許せないまま、話す
王都の朝は、鐘の数で始まる。
一つ目で市場が門を開け、二つ目で役所が動き、三つ目で神殿の祈りが始まる。勇者だった頃のリュゼは、その音を平和の証だと思っていた。
今は、鐘が鳴るたびに祈りが頭へ増える。
――勇者様、戦地の息子を。
――魔族との停戦など許さない。
――冬の配給を、うちの地区へ多く。
願いは人間の数だけあり、互いに食い合っている。
リュゼはアシュの執務机へ、届いた陳情書を三つの山に分けた。今すぐ対応するもの。三日以内。待たせても死者が出ないもの。
迷うたび、アシュの身体が知っている顔を思い出す。陳情書に書かれた町名を見れば、そこで握手した子どもや、食事を出した宿屋の夫婦が浮かぶ。
名前と顔ばかり覚えている。備蓄量や人口は曖昧なのに、宿屋の犬の名まで出てくる。
「非効率ね」
呟きながら、優先順位を一段上げた。
その宿屋の地区では、井戸が二つ止まっている。
「何が?」
背後から声がした。
ミアが扉にもたれている。片手に月輪焼きの袋を持ち、もう片方は背中へ隠していた。
「人の部屋へ入る時は、ノックを」
「三回したよ。返事なかった」
「聞こえなかった」
「また声、増えた?」
リュゼは答えず、陳情書へ視線を戻した。
ミアは袋から月輪焼きを三つ並べる。一つを自分の前へ、一つを向かいへ、残りを袋へ戻した。
「三つでは?」
「昨日、二つでいいって顔してたから」
「監視をやめたの?」
「食べた数で中身が戻るわけじゃないし」
ミアは椅子へ座った。背中へ隠していた紙を机の下へ押し込むのが見えた。
「何を隠したの」
「何でもない」
「あなた、嘘をつく時に左足を引くのね」
「今つくったでしょ、その癖」
「ええ」
「ずるい」
紙を取り上げると、神殿図書室の貸出票だった。
《歴代勇者帰還記録》
《封鎖都市アルディア救助者名簿》
《真名鏡の運用規定》
「一人で調べたの?」
「お兄ちゃんの中にいる人が、何も教えてくれないから」
「危険よ」
「その言い方、お兄ちゃんと同じ」
ミアの口調から、冗談が消えた。
「二人とも、危ないって言うだけ。何が危ないかは教えない。私が何も知らなかったら、言うことを聞くと思ってる?」
リュゼは書類を机へ置いた。
「知れば、巻き込まれる」
「もう巻き込まれてるよ。お兄ちゃんの身体を魔王が使ってる」
「声を小さく」
「ほら。また私にだけ我慢させる」
ミアは立ち上がった。
「私、お兄ちゃんが好きだよ。だから、お兄ちゃんが生きるなら他の人がどうなってもいいって、ちょっと思ってる」
その言葉に、リュゼは目を上げた。
「よくないって分かってる。でも思うの。お兄ちゃんみたいに、みんな助けたいなんて言えない」
正しい子どもではなかった。
だからこそ、信用できた。
「私も、妹と世界なら妹を選びたかった」
口にすると、十八年守ってきた壁が少しだけ崩れた。
ミアが座り直す。
「選ばなかったの?」
「選べなかった」
それ以上は言えなかった。
◇
昼前、神殿から迎えが来た。
最高司祭オルディスは、最上階の小部屋で一人待っていた。窓のない部屋には時計も装飾もなく、中央の卓に黒い結晶だけが置かれている。
「お久しぶりです、リュゼ様」
最初から名前を呼ばれた。
リュゼはアシュの顔で、練習した笑みを作る。
「人違いでは?」
「アシュ様は、私を見ると先にため息をつかれます」
「私も今、つきたいところよ」
「笑顔も違います」
「騎士団長にも言われたわ」
「改善はされたようです」
「採点しないで」
オルディスは黒い結晶へ指を置いた。魔王核の欠片だ。
「真名鏡が、あなたの魂を映しました」
「なら、どうして城門で止めなかったの」
「人前で捕らえれば、勇者の身体を傷つけます。何より、あなたが何をなさるか見たかった」
「趣味が悪いわね」
「職務です」
老人の声は穏やかで、責める響きがない。それがリュゼには気に障った。
「円環を壊せば、魔王へ集められていた災厄が世界へ戻る。承知していますか」
「十八年前、あなたに説明された」
「それでも?」
「ええ」
オルディスは記録板を卓へ並べた。
三代前の勇者は、災厄を七人へ分けた。七人全員が三日で自我を失い、互いを殺した。
二代前は大地へ返そうとした。北部一帯が五十年、人の住めない土地になった。
そしてリュゼの代では、一人へ集める旧来の方法へ戻した。
「勇者一人が怪物になる。その代わり、百万人は子どもを抱いて眠れる」
「それを善だと言うの?」
「いいえ」
オルディスは即座に否定した。
「悪だと分かった上で、他より死者の少ない方法を選んでいます」
「だから続けていい?」
「続けたいのではありません。やめた後の死者へ、責任を持てないのです」
リュゼは黒い結晶を見た。
理解できる。
理解できることが、ひどく不快だった。
「アシュ様の身体に、あなたの魂がある。予定どおり回収すれば、彼は次代魔王にならない。世界も維持されます」
「私は消える」
「はい」
「ミアは?」
「次の勇者へ選ばれる必要がなくなる」
条件としては完璧だった。
アシュとミアが助かり、世界も保たれる。十八年前に失敗したことを、今度こそ一人で片づけられる。
オルディスが契約書を差し出した。
「明日まで、お待ちします」
「待つ必要は――」
言いかけた時、アシュの声が頭をよぎった。
勝手に死ぬな。
まだ言われていないはずなのに、言う顔まで想像できる。
「考えるわ」
自分の口から出た言葉に、リュゼ自身が驚いた。
以前なら、考える時間など必要なかった。
◇
神殿を出ると、ミアが柱の陰に隠れていた。
「半分、見えているわよ」
「隠れる場所が細いんだもん」
「盗み聞き?」
「途中から」
ミアは古い帳面を抱えていた。
「セナさんって、妹さん?」
リュゼの足が止まる。
「どこで、その名を」
「封鎖都市の名簿」
差し出された頁に、救助者の名が並んでいた。
セナ・アルディア。十六歳。
年齢も、生まれた街も合っている。
「同姓同名よ」
「そうかもしれない」
ミアは反論しなかった。
「でも、その人はあとで孤児院を作ってる。肖像画も残ってた」
老女の絵が挟まれていた。目元はセナに似ている。似ているから何だ、と言い切るには、抱いている子どもの手首に青い糸の護符があった。
リュゼは絵へ触れられなかった。
「日記も少しだけ残ってる。でも、途中が破られてた」
読めるのは数行だけだった。
――姉が戦ってくれたから、私は生きた。
次の頁は破られている。
その後に残る一文。
――それでも、姉を許せない夜がある。
リュゼは目を閉じた。
許されていない。
その事実に、どこかで安堵した。簡単な言葉で十八年を片づけられるより、ずっとセナらしい。
「全部は見つからなかった」
ミアが言う。
「封鎖都市の地下書庫へ運ばれたみたい。行けば、続きがあるかも」
「行かないわ」
「怖い?」
「ええ」
リュゼが素直に答えると、ミアは驚いた顔をした。
「魔王でも怖いんだ」
「魔王だから、怖がってはいけない決まりがある?」
「ないけど。お兄ちゃんの顔で言われると変な感じ」
ミアは帳面を胸へ抱いた。
「私だったら、置いていかれたら怒る。生きてても、ずっと怒ると思う」
「そうでしょうね」
「でも、死んでほしいとは思わない」
リュゼは答えなかった。
それはセナの言葉ではない。ミアの言葉だ。
だから、勝手に自分への許しへ変えてはいけない。
◇
日没。
魂の糸がつながった途端、アシュの声が飛んできた。
『お前、消えるつもりだったな』
リュゼは目を閉じた。
「何の話?」
『儀式書を読んだ』
「勝手に本棚を漁らないで」
『娯楽棚は角が引っかかって取れなかった』
「棚のせいにしないで」
『今は角の話じゃない』
怒っている。
リュゼは窓辺に立ち、王都の灯りを数えた。東区に百二十七。西区に九十六。数えていれば、声を平らに保てる。
『勇者の身体にいる魂が回収される。最初から知ってたな』
「ええ」
『約束を破る気だった』
「返事はしていない」
『屁理屈だ』
「契約は文言がすべてよ」
『じゃあ今、返事しろ。勝手に死なない』
リュゼは東区の灯りを一つ数え直した。
「約束できない」
『どうして』
「私一人で、あなたとミアと世界が助かるから」
『俺の分まで決めるな』
「あなたなら、全員を救うと言って決めないでしょう」
『今日、一人死なせた』
声の強さが落ちた。
リュゼは数えるのをやめた。
『テイ。妹がミレ。俺が薬の配分を変えたせいだ』
「そう」
『全員を助けるって言って、見えないところで死なせた』
「それで、自分も数へ入れる気になった?」
『違う』
すぐに返事が来る。
『選ぶ責任からは逃げない。でも、お前が一人で消える答えだけは選ばせない』
「なぜ」
『腹が立つからだ』
リュゼは思わず眉を寄せた。
「理由になっていない」
『十分だ。お前、都合が悪くなると正しい理由を要求するな』
返せなかった。
百呼吸が減っていく。
「オルディスは、明日まで待つと言った」
『署名するな』
「命令?」
『頼んでる』
「頼み方が下手ね」
『知ってる。明日の日没まで、生きろ』
「一日だけ?」
『次の日は、また頼む』
魂の糸が細くなる。
リュゼは契約書を見た。
「分かった」
『本当に?』
「明日の日没までは」
『短いな』
「一日ずつ頼むのでしょう?」
返事の代わりに、アシュが息を吐く音がした。
糸が切れる直前、遠くで警報の鐘が鳴った。
王都の聖環塔。
同時に魂の向こうから、魔族領の警鐘が重なる。
両方の塔で、瘴気圧が上がり始めていた。




