第3話 その契約書、俺が読んでもいいですか
店の前に立った男は、名乗った。
「わしはゴードン・ベリル。工房区で一番の親方だ」
腕を組んだまま、俺を見下ろす。
「おまえ、眠らずに働けるそうだな。
うちで働け。給金ははずむ」
いきなりだった。
俺の返事も待たず、男は懐から一枚の紙を出した。
「契約書だ。ここに署名しろ。
悪い話じゃなかろうがァ」
差し出された紙を、俺は受け取った。
前世で、いやというほど見た書式だった。
労働契約。
俺はそれを、じっくり読み始めた。
*
「おい、なにをしとる」
ゴードンがいらだった声を出した。
「さっさと署名すればいいだろうがァ」
「読んでます」
俺は目を離さずに答えた。
「その契約書、俺が読んでもいいですか、って
最初に聞くべきでしたね。まあ、読みますけど」
ゴードンの眉が動いた。
俺は一行ずつ、確かめていった。
そして、見つけた。
「ここ」
俺は一つ目の条項を指さした。
「『給金には作業準備の時間を含む』。
つまり、準備は給金の外ってことですね」
「そ、そうだ。相場だろうがァ」
「相場じゃないです」
俺は次の行を指した。
「『道具の破損は職人が全額弁償』。
道具はあなたのものですよね。
使わせて、壊れたら職人が払う。おかしくないですか」
ゴードンの顔が、少し赤くなった。
*
俺は読み進めた。
罠は、まだあった。
「『契約期間中の退職は違約金として給金三ヶ月分』。
これ、辞めたら罰金ってことですよね」
「当然だろうがァ! 育ててやるんだからな!」
「育てる、ね」
俺は紙をめくった。
裏にも、小さな字があった。
「『残業は給金に含むものとする』」
俺は、そこで手を止めた。
胸の奥が、冷たくなった。
これだ。
前世で、俺を殺した一文。
いくら働いても、金が増えない仕組み。
「これ、いくら残業しても給金が上がらないってことですよね」
俺は顔を上げた。
「あなた、これで何人使い潰しました?」
ゴードンの表情が、止まった。
図星の顔だった。
目が、一瞬泳いだ。
*
「な、なにを言うか!」
ゴードンが声を張り上げた。
「こんなもの、どこの工房でも同じだろうがァ!」
その声で、通りの職人たちが集まってきた。
何事か、と俺たちを見ている。
ちょうどいい、と俺は思った。
「じゃあ、ギルドの規約と照らし合わせましょう」
俺は、この街に来てから調べたことを口にした。
住み込みで働く間、リゼに聞いていた。
この街のルールを。
「ギルド規約では、道具の破損弁償は
『職人の故意または重大な過失に限る』。
全額弁償を最初から契約に入れるのは、規約違反です」
集まった職人たちが、ざわついた。
「退職の違約金も、規約では『上限一ヶ月分』。
三ヶ月は、取りすぎです」
ざわめきが、大きくなった。
ゴードンの顔から、赤みが引いていった。
「そして残業を給金に含める条項。
これは規約で『別途支払うべし』と定められています」
俺は契約書を、ゴードンに突き返した。
「この契約書、規約違反だらけですよ」
*
ゴードンは、契約書を握りつぶした。
「くっ……こ、この生意気な!」
でも、もう怒鳴れなかった。
まわりに、職人たちがいる。
みんな、聞いていた。
「ゴードンの契約、そんなことになってたのか」
「道具の弁償、うちもやられてる……」
小さな声が、あちこちで上がった。
ゴードンは歯を食いしばって、俺をにらんだ。
「おまえ……名前は」
「三上ハル」
「覚えておくぞ。ハルとやら」
そう吐き捨てて、ゴードンは去っていった。
背中が、怒りで震えていた。
*
職人たちが、俺のまわりに残った。
「あんた、すごいな。あの契約書、ちゃんと読めるのか」
一人が言った。
「俺たち、字は読めても、あの手の書き方はわからなくて」
「わかりにくく書いてあるんですよ。わざと」
俺は答えた。
前世で、何度も泣かされた手口だった。
小さな字。
回りくどい言葉。
読み飛ばさせる仕掛け。
「困ったら、俺に見せてください。読みますよ」
職人たちの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当か!」
「助かる!」
俺は、少しだけ誇らしかった。
前世の苦しみが、初めて、人の役に立った。
呪いだと思った経験が、武器になっていた。
*
店に戻ると、リゼが心配そうに待っていた。
「ハルさん、ゴードン親方が来たって……大丈夫でしたか?
あの人、怒らせると怖いんです」
「契約書を断っただけだよ」
俺は肩をすくめた。
「あの人の契約、ひどかったからな」
リゼは複雑な顔をした。
「あの工房、徒弟の子たちが、いつも遅くまで働かされてて」
彼女はそう言って、うつむいた。
「特に、一番小さい子が、心配で……」
その一言が、俺の耳に残った。
一番小さい子。
俺はまだ、その子を知らない。
でも――
翌日の朝。
俺は工房区の路地で、その子を見かけることになる。
積み荷の下敷きになりかけて、ふらついている、
栗色の髪の、小さな女の子を。




