婚約者と嘘つき女
顔の傷は痛いが夕方の痛みよりも軽い。
頬に手を当てて、その自分の掌を感じて、私はイーオインの優しい手つきを思い出してしまった。
彼を求めているのだろうか?
なんて、情けない。
触れられたくないからと、殴られた怪我はミリアが手当てをしてくれているから大丈夫だと伝えたが、怪我に詳しい自分が怪我の様子をみたい、と彼が言い張って聞かなかったのだ。
承諾するや彼は地面に毛布を敷いて私を座らせ、そして彼は私の真正面に座り込んだ。
「信じて、待っていて。」
あの、森の日の時のような真っ直ぐな目を思い出させる彼の仕草だ。
私は包帯を外していく彼の手にいちいち震え、そのたびに彼はびくりとして指を止めた。
まるで壊れ物を恭しく扱うような優しい手に、彼のその手の優しさと温かさは私のものではもうないのだと、終には涙が零れそうになって私は歯を食いしばるしかなかった。
「あぁ、痛かった。ごめん。これから少し膿んだ血を出すから、少し痛いよ。切った傷跡は残るかもしれないけれど。このままよりもずっといい。いいかな。」
「かまわないわ。」
次に来るであろう痛みに身を構えたが、次に来たのは座っていたイーオインがミリアに突き飛ばされた光景だった。
「ちょっと!傷が残っちゃダメじゃない。女の子の顔でしょう。そんなんだから、男は野蛮で間抜けだって言うの。エンバーンは殴られて顔が腫れているけれど、顔の骨は壊れていない。今はとにかく冷やして安静で十分なのよ。」
転がされたイーオインは転がしたミリアに怒りを持つどころかどこか楽しそうに笑いながら身を起こすと、ミリアに君は医者なのかと尋ね返したのである。
ミリアはすました顔でそれに答えたが、それはエンバーンとイーオインを混乱に落としめるものだった。
「あら、魔女よ、私。」
魔女はイングスフェールの法では火あぶりである。
息をのんだイーオインがエンバーンの治療用に持っていた短剣に力を込めた。
私はミリアを彼から守って救えるようにと、腰の剣へと手を伸ばした。
殺気で緊張する中でただ一人、その混乱を招いたミリアは、私達の動きに対して今まで私も知らなかった下品な振る舞いで応えたのである。
つまり、彼女は鼻を鳴らしたのだ。
「魔女、でしょう。この国では。薬草やまともな医術を使える者は、理解出来ない馬鹿者によって、みんな魔女にされるのよ。権力者の新たな脅威にならないためにね。切って血を流させるか、下剤を飲ませるしか手段のない医者と一緒にされるよりも、人を生かす事の出来る凄い魔女の方がずっといいわ。」
ぶ、あはははとイーオインは吹き出して笑い出した。
なんて彼は心地の良い声で笑うのだろう。
「でも彼はミリアの物だわ。」
イーオインとル―カスがミリアを助けに来たのは、イーオインがミリアの婚約者だからと、ルーカスから聞いたのである。
勝手に婚姻が決められた当のミリアが涼しい顔をしていた事が解せなかったが、領主の娘とあれば親が決めた結婚を受け入れるのが当たり前でもある。
その結婚相手が弛んだ風船のような老人ではなく、同年代に近く若々しいだけでなく、美男子であるのならば嫌がるどころか喜ぶのが当たり前なのだ。
あのミリアが抗議の一つもあげないのはそれが理由だと、今の何も持たない私は認めるしかないではないか。
彼らはうまくやっていきそうだ、とまで思ったのだから。
魔女だと自称した自分を笑い飛ばしてくれた男を、ミリアはとても嬉しそうに受け入れ、その上彼らの急難を助けるのだと自分に正直で勇敢な彼女は彼等に付いていったのである。
一人取り残されたエンバーンは、無力で足手まといな自分に彼らから与えられた、安全基地を情けない思いで見回した。
彼らは私を昨夜私が燃やした厩に馬とフクロウごと閉じ込めると、まるで強盗団の様に出掛けて行ったのである。
なぜこの場所なのかとル―カスに尋ねると、彼は気さくそうに軽く微笑んでから、君が燃やしたからだよ、と答えた。
それでも納得しないと、彼は面倒な素振りを見せることなく、暗く煤けたこの厩が安全な理由を丁寧に説明してくれたのである。
「奴らは馬をここから離した別の場所に繋いで、ここを煤塗れにして使えなくした女を血眼で探しているんだ。まさか自分が燃やした現場に舞い戻っているなんて、頭の空っぽな奴らが思いつきもしないって事。」
馬の気配があれば誰かがいると簡単にバレるのではないだろうかとルーカスの返答に一瞬考えたが、彼は魅力的に微笑みながら片目を瞑って見せた。
彼は笑うと目尻に笑い皺が寄り、その笑顔は父親が子供に見せるような安心感のある素晴らしいものとなる。
私の顔は彼に自然と微笑み返しており、だが、それは彼には迷惑だったのか、彼は少々焦ったような声を出した。
「あ、あぁ。すぐに帰って来るから待っていて。はい、これは君の物でしょう。」
その言葉と剣を渡す行為に、私は反射的にイーオインを見返してしまったと思い返した。
そこで、私は彼と目が合い、私達はお互いに覚えていたと気付いたのだ。
ありがたいことにそこで話し合うには時間が無く、私は卑怯にも傷が痛むからとルーカスには理解したような顔を見せて、その場に横になって逃げたのだ。
「あぁ、もう面倒。どうしたらいいの。」
私は義父殺し、どころか、領主殺しだ。
私は公的に死んだものとなっており、ほんの数か月前までは修道院の見習いエレンとして生きていたのである。
「彼も死んだと思っていた。死んだと思っていたから私も死んだことになっていても、全然、構わなかったのに。」
私がエンバーン・シュエットだと公になれば、彼は私と言う重荷を背負うことになる。
領地も取り戻し、あんなにも、王都で成功している彼からまた全てを失わせることなど出来はしない。
身を引く。
そんなんじゃない。
私は卑怯にも、ただ、彼に嫌われたくないだけなのだ。




