第11話 念願の外へ
翌日の真夜中。
グレゴワールが鎧を身につけてアンジェラの部屋へ行くと、アンジェラは昨夜と同じように窓辺に立っていた。
背を向けたまま、黙って夜風に吹かれている主人を見て、グレゴワールは一瞬不安になる。
やっぱり彼女はまだ尻込みして迷っているんじゃないか──けれど、振り向いたアンジェラは、晴れ晴れとした笑みを浮かべてこう言った。
「──行きましょう」
「……はい」
主人の決意を悟り、グレゴワールは安心して微笑みながら頷く。
昨夜から考え続けて、その結果、アンジェラは外へ出ることを決意した。
それはアンジェラが自分で決めたこと。エミリアンに逆らってでも、アンジェラが「外へ出たい」と思って決めたことだった。
グレゴワールはアンジェラの隣に立って、窓の外を見やった。
「雨も降っていないし、月も出ているし、ちょうどいい夜ですね」
「月が出ていると、よくないんじゃないの?」
青暗い空には、点々と散らばった星と、白い満月がぽっかりと浮いていた。
森林にはやわらかいカーテンのような、白い月明かりが差している。
(あそこを歩いたら、離宮にいる警備兵に見つかってしまうんじゃないかしら……)
「いいえ。お嬢さまを連れて行くなら、暗闇の中を走るわけにはいきません。月が出ていなければ、松明を持つことになったでしょう。明かりを持って動くよりは、月明かりの中を動いたほうが安全です」
「へえ……そうなのね」
グレゴワールの真剣な横顔を見上げながら、感嘆の声をこぼす。
彼は、アンジェラが考えていないところまで気を配ってくれている。頼もしくて、心強い。この人が隣にいてくれたら安心だと思えた。
万が一のときに備えて、グレゴワールは胴体に鎧と、両手に籠手を装着している。動きやすさを考慮して全身に鎧は付けていないが、背中には長剣をベルトで括り付けていた。
騎士らしい装いをした彼を見るのは去年の結婚式以来で、少しどぎまぎした。
まるで自分が囚われのお姫さまで、彼がそれを救い出してくれる英雄のような気がしてくる。
アンジェラは侍女の手伝いなくして自力で着替えることができないので、髪は下ろしたまま、身に着けているのは白いワンピースだけという、眠るときの恰好のままだった。
(今夜、わたし、外へ出るのね……)
少しずつ実感が湧いてきて、緊張してくる。
もう覚悟は決めた。
だけど、いざその時になってみると、不安が後から波のように押し寄せてくる。
(本当に、無事に戻ってこられるかしら……)
もし、離宮の外を見張っている兵士がいたらどうしよう。
その兵士がエミリアンに報告して、アンジェラが外へ出たことが知られてしまったら──そんな妄想を、何度も繰り返してしまう。
緊張のせいで、いつの間にか手が震えていた。
アンジェラは胸の前で両手を強く握って、震えを抑えようとした。
「……怖いですか?」
グレゴワールが気遣わしげに訊ねる。
「……うん」
素直に頷くと、彼は大真面目な顔をして「俺が必ず守ります」と言った。
「……ありがとう、グレゴ」
茶化したり馬鹿にしたりせず、真剣に応えてくれることが嬉しい。
グレゴワールは手に持っていた黒いマントを、アンジェラに被せた。
「これを羽織っていてください。春とはいえ、外はまだ肌寒いですから」
「うん、ありがとう」
彼がいつも羽織っているそのマントはアンジェラが羽織ると、肩から爪先まですっぽりと布で覆われてしまった。
マントの裾を掻き合わせて、襟に顔をうずめる。
グレゴワールからいつも香る石鹸の清潔な匂いがふわっと鼻をかすめて、少しだけほっとする。
「侍女たちが起き出す前に、ここへ戻らなければいけません。急ぎましょう」
「……ええ」
ここから帝都の塔まで、馬で往復するのに二時間はかかるらしい。
今は零時。
帝都まで行って祭りを見て、帰ってくるだけの時間は充分あるが、だからといって悠長にはしていられない。
(うじうじ迷って、怯えてばかりじゃダメ。勇気を出して踏み出さなきゃ)
いつまでもエミリアンに屈しているばかりでは、何も変わらない。
一年先も、十年先も、ずっとその先も、この部屋に閉じ込められながら彼の機嫌を伺って生きていく──そんな未来を想像して、「今ここで現状を変えなきゃ」という衝動に駆られた。
外に出ることは、エミリアンから独立するための第一歩。
自分の意思を貫き通す覚悟があるのかどうか、確認したい。
「さあ、行きましょう」
窓枠に足をかけたグレゴワールが、大きな手を差し出す。
アンジェラは一歩一歩足を踏み出して、おずおずと手を伸ばし、彼の冷たい籠手にそっと指先をのせた。
手を引かれて、窓枠に飛び乗る。
そこから下を見ると、三階というだけあって地上まではだいぶ遠かった。
「うわあ……」
窓のすぐ下は、石畳になっている。
道の端にちょこんと置かれた植木鉢は、点に見えるほど小さい。
この窓から落ちて着地に失敗したら、間違いなく骨を折るだろう。当たり所が悪ければ死ぬかもしれない。
死なないとしても、こんな高所から飛び降りるのは怖い。
「下りますよ」
グレゴワールの言葉にぎょっとする。
「ほ、本当にここから下りるの?」
「はい。誰にも見られない出口は、ここしかありません。……それとも、一階の玄関から堂々と出ますか?」
「う、ううん……」
「大丈夫です。俺が支えています」
グレゴワールは壁に左手をつきながら、右手でアンジェラの腰を掴んで自分の方へぴったり引き寄せた。
硬い鎧の感触と、彼の体温がじんわり伝わってくる。
こんなに彼に近づいたのは初めてだわ……とドキドキする間もなく、グレゴワールは「下ります」と短く宣言して、アンジェラの返事も待たずに窓枠から飛び降りた。
(あああ、落ちる……!!)
目に飛び込んでくる風圧と、心臓が三階に置いてけぼりになるような感覚に、ぎゅっと目を閉じる。
グレゴワールは壁のゴツゴツと盛り上がる石レンガの境目に指を引っかけて、落下の衝撃をやわらげながら徐々に下りていたが、離宮の二階に差し掛かった辺りでパッと手を放してしまった。
いきなり体がふわっと浮遊し、視界が急降下する。
ひゅん、と魂が口から飛び出そうになる。
悲鳴を上げそうになったアンジェラの口を、すかさずグレゴワールは左手で塞いだ。
着地が怖くて目を固く閉じて身構えていたが、想像していたような衝撃は襲ってこなかった。
グレゴワールは両足で着地して、何事もなく立ち上がると、横抱きにしていたアンジェラをゆっくり下ろす。
両足が地面についたことにほっとしたものの、急激に昂った鼓動は中々収まらない。
(し、心臓がまだバクバクしてる……)
胸を押えながら蒼白になっていたが、ふと顔を上げて見えた景色に、目を輝かせた。
一面の青暗い夜空と白い星、そしてなだらかに続いている新緑の森林が、視界いっぱいに広がっている。微かに漂うみずみずしい葉の匂いと、土と匂いがする。
湖の方からは、水の流れる音も聞こえた。
「すごい……外だわ。グレゴ、外だわ!」
うすい寝間着の隙間から入り込む風が、肌をやさしく撫でていくのが心地いい。
やわらかい風を一身に受けながら、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
半年ぶりに出た外は、空気が澄んでいて夜空や若葉の色が鮮やかで、外はこんなに美しいものだったんだと感じさせられた。
「わたし、外に出たんだわ!!」
「お嬢さま、お静かに……」
グレゴワールが人差し指を当ててそう言ったが、アンジェラは興奮が抑えきれなかった。
(どこへでも、好きなところに行ける……!)
左右を見渡しても、景色は四角い窓枠なんかに囚われることなく、どこまでも際限のない景色が目の前に広がっている。
目に映っているこの景色全部、どこへでも行けるんだ。
(自由だわ……!)
アンジェラはうきうきしながら、隣に立つグレゴワールを見上げた。
「こんなに広い場所に出ると、思い切り走りたくなるわね」
「今から思う存分走りますよ」
「え?」
彼はアンジェラの手を掴むと、「急ぎましょう」と走り出した。
ぐいっと腕を引かれて、足がもつれる。
異論を唱える隙もなく、引きずられるように彼と一緒に走り出した。
「橋を渡っているところを見られたらお終いです」
「ちょ、ちょっと待って……!」
ずっと運動していなかったせいで、アンジェラの体は鉛のように重たい。
関節があちこち軋んで、木製人形のようにぎこちない動きでしか両足は動かなかった。
筋肉が凝り固まったアンジェラの体を、グレゴワールはまるで橇でも引くように遠慮なくグイグイ引きずっていく。
周りに人がいないか注意しながらも、直線に長く伸びる石橋をあっという間に走り切った。
たった数分のあいだに窓から飛び降りたり、走らされたりしたアンジェラは、ぜいぜい息を切らしながら近くの木の幹に手をついて項垂れた。頭がくらくらして、全身に疲れを感じる。
「この馬で移動します」
全く息を切らしていないグレゴワールは、木の幹にロープで繋いであった馬を連れてきた。
栗毛色の、大柄な馬だった。
あらかじめ彼が厩舎からこっそり拝借してきた馬だ。
「早く乗ってください。休むなら、馬上でお願いします」
「え、ええ……」
有無を言わせない口調で冷静に急かされる。
(この人、意外と手厳しいわ……)
それほど、エミリアンに見つからないように警戒してくれているのだろう。
アンジェラはグレゴワールの手を借りて馬に乗り、彼もその後ろに乗った。
馬に乗るのは初めてで、目線の高さや座り心地の悪さに落ち着かず、そわそわする。彼は慣れた手つきで手綱を引き、助走をつけてゆっくり馬を走らせた。
「しっかり馬に掴まっていてください。森を抜けるまで走りますから」
「わかったわ」
言われた通り、アンジェラは馬の茶色い鬣をそっと掴んだ。
背後を振り返ると、年季の入った石橋に、左右に広がる湖が見える。
風に吹かれて湖の水面が揺れるたび、水面に反射した白い月光が星屑のように煌めいた。
その湖の真ん中に、ぽつんと建っている石造りの城。
最上階の窓は、開け放されたままになっている。一週間前から窓を開けて寝るようにしていたから、不審に思われることはないだろう……と思いたい。
(あそこで、わたしは半年も過ごしたのね……)
最上階の窓から、いつも森林を眺めていた。
いつか、外へ出られたら──そう思って、眺めているだけだった。
しかし今は、こうして外から離宮を眺めている。
エミリアンに怯えておとなしく言いつけに従ってばかりいた自分が、窓から飛び出して外にいる。
今の状況はまるで夢のようで、現実味がなかった。




