勇者の次は、魔王になる
魔王城の地下で、三つ目の鐘が鳴り始めていた。
黒い石床を埋める術式の中央で、アシュは魔王リュゼと向き合っていた。互いの胸に手を置き、呼吸が触れるほど近くに立っている。半刻前まで剣をぶつけていた相手とする格好ではない。
「最後に確認するわ」
リュゼの指が、アシュの胸当ての隙間へ触れた。
「私の身体で死なないこと」
「そっちも、俺の顔で人を殺すな」
「私にだけ難しい条件を出していない?」
「日頃の行いだろ」
彼女は言い返さなかった。代わりに、床を走る光へ目を落とした。
魔王が黙ると、かえって落ち着かない。
「まだ何か隠してるな」
「魔王に秘密がなかったら、少しがっかりしない?」
「今さら評判を気にするのか」
「死後の評価は長く残るもの」
三つ目の鐘が、城の石壁を震わせる。
リュゼが顔を上げた。その目には恐れよりも、決め終えた者の静けさがあった。
「あなたを次の魔王にはしない」
白い光が二人の足元から噴き上がった。
◇
半刻前。
勇者アシュ・レイヴァンが玉座の間へ踏み込んだ時、魔王は戦支度ではなく書類の仕分けをしていた。
壁一面に地図が張られ、赤や青の針が街道と井戸を埋めている。長机には配給表、傷病者名簿、冬までに必要な薪の量。金貨の山も、人骨を飾った燭台もない。
アシュが想像していた悪の居城より、王都の役所に近かった。ただし、窓の外では炎が上がり、廊下には血の跡が続いている。
「遅かったわね」
長机の向こうで、リュゼが紙束の端を揃えた。
「途中の扉が多すぎる」
「魔王城だもの。玄関から寝室まで見通せたら落ち着かないでしょう」
「侵入者への嫌がらせかと思った」
「住人のプライバシーよ」
彼女は最後の一枚を棚へ収め、鍵をかけた。額から後ろへ伸びた二本の角と、腰まで落ちる黒髪。血の色を忘れたような顔には、城を落とされかけた王の焦りがない。
「一人?」
「仲間は下で戦ってる」
「置いてきたのね」
「道が崩れた。ガイルたちは別の階段から来る」
「騎士団長ガイル。城内で二度、同じ厨房へ戻ってきた大男?」
「……もう会ったのか」
「部下が捕らえたの。地図を渡して放したわ」
「敵に道を教える魔王があるか」
「厨房の鍋を三つひっくり返されたのよ。戦争にも限度はあるでしょう」
ガイルならやる。アシュは反論をやめ、背負っていた大剣を抜いた。
「魔王リュゼ。ここで終わらせる」
「そう」
リュゼは机の脇に立てていた細剣を取った。
「では、仕事を片づけましょう」
最初の一撃で玉座の肘掛けが飛んだ。
アシュの大剣を細剣が受け流し、銀の切っ先が頬をかすめる。浅い傷から落ちた血を、リュゼは見もしなかった。
「踏み込む時、左肩が上がる」
「敵に稽古をつけられるほど落ちぶれてない」
「なら直しなさい。次は喉へ入るわ」
予告どおりの突きを柄で弾く。間合いを詰めて肩をぶつけると、リュゼの背が長机へ当たった。鍵をかけ忘れた引き出しが開き、中から木札が床へ散る。
木札には一枚ずつ名前が刻まれていた。
「踏まないで」
リュゼの声が変わった。
アシュは反射的に足を引いた。その一瞬に脇腹を斬られる。
「今、避ける場所を間違えただろ」
「避けたんじゃない。札を踏むなと言われた」
「戦場で敵の言うことを聞く人、初めて見たわ」
「言った本人が驚くな」
アシュは床の札を横目で見た。年齢らしい数字と、居住区らしい記号。戦死者の名札だと気づく。
リュゼが三歩下がり、細剣を構え直した。
「あなたは名簿を見る時、最初に人数を数える?」
「名前を見る」
「だから遅いのね」
「何が」
「決めるのが」
黒い刃が閃く。
アシュは左肩をわざと上げ、彼女が予測した軌道から大剣を外した。柄を手放して手首をつかむ。
「俺の癖を、どこで覚えた」
「勇者は有名人でしょう。研究くらいするわ」
「俺が剣を教わったのは地方の小さな孤児院だ。見物客はいなかった」
リュゼの目がわずかに細くなった。
「今日会ったばかりなのに、よくしゃべるのね」
「都合が悪いと、すぐ話を切るな」
彼女が膝を跳ね上げた。アシュは手を放して距離を取る。その拍子に、胸元の護符が床へ落ちた。
青い糸を編んだだけの輪だ。編み目はそろっておらず、一か所だけ大きな結び目がある。義妹のミアが三度作り直して、最後には「不格好な方が失くさない」と言い張ったものだった。
リュゼの細剣が止まった。
アシュはその隙へ踏み込み、剣先を彼女の喉へつける。
「これを知ってるのか」
リュゼは護符を見たまま答えない。
「お前の城に、同じものがあるのか」
「敵が止まったのに、刺さないのね」
「質問に答えろ」
「その甘さ、まだ残っていたの」
まだ。
初対面の相手が使う言葉ではなかった。
「前にも会ったみたいに言うな」
「あなたは覚えていなくても、私は知っている」
細剣が大剣を跳ね上げる。同時に床を黒い魔力が走った。
アシュが後ろへ跳ぶと、玉座の下で爆発が起きた。黒い石が割れ、床そのものが一段沈む。隙間から差し込んだ白い光が、舞い上がった紙と埃を照らした。
城の地下へ根を張る、巨大な結晶が露出していた。
表面を流れる光は、ゆっくりと明滅している。明るくなるたび、耳ではなく歯の奥に声が響いた。泣く声、祈る声、何かを呪う声。区別がつく前に次の声が重なる。
「世界核……」
リュゼが細剣を下ろした。
「知ってるのか」
「十八年、毎晩夢に見る程度には」
結晶には無数の名が刻まれていた。二列に並ぶ勇者と魔王の名。新しいものほど文字が白く、古いものは石の奥へ沈みかけている。
最下部に、自分の名があった。
勇者 アシュ・レイヴァン。
その隣に刻まれた文字を、アシュは二度読んだ。
次代魔王 アシュ・レイヴァン。
「まだ、お前を倒してない」
「ええ」
「なのに、どうして俺の名がある」
「勇者に選ばれた時点で決まっているから」
リュゼは胸元の留め具を外した。黒い魔王印の下に、焼け焦げた古い紋章が残っている。
アシュ自身の胸にもある、勇者の印だった。
「十八年前、私は勇者だった」
遠くで、城の鐘が一つ鳴った。
アシュは彼女の顔と印を見比べた。冗談を言う顔ではない。そもそも、こんな冗談を用意する理由がない。
「前の勇者は魔王を倒して死んだと聞いた」
「王都には、そう発表されたわ。墓もあるでしょう。中身は空だけれど」
「じゃあ、お前は――」
「魔王を倒したあと、ここへ連れてこられた」
リュゼが世界核へ手を当てる。白い光が彼女の腕を昇り、魔王印の周囲で黒く濁った。
「戦争で生まれた憎しみ。病で死んだ者の恨み。土地にたまる瘴気。世界はそれを消せない。だから、一人へ集めるの」
結晶の奥で、誰かが叫んだ。
アシュは声の一つに聞き覚えがある気がした。故郷が瘴気に沈んだ日、家の外で父が叫んだ声。そんなはずはないと考えるより早く、指が剣の柄へ食い込んだ。
「その一人が、魔王か」
「勇者よ。集め終わったあとに、そう呼び直すだけ」
リュゼは自分の胸を指した。
「大勢を眠らせるために、一人へ悪夢を押し込む。よくできた仕組みでしょう」
ほめてはいなかった。
アシュは世界核に刻まれた自分の名へ触れた。冷たいはずの結晶が、皮膚の下まで熱を残す。
「俺が勝てば、お前みたいになるのか」
「ええ」
言ったあとで、アシュはリュゼを見る。
「悪かった。今の言い方」
「訂正する余裕があるなら、少しは取り乱したら?」
「頭が追いついてない。怒るのはあとにする」
リュゼは一度だけ、護符へ視線を落とした。
「怒る時間が残ればいいけれど」
二つ目の鐘が鳴った。
人間軍が第二防衛線を越えた合図だ。
「どちらが勝っても、世界核は次を作る。あなたが私を殺せば、あなたが魔王になる。私があなたを殺せば、新しい勇者が選ばれる」
「逃げれば?」
「世界核が勇者印を通じて追う。あなたの大切な者を、次の候補として」
ミアの笑った顔が浮かんだ。
ミアは笑って見送った。泣けばアシュが旅立ちにくくなると分かって、最後まで我慢した顔だ。
「候補は血縁か」
「血ではない。守られた者が、次に誰かを守りたいと願う。その願いを世界核が拾う」
アシュは護符を拾い、手首へ巻いた。
「なら、世界核を壊す」
「今のままでは近づけないわ。勇者の身体は世界核の外側に、魔王の身体は内側に縛られている」
「両方必要ってことか」
リュゼは崩れた玉座の下から、円形の術式を露出させた。古い線の上に、新しく書き足した跡がある。血と銀の粉、それから何度も消して引き直した傷。
「世界核が見ているのは魂ではなく、身体に刻まれた印。なら、魂だけを入れ替える」
彼女がアシュを見る。
「私が勇者の身体で勝利を宣言する。あなたは魔王の身体で世界核の内側へ入る。まずは円環が完成したと錯覚させ、調べる時間を作る」
「壊し方は分かってないのか」
「分かっていたら、十八年も魔王をしていないわ」
「成功する確率は」
「数字を出せるほど試した者がいない」
「失敗したら」
「二人とも消える。魂が混ざる。戻れない。順不同」
「最後のだけ軽く言うな」
「重く言えば避けられるの?」
避けられない。
三つ目の鐘が鳴るまで、もう長くない。
アシュは術式の中央へ入った。
「条件がある」
「聞きましょう」
「互いの民を、私怨で傷つけない」
「ええ」
「相手の身体を勝手に使い潰さない」
リュゼは答えず、術式の線を爪先で確かめた。
「返事」
「聞いているわ」
「聞いたかどうかは聞いてない」
「努力する」
「お前がそれを言う時は、やる気がない時だろ」
「今日会ったばかりなのに、ずいぶん詳しいのね」
また話を切られた。
「最後。円環を壊すまでは、裏切らない」
「分かったわ」
「二つ目も言え」
城の奥で、三つ目の鐘が鳴り始めた。
リュゼが術式の反対側へ立つ。互いに手を伸ばし、胸へ触れた。
彼女の心臓は、思ったより速かった。
「お前も怖いんだな」
「今それを言う?」
「少し安心した」
「最悪」
床の光が二人の足へ絡みつく。
リュゼは目をそらさなかった。
「私の身体で死なないで」
「お前もだ」
「それは約束できない」
「なら、俺も返事をしない」
リュゼの眉が動く。
「面倒な男ね」
「知ってる」
三つ目の鐘が鳴りきった。
白い光が、勇者と魔王を呑み込んだ。




