魔王は、勇者の笑い方を知らない
白い光が引いた時、リュゼは自分の身体が床へ崩れるのを見た。
正確には、あれはもう自分ではない。黒い角も、長い髪も、胸に埋まった魔王核も同じだが、中にいるのはアシュだ。
そしてリュゼの手には、勇者の大剣があった。
重い。
「こんなものを毎日振っていたの?」
声までアシュのものだった。低く、少し掠れている。
向かいで魔王の身体に入ったアシュが両手で頭を押さえた。長い爪が黒髪へ食い込む。
「うるさい……」
「何が聞こえる?」
「何百人も同時にしゃべってる。痛い、寒い、助けてって」
魔王核が民の苦痛を拾っている。リュゼには慣れた雑音だったが、初めて浴びれば立っていられない。
自分の方も静かではなかった。
――勇者様、娘を助けて。
――夫を戦場から帰して。
――魔族を一匹残らず殺して。
――どうして、うちの子ではなくあの子が助かったの。
人の祈りは、整列して順番を待ってはくれない。願いと恨みが同じ声量で頭の内側へ流れ込んでくる。
リュゼは奥歯を噛んだ。
「あなたも、大概ね」
「俺のせいみたいに言うな」
「勇者の身体の話よ」
「あとで聞く」
玉座の間の扉が、外から大きくへこんだ。
「勇者殿!」
騎士団長ガイルの声がする。三つ目の鐘と同時に、ようやく正しい扉へ着いたらしい。
リュゼは大剣を持ち直した。アシュの身体に残る感覚を探る。柄を握る位置、腰の落とし方、振り下ろす前に息を止める癖。筋肉は覚えていても、使う者が違えば全く同じにはならない。
「倒れて」
「言い方」
「急所は外すわ」
「それは当たり前だ」
「動かないで。私、この剣を使うのは初めてなの」
「先に言え!」
扉が破られ、人間軍がなだれ込んだ。
リュゼは大剣を振り下ろす。
刃が魔王の胸へ入った。心臓から指二本分、右。深さは見た目より浅くしたつもりだったが、アシュの顔が引きつる。
『深い!』
魂の奥へ直接、彼の声が響いた。
『魔王を倒したのよ。服だけ斬っても信じてもらえないわ』
『だからって限度があるだろ!』
『あなたの身体は丈夫なのでしょう?』
『今刺されてるのはお前の身体だ!』
床の亀裂が広がる。魔王の身体は石床ごと地下へ落ちていった。
「勇者様!」
人間兵がリュゼを囲む。
穴の下からアシュの気配は残っている。死んではいない。胸の痛みまで細く伝わってきた。
ガイルが崩れた床をのぞき込む。
「魔王は?」
「落ちたわ」
「追撃を」
「必要ない」
アシュならどう答える。
リュゼは大剣の血を振り払い、周囲を見た。人間兵の顔には疲労と恐怖、それから信じたいという色がある。勝ったと言ってやれば、彼らは剣を下ろせる。
「魔王は倒した」
一拍遅れて歓声が上がった。
魔王城の壁が震えるほどの声だった。抱き合う者、膝をつく者、神へ祈る者。その祈りがまたリュゼの頭へ流れ込む。
――これで家へ帰れる。
――魔族を追い詰めて、今度こそ全部終わらせて。
終わっていない。
始まったばかりだ。
◇
王都へ続く街道は、花びらと人で埋まっていた。
魔王討伐の知らせは軍馬より速かったらしい。城壁の外から中央広場まで、窓にも屋根にも人がいる。馬車の車輪が進むたび、乾いた夏草の匂いと、踏まれた花の青臭さが混ざった。
その中心を、リュゼはアシュの身体で歩いていた。
「勇者様!」
「息子を助けてくださって、ありがとうございます!」
「次は北の魔族を!」
表の声へ、言葉になる前の願いが重なる。
この子だけは。
うちの村を先に。
あの家より、私たちを。
リュゼは人数を数えた。沿道に約六千。護衛の兵が百二十。群衆が押し寄せた場合、南側の路地へ逃がせるのは半分。勇者として笑うより、事故が起きない配置へ兵を動かしたかった。
「勇者殿」
隣を歩くガイルが声を落とす。
「南の柵を二列にして。子どもが前へ押されている」
「承知しました。ですが、その前に一つ」
「何?」
「笑ってください」
リュゼは口角を上げた。
最前列の子どもが、母親の背中へ隠れた。
ガイルは咳払いをした。
「もう少し、柔らかく」
「笑っているけれど」
「今の顔では、勝利の報告より処刑の宣告が似合います」
「失礼ね」
「いつもの勇者殿なら、ここで『元の顔が悪い』と私のせいにします」
「元の顔は私のものでは――」
危ない。
リュゼは言葉を切り、アシュの記憶から表情を探した。目尻を少し下げる。口を大きく開かない。誰か一人ではなく、道の端まで見る。
歓声が強くなった。
彼は陽気だから笑っていたのではない。笑えば、目の前の人間が一晩だけ安心して眠れると知っていたからだ。
全員を救うなどという無謀な言葉を、なぜ捨てられなかったのか。
少し分かった。
理解したからといって、賛成する気はなかった。
城門をくぐる前、神殿の神官が銀色の鏡を掲げた。凱旋した勇者の身元と祝福を確認する《真名鏡》だ。
鏡面へアシュの姿が映る。
その輪郭の奥で、一瞬だけ黒い角が重なった。
リュゼの背中に冷たい汗が浮く。
鏡の脇に立つ最高司祭オルディスが、すぐ白布をかけた。
「戦闘の魔力で曇っております。正式な確認は後日に」
穏やかな声だった。
だが老人の目は、布ではなくリュゼを見ていた。
◇
アシュの家は、勇者の住まいにしては小さかった。
王から与えられた邸宅を断り、孤児院に近い家を選んだらしい。庭には乾ききっていない洗濯物が揺れ、玄関には片方だけの靴が転がっている。
扉を開けた途端、少女が飛び込んできた。
「お兄ちゃん!」
避ける暇はあった。
リュゼの身体なら、敵の矢でも避けられる。けれど今の身体は、少女を抱き止める準備を勝手に始めていた。腕が少し上がり、足が衝撃を受ける形へ開く。
身体に残った習慣が、持ち主より先に妹を知っている。
ミアが胸へ顔を押しつけた。
「よかった……」
リュゼの両腕は宙に残った。
「お兄ちゃん?」
「何?」
「そこ、ぎゅってするところ」
仕方なく腕を回す。
細い背中へ触れた瞬間、別の少女の感触が重なった。十八年前、出征前夜に抱いた妹セナ。あの時も、強く抱けば帰れなくなる気がして、すぐ手を離した。
リュゼはミアから一歩離れた。
「苦しいわ」
「ご、ごめん」
ミアは目元を拭い、笑った。
「ご飯できてるよ。お兄ちゃんの好きなの、ちゃんと残してある」
「先に食べればよかったでしょう」
「一人だと、味しないもん」
リュゼは返事をせず、靴を脱いだ。
「剣」
「何?」
「いつも玄関で外すよ。また壁を削ると大家さん来ちゃう」
言われた時には、鞘の先が漆喰を削っていた。
「……見なかったことにして」
「それ言う時、謝るの私なんだけど」
食卓には豆のスープ、薄く切った肉、丸い焼き菓子が並んでいた。
ミアは向かいに座り、リュゼの顔を見た。
「魔王って、どんな人だった?」
「厄介な女」
「お兄ちゃん、女の人の悪口は言わないよ」
「魔王よ」
「魔王でも女の人でしょ」
リュゼは焼き菓子を一つ取った。
ミアの目が、その手へ落ちる。
「食べないの?」
「今、食べているでしょう」
「一個だけ?」
「十分よ」
「お兄ちゃんが?」
心底おかしいものを見た顔だった。
「戦いのあとは節制するものよ」
「しないよ。三個食べて、夜にお腹痛いって言う人だもん」
「勇者として問題があるわね」
「自分で言うの?」
リュゼは二つ目を取った。
ミアは指を一本立てる。
「あと一個」
「食べられない」
「甘いものは別のお腹だって」
「その理屈を採用した覚えはないわ」
ミアの指が止まった。
「今日のお兄ちゃん、変だね」
笑顔のまま言ったが、目は笑っていない。
「魔王を倒した直後よ」
「うん。疲れてるよね」
それ以上は聞かなかった。
食後、リュゼが寝室へ入ると、ミアも水差しを持ってついてきた。大剣を左側の壁へ立てかけたところで、背後から声がする。
「そっちに置くんだ」
「どちらでも同じでしょう」
「お兄ちゃん、右にしか置かないよ。寝ぼけて左へ手を伸ばして、壁を殴ったことあるから」
随分と具体的な失敗だった。
「今日は間違えただけ」
「そっか」
ミアは水差しを机へ置いた。
「お兄ちゃんって、困ると耳を触るんだよ。知ってた?」
リュゼの指は、すでに左耳へ伸びていた。
ミアの笑顔が消える。
「でも、そっちじゃないんだよね」
少女は一歩下がり、腰の後ろから小さな果物ナイフを抜いた。震えてはいるが、切っ先を下げない。
「お兄ちゃん、今どこにいるの?」
「生きているわ」
「本当?」
「胸を刺されて、城の地下へ落ちたけれど」
「それ、生きてるって言っていいの?」
「死んでいない」
ミアは唇を噛んだ。
「お兄ちゃんしか知らないこと、聞くから」
「私は答えられない」
「どうして」
「私はお兄ちゃんではないから」
リュゼがそう言うと、ミアの刃先がわずかに下がった。
「ごまかさないんだ」
「ごまかして信じさせても、あとで困るでしょう」
「誰が?」
「主に私が」
ミアはナイフを握ったまま、しばらく考えた。
「何者なの」
「今は言えない」
「味方?」
「アシュを元へ戻すまでは」
「そのあとは?」
「分からない」
正しい答えを用意してやることはできた。妹を安心させるための言葉なら、アシュの記憶にいくつもある。
だが、この少女は都合のいい言葉を欲しがっていない。
「呼べば、外に兵がいるよ」
「そうね」
「私が叫んだら、あなたを捕まえる」
「おそらく、あなたより先に私が何人か倒すことになる」
「脅してる?」
「事実を言っている」
「そういう言い方、すごく怖い」
ミアは目元を乱暴に拭った。
「今は叫ばない。でも、信じたわけじゃないから」
「賢明ね」
「毎日、三つ食べてもらう」
「何を?」
「月輪焼き。お兄ちゃんのふり、ちゃんとして」
「監視の方法がおかしくない?」
「分かりやすい方がいいもん」
ナイフをしまい、ミアは扉へ向かった。
「お兄ちゃんを帰して」
背中を向けたまま言う。
「何でもして、とは言わない。誰かを殺して帰ってきても、お兄ちゃんが喜ばないから」
リュゼは答えられなかった。
ミアは扉を閉める直前、振り返った。
「あと、その剣。右」
扉が閉じた。
リュゼは大剣を右側へ置き直した。
机の上には、ミアが忘れた紙が一枚残っていた。
騎士団長ガイル殿へ。
帰ってきた兄が、兄ではありません。
そこまで書かれ、続きは空白だった。
リュゼが紙を手に取った時、右手の甲に黒い紋様が一瞬だけ浮かんだ。
魔王印。
すぐに消えたが、窓の外から別の気配を感じた。
向かいの神殿塔。その最上階で、最高司祭オルディスがこちらを見ていた。




