麻黄のふりは、難しい
ヴァルスの剣先は、アシュの喉から指一本分の位置で止まっていた。
魔王の身体なら、払うことはできる。王命を使えば、剣を下ろさせることも。
どちらも選べなかった。
「答えてください」
療養区の入口で、ネムが薬箱を抱えたまま立ち尽くしている。廊下の奥には負傷者がいる。ここで戦えば、巻き込む。
「今は言えない」
「それは、陛下ではないという答えと受け取ります」
「リュゼは生きてる」
剣先がわずかに動いた。
「どこに」
「人間領」
「誰の身体で」
ヴァルスはすでに答えへ近づいている。
アシュは息を吐いた。
「俺の」
ネムの耳が伏せる。
「では、あなたは」
名前を口にすれば、剣が来る。それでも、嘘を重ねて彼らの王を演じ続ける方が、もう耐えられなかった。
「アシュ・レイヴァン」
刃が走った。
肩が熱くなる。アシュは避けなかった。黒い血が床へ落ち、ネムが短く悲鳴を上げる。
「なぜ避けない」
「避けていいか、分からなかった」
ヴァルスの顔から、普段の冷静さが消えていた。
「冥脈塔を壊した勇者」
「ああ」
「妻と子を殺した男が、陛下の身体で何をしている」
「円環を壊すために、魂を交換した」
「質問へ答えろ!」
二撃目が上がる。
ネムが二人の間へ入った。
「どいてください」
「嫌です」
「その男は、旧棟を沈めた勇者です」
「今ここで陛下のお身体を殺せば、リュゼ様も戻れません」
ヴァルスの腕が止まる。
ネムは震えていた。それでも退かなかった。
「西部の瘴気濃度が上がっています。魔王核が必要です。殺すなら、せめて街を助けてからにしてください」
医師らしいのか、恐ろしいのか分からない提案だった。
ヴァルスは剣を下ろさないまま、アシュを見る。
「リュゼ様は、なぜあなたを選んだ」
「俺も聞いた。答えなかった」
「何を約束した」
「互いの民を私怨で傷つけない。円環を壊すまでは裏切らない」
「それだけですか」
「相手の身体を使い潰さない、とも言った。あいつは返事をしなかった」
ヴァルスの目に、嫌な理解が浮かんだ。
「昔からです」
「何が」
「ご自分だけを、損失へ含めない」
剣がようやく下がった。
「あなたを許したわけではありません」
「分かってる」
「王として認めたわけでもない」
「それも」
「陛下のお身体と、民を守るためです」
「十分だ」
ヴァルスは刃についた血を払った。
「肩の治療を。その後、軍議へ出ていただきます」
「俺を信用してないのに?」
「信用していない者を、見えない場所へ置く方が危険です」
ネムがため息をついた。
「お二人とも、話が終わったなら座ってください。床が血で滑ります」
◇
軍議室には、五つの部族の長が集まっていた。
羊角の老女、鱗に覆われた大男、羽根を畳んだ青年。リュゼの記憶には全員の名前と、兵数、食料の備蓄、過去に起こした反乱の回数まで残っている。
顔を見て最初に家族を思い出すアシュと違い、リュゼは相手を数字と危険度で覚えていた。
それが冷たいとは思わない。王が忘れれば、冬を越せない者が出る。
問題は、本人らしく振る舞えないことだった。
「西部都市の井戸が、三日以内に使えなくなります」
ヴァルスが地図へ紫色の石を置く。
「聖環塔を破壊しろ」
鱗の大男が言った。
「人間領へ瘴気が戻る」
アシュが返すと、部屋の空気が冷えた。
「戻せばよい。元はあちらのものだ」
「王都には五十万人いる」
「こちらで死ぬ十万は、数に入らぬか」
アシュは言葉に詰まった。
その間に、羊角の老女が机を叩く。
「陛下は変わられた。城が落ち、心まで人間へ売ったのか」
言い返す前に、身体に残るリュゼの癖が先に出た。
「報告を結論から」
全員が黙った。
ヴァルスだけが眉を寄せる。
今の一言は似ていたらしい。
アシュは記憶を頼りに、リュゼの座り方を真似た。肘をつかない。指を組まない。相手が話している間は目をそらさない。
「聖環塔を壊せば人間が死ぬ。壊さなければ、こちらが死ぬ。だから、塔ではなく地下導管を切る」
「片方だけ切れば圧力が逆流する」
羽根の青年が答えた。
「人間側と同時に止める」
「誰が」
「勇者」
嘲笑が起きた。
アシュは待った。怒鳴って止めれば、また王命になる。笑いが収まるまで、テイの名札を握った。
「信じろとは言わない。俺も、向こうにいる魔王を許してない」
言った瞬間、ヴァルスが目を閉じた。部族長たちは意味を取れず、互いの顔を見る。
「だが、あいつは約束を守る。少なくとも、民を数へ入れた時は」
鱗の大男が鼻を鳴らす。
「魔王を『あいつ』と呼ぶ王がおるか」
「……頭を打った」
ヴァルスが片手で額を押さえた。
ネムは笑いをこらえるため、耳を伏せた。
「三日待て」
アシュは続ける。
「その間に導管を止める準備をする。失敗したら、聖環塔を攻める判断はお前たちへ返す」
「王が決めぬと?」
「一人で決めた結果が、今日の療養区だ」
リクとテイ。
片方を救おうとして、別の一人を死なせた。
「俺は全員を救うと言う。多分、これからも言う。でも、それだけで薬も食料も増えない。だから、見えてないものがあれば言ってくれ」
上手い演説ではなかった。
返事もない。
羊角の老女が最初に席を立った。
「三日だ。四日目には、孫を連れて塔へ向かう」
続いて他の長も出ていく。
鱗の大男だけが扉の前で振り返った。
「以前の陛下なら、我らへ意見など求めなかった」
「以前の方がよかったか」
「まだ分からぬ」
扉が閉じる。
ヴァルスが地図を畳んだ。
「陛下の真似は、あまりお上手ではありませんな」
「分かってる」
「特に皮肉が足りない」
「練習した方がいいか」
「おやめください。被害が増えます」
ネムが小さく吹き出した。
ヴァルスは笑わなかった。
◇
夜、アシュはテイの妹へ会いに厨房を訪ねた。
ミレは兄と同じ金属の輪を角につけた女だった。鍋の前で豆を煮ながら、アシュの話を最後まで聞いた。
「私が薬の配分を変えた。そのせいで巡回が手薄になった」
魔王の姿で、勇者の罪を告げる。事情を説明できないため、言葉は歪んだ。
「兄は陛下の命令で死んだんですか」
「そうだ」
「なら、いつもと同じですね」
ミレは鍋をかき混ぜる手を止めなかった。
「陛下は毎日、誰かが死ぬ方を選ぶ。兄は、自分の番が来ただけ」
「怒らないのか」
「怒っています」
木杓子が鍋の底へ強く当たった。
「でも、今ここで泣いたら、夕食が遅れます。兄が一番嫌がる」
アシュは何もできなかった。
謝れば、自分が楽になるだけだ。
「テイの名を、記録へ残す」
「もう残っています。三十四年生きた、という数字だけ」
ミレが振り返る。
「陛下が覚えるなら、兄が辛い豆を嫌いだったことも覚えてください。いつも私の皿へ押しつけた。子どもみたいに」
「ああ」
「あと、歌が下手でした」
「それも?」
「死んだ人を、立派な人だけにしないで」
アシュは頷いた。
帰り道、帳面に書いた。
テイ。妹ミレ。辛い豆が嫌い。歌が下手。
名前の下に、初めて人間らしい一行が増えた。
◇
記録庫で古い本を探していると、黒い角の人形が棚の上に置かれていた。ノアが完成させ、ネムへ預けたらしい。
角は短くなっていない。
人形を取ろうとした拍子に、本が一冊落ちた。
革表紙には《魂位転換記録》とある。
開いた頁に、リュゼの字で追記があった。
――勇者の勝利を世界核が認識した際、勇者の身体に宿る魂を次代魔王核として回収する。
今、勇者の身体にいるのはリュゼだ。
交換前、二つ目の約束へ返事をしなかった理由が分かった。
アシュを魔王にしない代わりに、自分がもう一度災厄を引き受ける。今度は身体を残さず、魂だけを世界核へ差し出すつもりだった。
アシュは本を閉じた。
魔王の爪が、革表紙を突き破る。
「勝手に死ぬなって言っただろ」
誰も答えない。
棚の上の人形だけが、必要以上に大きな角でこちらを見ていた。




