして、帝国の民をみんな殺してしまうつもり?」
「いいえ、そんなことはしません」
予想通りの返事に、アンジェラは頷く。
彼なら、そんなことは絶対にしない。たとえ仇の同族とはいえ、善悪の分別はついているはずだ。
「俺が手にかけるのは、エミリアン・フォーリックだけです」
「……そう」
夫の命が狙われていると知っても、特に何とも思わなかった。
今はまだ、彼を殺したいほど憎んでもいないし、グレゴワールに「エミリアンを殺さないで」と懇願するほどの情もない。アンジェラはただ、エミリアンの支配から抜け出したいだけ。
「……本当に、そんな俺を応援すると、あなたは仰るのですか?」
「王国の民も、帝国の民と同じ人間だもの。悪人は裁かれてほしいと思うし、善人は救われてほしいと思うわ」
そう言うと、グレゴワールの表情がわずかに変わった。
彼はじっとこちらを見つめ、深く息を吸う。次の瞬間、彼は跪いた。アンジェラの手をそっと取り、その甲に額を押し当てる。その敬礼をアンジェラは黙って受け入れた。
ふたりが主従としていられるのは、きっとこれが最後だ。
自分の傍から彼が離れてしまうことは寂しい。けれどそれ以上に、帝国の奴隷である彼が、王国の王太子として立派に立ち振る舞う姿を見てみたいと思った。
誰よりも支配される者の痛みを理解し、傲慢に権力を振るうことなく、誠実に民と向き合う人だからこそ──彼ならきっと、いい王様になるだろう。
アンジェラは彼の手を取り、そっと立ち上がらせた。
「それぞれの場所で、お互いにやるべきことをやりましょう」
グレゴワールはゆっくりと頷く。
名残惜しそうに手を放しながら、それでも迷いはなかった。
この日、グレゴワールは祖国のための独立を、アンジェラは自分のための独立を誓った。




