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勇者と魔王は終焉を誓う――世界を壊す共犯者  作者: たつき


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3/5

勇者は、魔王の民を救えない

 魔王の身体に入ったアシュが目を覚ました時、誰かが喉へ薬を流し込んでいた。


 苦い。舌が痺れ、鼻の奥へ焦げた草の匂いが抜ける。


「吐かないでください」


 灰色の髪を短く切った少女が、アシュの顎を押さえていた。頭には獣のような耳がある。片方の先が、薬の臭いを嫌がるように伏せていた。


「水……」

「ありません」

「目の前に桶が」

「傷を洗った水です」

「先に言ってくれ」


 少女の後ろで、黒い鎧の男が腕を組んでいる。


 軍師ヴァルス。身体に残ったリュゼの記憶が、名と役職を教えた。妻はリオラ、息子はダン。そこまで浮かんだ瞬間、記憶は黒い壁にぶつかって途切れる。


「陛下」


 ヴァルスが低い声で呼んだ。


「ご自分のお名前を」

「リュゼ」

「間がありましたな」

「胸を刺されて城の三層分を落ちた。少し待て」

「頭も打たれたと?」

「ああ」

「便利な負傷です」


 灰髪の少女――ネムが胸の布を剥がす。傷は塞がりかけていたが、黒い血がまだにじんでいる。


「痛む場所は?」

「全部」


 ネムの耳がぴんと立った。


「陛下が痛いとおっしゃった」

「珍しいのか」

「腹を槍で貫かれた時は、『結論から報告しなさい』と」

「今は報告より薬をくれ」

「やはり頭を強く」

「その話はもういい」


 身体を起こすと、石の天井が低く迫った。魔王城の地下療養区らしい。寝台は足りず、毛布が通路まで並んでいる。血、汗、薬草。そこへ人間の病室にはない、湿った鉄のような瘴気の臭いが混じっていた。


「状況は」


 アシュが尋ねると、ヴァルスの顔から皮肉が消えた。


「上層は人間軍に占領されました。残存兵と住民、合わせて三千四百二十一名を地下へ移しています。負傷者六百二十三。重傷百八十七。抗瘴薬は四百人分です」


 アシュは毛布の列を見た。


 一人ずつに顔がある。角の折れた兵士。片腕を布で吊った老女。熱に浮かされ、母親の指を握る子ども。


「重傷者から使え」


 ヴァルスの眉が動いた。


「確認します。助かる見込みの低い者から、ですか」

「まだ助かる」

「全員には足りません」

「だから、死にかけてる者を先に」


 ネムが薬瓶を持ったまま口を挟んだ。


「陛下。抗瘴薬は、症状の軽いうちほど効きます。重症者一人へ三本使うより、初期患者三人へ一本ずつ使う方が――」

「子どもが苦しんでる」

「見えています」

「なら」

「見えているから、迷っているんです」


 ネムの声は震えていなかった。


 アシュは一瞬、言葉を失った。勇者として戦場へ出れば、傷ついた者を助けるのが役目だった。薬がないなら運び、魔物がいるなら斬る。目の前の命へ手を伸ばすことに、他の命の許可が必要だったことはない。


「子ども三人。まず熱を下げる。残りは軽症者へ回せ」


 ネムはヴァルスを見る。


「命令だ」


 アシュが言うと、二人の身体が一瞬強張った。


 ネムの手が意思に反して薬箱へ伸びる。


「今のは……」

「王命です」


 ヴァルスの目が冷える。


「魔王の言葉は、民の身体を縛ります」

「ただ治療しろと言っただけだ」

「命令された内容ではなく、命令したことが問題なのです」


 アシュは自分の喉へ触れた。


 リュゼは、この力を説明していなかった。


 いや、説明しなかったのではなく、使うことを前提にしていたのかもしれない。


「……悪かった」


 ネムの手が止まる。


「何がです?」

「勝手に身体を動かした」


 彼女は困ったように耳を伏せた。


「陛下から謝られると、余計に怖いです」

「どうしろっていうんだ」

「いつもどおりにしていただければ」

「それが一番難しい」


 ヴァルスは何も言わなかった。


          ◇


 重症の子どもは三人いた。


 翼の生えかけた少女。青い鱗を持つ少年。角がまだ柔らかい幼児。


 薬は予定どおり使われた。少女は夜までに熱が下がり、幼児は自分で水を飲めるようになった。青い鱗の少年だけは、呼吸が戻らなかった。


 アシュは少年の名を聞いた。


「リクです」


 ネムが答えた。


「十二歳。西門の伝令見習いでした」


 少年の母親は泣かなかった。身体へ布をかけ、アシュへ深く頭を下げた。


「薬を、ありがとうございました」


 礼を言われる筋合いはない。


 そう言おうとした時、療養区の奥で鐘が鳴った。


 初期症状だった巡回兵七人が一斉に倒れた。薬の配分が遅れ、そのうち二人の瘴気感染が急激に進んだのだ。西の避難路を見張る者が足りなくなり、地上から入り込んだ小型魔獣が物資庫へ侵入した。


 被害は食料二日分。負傷者四人。


 そして、見張りに戻ろうとしていた兵士テイが、魔獣の爪を受けて死んだ。


 ネムはテイの名札を帳面へ挟んだ。


「重傷者へ薬を使わなければ、リクはもっと早く亡くなっていました」


 慰める声ではなかった。


「ですが、テイは見張りへ戻れたかもしれません」

「俺のせいだ」

「決めたのは陛下です」


 言い換えてはくれない。


 アシュはテイの顔を見た。三十を少し越えた男で、右の角に金属の輪を三つつけている。胸元には、子どもが描いたらしい小さな絵が入っていた。


「家族は」

「妹が一人。厨房で働いています」

「名は」

「ミレ」


 アシュは帳面の余白へ書いた。


 テイ。妹、ミレ。


 ヴァルスが背後に立っていた。


「名前を覚えれば、死者が戻りますか」

「戻らない」

「では、何のために」

「忘れないためだ」


 ヴァルスはしばらく帳面を見ていた。


「以前の陛下は、人数だけを書かれました」

「人数も必要だ」

「あなたは両方を書くと?」

「書ける限りは」


 ヴァルスの目は少しも和らがなかった。


「そのために判断が遅れたら、また誰かが死にます」


 何も返せなかった。


          ◇


 療養区の奥には、壁が崩れて外気の入る場所があった。


 そこから黒い塔の残骸が見える。中央で折れた石柱に紫色の苔が張りつき、周囲の水たまりは油のような膜を浮かべていた。


 アシュはその塔を知っている。


 三か月前、自分が壊した。


「魔物を生み出す軍事施設だと聞いた」

「誰からです」

「神殿」

「人間の神殿が、我々の施設を正しく説明すると?」


 ヴァルスは瓦礫へ近づいた。


「冥脈塔です。人間領から押し流された瘴気を地中へ戻していました。あなた方の勇者が壊した日、三つの集落と療養区の旧棟が沈んだ」


 あなた方の勇者。


 今、その本人が隣にいる。


 瓦礫のそばで、片脚の少年が木片を削っていた。アシュを見ると顔を明るくする。


「陛下。また来てくれたんですね」

「また?」

「塔が倒れた時、僕を引っ張り出してくれた」


 少年は作りかけの人形を差し出した。黒い角を持つ女王。実物より角が大きく、表情は不自然なくらい笑っている。


「陛下です」

「角が大きすぎないか」

「強そうだから」

「実際は邪魔だぞ」


 少年が首を傾げる。


「何でもない」


 人形を受け取ろうとした瞬間、少年の指へ触れた。


 熱と痛みが、アシュの腕から胸へ流れ込む。塔が崩れた時の轟音。石に挟まれた脚。助けを呼んでも声が出ない恐怖。最後に、瓦礫を素手で持ち上げたリュゼの顔。


 アシュは膝をついた。


「陛下!」


 ネムが少年から手を離させる。


 少年の顔色は少し良くなっていた。


「魔王核が民の瘴気を引き受けたんです」

「リュゼは、いつもこれを」


 名前を口にしてから、アシュは止まった。


 ヴァルスが見ている。


「ご自分を、名前で?」

「……頭を打った」

「便利な言い訳にも、使用回数がございます」


 アシュは人形を受け取った。


「完成したら見せてくれ」

「はい」


 助けたのはリュゼだった。


 壊したのは自分だ。


 その言葉を頭の中で並べかけ、アシュはやめた。少年が見ているのは、罪を理解した勇者ではない。自分を助けた魔王の顔だ。


 今ここで沈んだ顔をすることまで、また自分の都合になる。


「名前は?」

「ノアです」

「ノア。次は、角を少し短くしてくれ」

「嫌です」

「即答か」


 少年が笑った。


 アシュも笑おうとしたが、うまくいかなかった。


          ◇


 日没が近づくと、頭の奥で細い糸が張った。


『アシュ』


 リュゼの声だ。


「聞こえる」

『そちらの被害は』


 最初に尋ねたのは自分の無事ではなく、被害の数だった。いかにもリュゼらしい。


「城は半分落ちた。負傷者六百二十三。今日、俺の判断で一人死なせた」


 返事が一呼吸遅れた。


『名前は』

「テイ。妹がミレ」

『覚えておくわ』


 慰めはなかった。その代わり、自分の責任へ一人加えた。


「黒い塔を見た」

『そう』

「軍事施設じゃなかった」

『ええ』

「知ってたなら、なぜ言わなかった」

『言えば、進軍を止めた?』


 アシュは答えられなかった。


 当時の自分は神殿の地図を信じ、塔から魔物が生まれる前に壊さなければと焦っていた。魔王から届いた停戦文書は罠だと決めつけ、開きもしなかった。


「分からない」

『でしょうね』

「俺が壊した」

『ええ』

「知らなかった」

『それも知っている』

「それで許されるとは思ってない」


 魂の糸の向こうが静かになる。


「俺の故郷の聖環塔は、お前が壊した」

『命令したのは私よ』

「壊せば人間の街へ瘴気が戻ると、知ってたか」

『知っていた』


 父の手を離した瞬間。煙の向こうへ消えた母の背中。幼いミアを抱え、振り返らず走った夜。


 怒鳴れば、少しは楽になるかもしれない。


「一日百人、こちらで死んでいた」


 リュゼが言った。


「数の話をするな」

『王は数を見ないと、次の日にもっと死なせる』

「だから俺の両親を選んだのか」

『あなたの両親を選んだわけではない。塔を選んだ。その中にいた人を、全員』


 言い逃れをしない声だった。


「事情は分かった」

『そう』

「許さない」

『それでいい』

「腹が立たないのか」


 しばらく返事がない。


『何も知らずに、化け物だから壊したと言われるよりはましよ』


 声が少し低くなった。


『事情を知った上で憎みなさい。私もそうする』


 百呼吸の終わりが近づく。


「ミアは」

『疑っている。賢い子ね』

「怖がってたか」

『ナイフを向けられたわ』

「怪我は」

『私が? ミアが?』

「両方」

『どちらもない。あなたの食生活については、長い説教を受けたけれど』

「何を言われた」

『月輪焼きは三つ』

「二つで十分だ」

『本人までそう言うの?』


 この話題だけ、声が少し軽くなった。


「ミアを頼む」


 言ってから、無責任だと分かった。故郷を壊した相手へ、妹を預ける。それでも今、人間側で正体を知っているのはリュゼだけだ。


『簡単に言うわね』

「お前しかいない」


 糸が切れる直前、リュゼが答えた。


『分かった』


 声が消える。


 アシュが顔を上げると、ヴァルスが通路の入口に立っていた。


「どなたと話しておられたのです」

「独り言だ」

「陛下は独り言を口にしません」

「頭を――」

「打った。その説明は本日で四度目です」


 ヴァルスの手は、すでに剣の柄へかかっていた。


「あなたは、誰です?」


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