勇者は、魔王の民を救えない
魔王の身体に入ったアシュが目を覚ました時、誰かが喉へ薬を流し込んでいた。
苦い。舌が痺れ、鼻の奥へ焦げた草の匂いが抜ける。
「吐かないでください」
灰色の髪を短く切った少女が、アシュの顎を押さえていた。頭には獣のような耳がある。片方の先が、薬の臭いを嫌がるように伏せていた。
「水……」
「ありません」
「目の前に桶が」
「傷を洗った水です」
「先に言ってくれ」
少女の後ろで、黒い鎧の男が腕を組んでいる。
軍師ヴァルス。身体に残ったリュゼの記憶が、名と役職を教えた。妻はリオラ、息子はダン。そこまで浮かんだ瞬間、記憶は黒い壁にぶつかって途切れる。
「陛下」
ヴァルスが低い声で呼んだ。
「ご自分のお名前を」
「リュゼ」
「間がありましたな」
「胸を刺されて城の三層分を落ちた。少し待て」
「頭も打たれたと?」
「ああ」
「便利な負傷です」
灰髪の少女――ネムが胸の布を剥がす。傷は塞がりかけていたが、黒い血がまだにじんでいる。
「痛む場所は?」
「全部」
ネムの耳がぴんと立った。
「陛下が痛いとおっしゃった」
「珍しいのか」
「腹を槍で貫かれた時は、『結論から報告しなさい』と」
「今は報告より薬をくれ」
「やはり頭を強く」
「その話はもういい」
身体を起こすと、石の天井が低く迫った。魔王城の地下療養区らしい。寝台は足りず、毛布が通路まで並んでいる。血、汗、薬草。そこへ人間の病室にはない、湿った鉄のような瘴気の臭いが混じっていた。
「状況は」
アシュが尋ねると、ヴァルスの顔から皮肉が消えた。
「上層は人間軍に占領されました。残存兵と住民、合わせて三千四百二十一名を地下へ移しています。負傷者六百二十三。重傷百八十七。抗瘴薬は四百人分です」
アシュは毛布の列を見た。
一人ずつに顔がある。角の折れた兵士。片腕を布で吊った老女。熱に浮かされ、母親の指を握る子ども。
「重傷者から使え」
ヴァルスの眉が動いた。
「確認します。助かる見込みの低い者から、ですか」
「まだ助かる」
「全員には足りません」
「だから、死にかけてる者を先に」
ネムが薬瓶を持ったまま口を挟んだ。
「陛下。抗瘴薬は、症状の軽いうちほど効きます。重症者一人へ三本使うより、初期患者三人へ一本ずつ使う方が――」
「子どもが苦しんでる」
「見えています」
「なら」
「見えているから、迷っているんです」
ネムの声は震えていなかった。
アシュは一瞬、言葉を失った。勇者として戦場へ出れば、傷ついた者を助けるのが役目だった。薬がないなら運び、魔物がいるなら斬る。目の前の命へ手を伸ばすことに、他の命の許可が必要だったことはない。
「子ども三人。まず熱を下げる。残りは軽症者へ回せ」
ネムはヴァルスを見る。
「命令だ」
アシュが言うと、二人の身体が一瞬強張った。
ネムの手が意思に反して薬箱へ伸びる。
「今のは……」
「王命です」
ヴァルスの目が冷える。
「魔王の言葉は、民の身体を縛ります」
「ただ治療しろと言っただけだ」
「命令された内容ではなく、命令したことが問題なのです」
アシュは自分の喉へ触れた。
リュゼは、この力を説明していなかった。
いや、説明しなかったのではなく、使うことを前提にしていたのかもしれない。
「……悪かった」
ネムの手が止まる。
「何がです?」
「勝手に身体を動かした」
彼女は困ったように耳を伏せた。
「陛下から謝られると、余計に怖いです」
「どうしろっていうんだ」
「いつもどおりにしていただければ」
「それが一番難しい」
ヴァルスは何も言わなかった。
◇
重症の子どもは三人いた。
翼の生えかけた少女。青い鱗を持つ少年。角がまだ柔らかい幼児。
薬は予定どおり使われた。少女は夜までに熱が下がり、幼児は自分で水を飲めるようになった。青い鱗の少年だけは、呼吸が戻らなかった。
アシュは少年の名を聞いた。
「リクです」
ネムが答えた。
「十二歳。西門の伝令見習いでした」
少年の母親は泣かなかった。身体へ布をかけ、アシュへ深く頭を下げた。
「薬を、ありがとうございました」
礼を言われる筋合いはない。
そう言おうとした時、療養区の奥で鐘が鳴った。
初期症状だった巡回兵七人が一斉に倒れた。薬の配分が遅れ、そのうち二人の瘴気感染が急激に進んだのだ。西の避難路を見張る者が足りなくなり、地上から入り込んだ小型魔獣が物資庫へ侵入した。
被害は食料二日分。負傷者四人。
そして、見張りに戻ろうとしていた兵士テイが、魔獣の爪を受けて死んだ。
ネムはテイの名札を帳面へ挟んだ。
「重傷者へ薬を使わなければ、リクはもっと早く亡くなっていました」
慰める声ではなかった。
「ですが、テイは見張りへ戻れたかもしれません」
「俺のせいだ」
「決めたのは陛下です」
言い換えてはくれない。
アシュはテイの顔を見た。三十を少し越えた男で、右の角に金属の輪を三つつけている。胸元には、子どもが描いたらしい小さな絵が入っていた。
「家族は」
「妹が一人。厨房で働いています」
「名は」
「ミレ」
アシュは帳面の余白へ書いた。
テイ。妹、ミレ。
ヴァルスが背後に立っていた。
「名前を覚えれば、死者が戻りますか」
「戻らない」
「では、何のために」
「忘れないためだ」
ヴァルスはしばらく帳面を見ていた。
「以前の陛下は、人数だけを書かれました」
「人数も必要だ」
「あなたは両方を書くと?」
「書ける限りは」
ヴァルスの目は少しも和らがなかった。
「そのために判断が遅れたら、また誰かが死にます」
何も返せなかった。
◇
療養区の奥には、壁が崩れて外気の入る場所があった。
そこから黒い塔の残骸が見える。中央で折れた石柱に紫色の苔が張りつき、周囲の水たまりは油のような膜を浮かべていた。
アシュはその塔を知っている。
三か月前、自分が壊した。
「魔物を生み出す軍事施設だと聞いた」
「誰からです」
「神殿」
「人間の神殿が、我々の施設を正しく説明すると?」
ヴァルスは瓦礫へ近づいた。
「冥脈塔です。人間領から押し流された瘴気を地中へ戻していました。あなた方の勇者が壊した日、三つの集落と療養区の旧棟が沈んだ」
あなた方の勇者。
今、その本人が隣にいる。
瓦礫のそばで、片脚の少年が木片を削っていた。アシュを見ると顔を明るくする。
「陛下。また来てくれたんですね」
「また?」
「塔が倒れた時、僕を引っ張り出してくれた」
少年は作りかけの人形を差し出した。黒い角を持つ女王。実物より角が大きく、表情は不自然なくらい笑っている。
「陛下です」
「角が大きすぎないか」
「強そうだから」
「実際は邪魔だぞ」
少年が首を傾げる。
「何でもない」
人形を受け取ろうとした瞬間、少年の指へ触れた。
熱と痛みが、アシュの腕から胸へ流れ込む。塔が崩れた時の轟音。石に挟まれた脚。助けを呼んでも声が出ない恐怖。最後に、瓦礫を素手で持ち上げたリュゼの顔。
アシュは膝をついた。
「陛下!」
ネムが少年から手を離させる。
少年の顔色は少し良くなっていた。
「魔王核が民の瘴気を引き受けたんです」
「リュゼは、いつもこれを」
名前を口にしてから、アシュは止まった。
ヴァルスが見ている。
「ご自分を、名前で?」
「……頭を打った」
「便利な言い訳にも、使用回数がございます」
アシュは人形を受け取った。
「完成したら見せてくれ」
「はい」
助けたのはリュゼだった。
壊したのは自分だ。
その言葉を頭の中で並べかけ、アシュはやめた。少年が見ているのは、罪を理解した勇者ではない。自分を助けた魔王の顔だ。
今ここで沈んだ顔をすることまで、また自分の都合になる。
「名前は?」
「ノアです」
「ノア。次は、角を少し短くしてくれ」
「嫌です」
「即答か」
少年が笑った。
アシュも笑おうとしたが、うまくいかなかった。
◇
日没が近づくと、頭の奥で細い糸が張った。
『アシュ』
リュゼの声だ。
「聞こえる」
『そちらの被害は』
最初に尋ねたのは自分の無事ではなく、被害の数だった。いかにもリュゼらしい。
「城は半分落ちた。負傷者六百二十三。今日、俺の判断で一人死なせた」
返事が一呼吸遅れた。
『名前は』
「テイ。妹がミレ」
『覚えておくわ』
慰めはなかった。その代わり、自分の責任へ一人加えた。
「黒い塔を見た」
『そう』
「軍事施設じゃなかった」
『ええ』
「知ってたなら、なぜ言わなかった」
『言えば、進軍を止めた?』
アシュは答えられなかった。
当時の自分は神殿の地図を信じ、塔から魔物が生まれる前に壊さなければと焦っていた。魔王から届いた停戦文書は罠だと決めつけ、開きもしなかった。
「分からない」
『でしょうね』
「俺が壊した」
『ええ』
「知らなかった」
『それも知っている』
「それで許されるとは思ってない」
魂の糸の向こうが静かになる。
「俺の故郷の聖環塔は、お前が壊した」
『命令したのは私よ』
「壊せば人間の街へ瘴気が戻ると、知ってたか」
『知っていた』
父の手を離した瞬間。煙の向こうへ消えた母の背中。幼いミアを抱え、振り返らず走った夜。
怒鳴れば、少しは楽になるかもしれない。
「一日百人、こちらで死んでいた」
リュゼが言った。
「数の話をするな」
『王は数を見ないと、次の日にもっと死なせる』
「だから俺の両親を選んだのか」
『あなたの両親を選んだわけではない。塔を選んだ。その中にいた人を、全員』
言い逃れをしない声だった。
「事情は分かった」
『そう』
「許さない」
『それでいい』
「腹が立たないのか」
しばらく返事がない。
『何も知らずに、化け物だから壊したと言われるよりはましよ』
声が少し低くなった。
『事情を知った上で憎みなさい。私もそうする』
百呼吸の終わりが近づく。
「ミアは」
『疑っている。賢い子ね』
「怖がってたか」
『ナイフを向けられたわ』
「怪我は」
『私が? ミアが?』
「両方」
『どちらもない。あなたの食生活については、長い説教を受けたけれど』
「何を言われた」
『月輪焼きは三つ』
「二つで十分だ」
『本人までそう言うの?』
この話題だけ、声が少し軽くなった。
「ミアを頼む」
言ってから、無責任だと分かった。故郷を壊した相手へ、妹を預ける。それでも今、人間側で正体を知っているのはリュゼだけだ。
『簡単に言うわね』
「お前しかいない」
糸が切れる直前、リュゼが答えた。
『分かった』
声が消える。
アシュが顔を上げると、ヴァルスが通路の入口に立っていた。
「どなたと話しておられたのです」
「独り言だ」
「陛下は独り言を口にしません」
「頭を――」
「打った。その説明は本日で四度目です」
ヴァルスの手は、すでに剣の柄へかかっていた。
「あなたは、誰です?」




