第10話 自分の気持ち
エミリアンの質問は、ただ単にグレゴワールとの会話を探ろうとしているだけにも見えるが、全てを知った上でアンジェラの出方を伺っているようにも見えた。
「たいしたことは、何も……」
「言いたくない?」
「いえ、そういうわけでは……」
言葉を詰まらせるアンジェラに、エミリアンは目を細めて微笑する。
「言いたくないのなら、それで結構。わざわざ言われなくても、君の考えていることは想像がつくからね」
「……っ」
冷や汗がぶわっと吹き出した。
この人には、何もかも見透かされている気がする。
恐怖で身が竦む。
エミリアンの目を見つめたまま、アンジェラは動けなくなった。
頭の中では必死にごまかす方法をいくつも考えるが、どれも彼に通用するとは思えない。
「ご、ごめんなさい……!」
気がつけば、謝罪の言葉が口からついて出た。
エミリアンはわざとらしく首を傾げる。
「それは、何についての謝罪なのかな?」
「……」
どうしよう、どうしよう、と焦りが襲ってくるばかりで、言葉は出てこない。
フォークを持つ手が、小刻みに震えていた。
それを見たエミリアンは小さく笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。
***
すっかり意気消沈してしまったアンジェラは、自室に戻ったあともベッドに座ったまま呆然としていた。
(明日……明日なのね)
開け放した窓を見やる。
明日の夜には、この窓から抜け出して帝都まで行く予定だった。
逃げ出すわけではない。
春祭りを見たら、すぐに戻ってくる。
(でも、殿下の『部屋から出るな』という言いつけを破ることに変わりはない……それに、殿下はきっと、気づいている)
アンジェラの思惑を知っていながら、アンジェラを泳がせているのだ。そう思えてならない。
──ここから逃げ出そうなんて思うなよ。そんなことをしても、最後に苦しむのは君のほうだ。
エミリアンの言葉が何度も蘇る。
言いつけを破って外に出たことが知られたら、どうなる?
今は部屋に閉じ込められるだけで済んでいるが、手枷をはめられて鎖で繋がれるかもしれない。エミリアンがグレゴワールに目をつけた以上、彼とも簡単に会えなくなってしまうかもしれない。
今よりもっと自由が奪われるかもしれない。
(殿下は、いったいどうしてわたしを離宮に閉じ込めているんだろう……)
アンジェラに求婚した理由は分かるが、グリーディー公の相続人でもないアンジェラを離宮に閉じ込めておく理由が分からない。
そんなことをして、エミリアンに何の得があるのだろうか。
彼の考えていることが、分からない。
分からないから、怖い。
アンジェラはベッドから立ち上がり、窓辺に寄った。
眼下には、若葉の生えた木々が月明かりに照らされ、さわさわ揺れている。
森林は地平線の向こうまで、なだらかに続いている。
こんなに広い景色が目の前に広がっているのに、そこへは行けそうにもない。
広大な景色は、アンジェラには窓の四角に切り取った形でしか見ることができない。
(わたしは一生、このままなんだわ……)
この先もずっとこの部屋に閉じ込められたまま、自分はこうして窓の外を眺めていることしかできないのかもしれない。
そう考えると、目頭が熱くなってきて、瞼を押さえた。
「お嬢さま。まだ起きていらしたのですか」
消灯のために部屋へ入ってきたグレゴワールが言う。
「明かり、消しますよ」
「……うん」
グレゴワールはテーブルに置かれている燭台の火を指でつまんで消した。ふっと室内が暗くなる。窓から差し込んでいる青白い月の光が、室内をぼんやり照らした。
「明日に備えて、今日は早くお休みになったほうがいいでしょう」
「……うん」
いつもと違って元気がないアンジェラに気がつき、グレゴワールは顔を上げた。
「……どうかされましたか」
アンジェラは泣き笑いしながら俯いた。
「わたし、行けないわ……明日の春祭りに、行けない」
「……何故、今になってそんなことを仰るのです?」
少し怒ったようなグレゴワールの声を聞いて、アンジェラは狼狽えながらも、正直に答える。
「殿下に、気づかれたかもしれないの……」
そう言うと、グレゴワールは「そんなことはありません」ときっぱり言い切った。
「ここは三階です。廊下の突き当りの、一室です。誰かに聞き耳を立てられることはないでしょう」
抜け出す計画を立てるときは、扉の前に人がいないか確認した。
念のために、窓の外も確認した。誰かが壁に張り付いて会話を盗聴しているかもしれない、と過剰な心配をして。
彼の言う通り、聞き耳を立てることはできないはず。
万が一扉の前に張り付いていたとしても、部屋の中から声は聞こえても会話の内容までは聞こえないだろう。
それでも、アンジェラの不安は拭えなかった。
「でも、あの人には何もかもお見通しなのよ。わたしが何をしようとしているのか、全部知ってる。その上で、殿下はわたしの出方を伺っているのよ」
「ただ釘を刺されただけでしょう。春祭りの日は、帝国では平日です。勘づかれている可能性はありますが、お嬢さまが『明日の夜に抜け出す』ということまでは、知りようがありません。単なる脅迫に決まっています」
(わからない……)
不安がぐるぐると胸の中で渦を巻く。
アンジェラは今まで、平穏にのんびり生きてきた。人に敵意を持ったこともなければ、人を疑ったこともないし、相手の心中を探ったりしたこともない。
エミリアンの考えなんて、アンジェラには到底読めない。
(本当に、ただの脅迫だったのかしら……)
グレゴワールがそう言い切るのなら、そうなのかもしれない。
……だけど、もし違ったら?
エミリアンは全て知っていて、その上でアンジェラの挙動をどこかで監視していたとしたら……。
とりとめもない妄想を繰り広げ、不安が次々に押し寄せてくる。
「お嬢さま。あなたは、どこにでも行けます。あなたはあの男の奴隷ではありません。言いつけに従う必要もないのです」
グレゴワールは諭すように言った。
うじうじしているアンジェラに、少し苛立っているように見える。
「そんなこと、できない」
アンジェラは首を横に振る。
「そんなことをしたら、どうなるか分からないもの……」
「このまま、こんな生活を続けているよりは、ずっといいでしょう」
「……グレゴ」
アンジェラは力なく笑って、穏やかな声で言い聞かせた。
「わたしはね、強い人間じゃないの。殿下に逆らう勇気なんて、わたしにはないのよ」
だって、自分の意思を貫き通したらどうなる?
今より自由が奪われるかもしれない。
ひょっとしたら、実家に追い返される可能性だってあるかもしれない。
実家に帰ることだけは、嫌だった。
嫁ぐために家を出たのに、また帰ってきたりしたら父に「お前は女として嫁ぐことすらできんのか」と怒られて、グリート家を破門にされるかもしれない。
そもそも、エミリアンの怒りを買うことすら恐ろしい。
こういったリスクを考えると、「今まで通り殿下に従っているほうが、一番楽なはず」と思えてしまう。
こうしておとなしく従っているほうが自分の性に合っているんだ、と。
「……お嬢さまはそうやって、ご自分の気持ちを押し殺して生きていくのですか?」
「え……」
彼の責めるような言い方に、アンジェラは瞬いた。
「あの男に抑圧されたまま、あなたはそこから動こうとしない。それでは、何も変わりません」
グレゴワールは冷たく叱るような口調で、熱心に続けた。
「何もしないままでは、何も変わりません。あなたはただ単に、行動する前から何もかも諦めているのです。ご自分の気持ちに、蓋をして」
自分が知らないふりをしていたことを、いきなり目の前に突き付けられたような気がして、どう反応すればいいのか分からなくなる。
「あの男に気づかれるかどうか、という以前に、まずはあなたがどうしたいのかを考えてください」
唖然としているアンジェラを見て、グレゴワールは尻すぼみになった。
「ですから、その……俺が言いたいのは、もう少し、ご自身の気持ちを大切にしてほしいということです」
「わたしの、気持ち……?」
「はい」
しばらく沈黙が訪れる。
グレゴワールは気まずそうに顔を逸らして、踵を返した。
部屋を出て行こうとして、扉を開ける前に「明日の夜、もう一度あなたの気持ちを伺いに来ます。……おやすみなさい」
そう言って、部屋を出て行った。
パタン、と静かに閉じられた扉を、アンジェラはしばらくのあいだ、呆然と見つめていた。
(自分の気持ちを、大切に……)
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
今まで誰からも「あなたはどうしたいの?」と訊かれたことはなかった。
昔からずっと、誰かに従ってばかりいたから。
自分は今、何を一番に望んでいるのだろう。
ベッドに腰を下ろして、ひとりで考え込む。
考えなくてもすぐに思いつくもののはずなのに、アンジェラの頭の中は真っ白だった。長いあいだ、自分で自分を抑圧していたせいかもしれない。
(わたしが本当にしたいことって、何なのかしら)
少なくとも、嫁ぎ先でこんなふうに部屋に閉じこもって生活することではなかった。
自由を奪われて、誰かに怯えて服従するなんて状況を、望んでいるわけではない。
(だとしたら、わたしの本当の望みは……)
離宮に来てから半年。
アンジェラはずっと蓋をし続けていた自分を気持ちに、ようやく真正面から向き合うことにした。




