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七禍島の第八の死者  作者: アコンプリスの人


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9/12

第八章 二つの名前の死者

 予備鑑定の連絡が届いた翌朝も、遺体は島に残されていた。

 海況はまだ完全には戻らず、搬送用の艇が入れるのは夕方になるという。

 それまでの数時間、死者は血禍の間ではなく、館の客室に移されていた。

 九条が選んだ部屋だった。

「ここが一番温度を保てる」

 そう説明したが、鳳には別の理由もわかった。

 七つの札も、鏡も、鐘の音もない部屋だった。

「会いますか」

 九条が訊いた。

 鳳は客室の前で立ち止まっていた。

「会う、という言い方でいいんでしょうか」

「遺体を見るかどうか」

「それなら、見ます」

「一人では入れない」

「真壁さんに言われましたか」

「言われなくても」

 九条は扉を開けた。

 遺体の顔から、焦げた布は除かれている。損傷を洗浄し、白い布で首元まで覆ってあった。生前の黒羽宗一郎の顔を完全に取り戻したわけではない。それでも、鏡の影や焼けた見立てではなく、一人の人間の顔に戻っていた。

 鳳はベッドの横へ立った。

「兄は、もっとよく笑う人でした」

「二十一年前は」

「はい」

「人は変わる」

「知っています」

「死体は、最後の顔だけを残す。人生全部の顔じゃない」

 鳳は九条を見た。

「慰めてくださっているんですか」

「説明してる」

「ありがとうございます」

「だから礼は、結果が出てから」

 鳳の口元が、ほんの少し緩んだ。

 死者の右手首には手術痕がある。眉尻の傷。左耳の後ろに、小さな黒子。子どもの頃、兄が髪を短くした夏に見つけ、鳳が鉛筆で印をつけようとして怒られた場所だった。

「兄です」

 鳳は言った。

「今度は、似ているからではありません。僕が覚えている人です」

 九条は否定しなかった。

 ただ、布の外へ出ていた死者の手を内側へ戻した。

「記録には、鑑定結果で書く」

「はい」

「あなたの中では、先に決めてもいい」

 鳳は長く息を吐いた。

「兄は、僕を守ったつもりだったんでしょうね」

「たぶん」

「でも、僕は守られた記憶より、置いていかれた記憶の方が長い」

「両方、本当でいい」

 鳳は兄の顔へ視線を戻した。

「死んだ人に怒ってもいいですか」

「死体は怒られても傷つかない」

「九条先生らしい答えです」

「生きている人が我慢する必要もない」

 部屋を出ると、真壁が廊下の窓際に立っていた。待っていたとは言わない顔をしている。

「大丈夫か」

「大丈夫ではありません」

「そうか」

「でも、動けます」

「それは聞いてない」

 鳳は少し迷い、言い直した。

「一人にはならない方がいいと思います」

「最初からそう言え」

 二階堂が階段から上がってきた。

「すごい。鳳先生が自己申告した」

「珍しい症例みたいに言わないでください」

「九条、記録しといて」

「してる」

「してるんですか」

 鳳が九条を見る。

「比喩」

 九条は顔色一つ変えなかった。

 黒羽の未送信書類を整理していたその時、九条が遺留品として保全していた銀のタイピンを取り出した。側面に、装飾品には不要な微細なスロットがある。

 調べると、タイピンそのものが薄型の録音機だった。内部に三つの記録が残っていた。

 一つ目は、二週間前の依子との会話。

『父の手帳を出してくれ』

 黒羽の声。

『出したら、父は死者を弄んだ人間になる』

 依子の声。

『そうしたんだ』

『父は島を守ったんです』

『六人を七つへ分けて、俺を殺したことにした』

『あなたは生きた』

『弟の中では死んだ』

 二つ目は、島へ来る前日の独白だった。

『鷺宮依子は協力すると言った。父親の記録を開き、七禍館を解体することに同意した。ただし、彼女がどこまで本気かはわからない。火野朱里が島へ来る。彼女は告発を計画している。依子がそれを知れば、利用するかもしれない』

 そこで一度、長い沈黙が入る。

『恭介を呼んだ。建物の嘘を、俺より正確に読む。会えば、名乗れると思っている。二十一年も名乗れなかった人間が、今夜だけうまくできるとは思えないが』

 三つ目には、鳳の名が付けられていた。

『恭介へ』

 録音の中の声が、初めて兄の声に聞こえた。

 記憶の中より低く、掠れている。けれど言葉の前に短く息を止める癖は変わらない。

『俺が黒羽宗一郎として死んだら、その名前を奪わないでほしい。黒羽宗親がくれた名だ。あの人がいなければ、俺は二十一年前に本当に死んでいた』

『でも、鳳悠一を血禍の死者のままにしないでくれ。勝手な頼みだと思う。俺はお前に、勝手なことしかしていない』

『二十一年前、地下設備室で六人が死んだ。発電機の試運転を強行した会社と、祭りを中止しなかった保存会の責任だった。鷺宮征一は死体を動かした。海、火、土、風、鏡、音。六人の死因を消し、最後に俺の名を血禍へ置いた』

『俺が逃げたからだ。俺が生きていると、六人が同じ場所で死んだことが残る。だから、死者にされた』

『最初の数年は、お前を巻き込むと思った。その後は、連絡しなかった時間を説明できなくなった』

『父さんが死んだ年、家へ七回電話しようとして、最後の番号を押さなかった。お前の講演にも行った。呼べる距離にいたのに帰った』

『お前を七歳のまま守るつもりで、自分だけ十九歳の夜から動いていなかった』

『証拠が揃ったら帰ると決め、条件を増やした。本当は証拠がなくても、お前に信じるかどうかを選ばせられた』

『だから、守ったとは言わない。巻き込まなかったことと、選ばせなかったことは別だ』

『島へは仕事として呼ぶ。兄として呼べなかったことを、最後にもう一度ごまかす形になる』

『会ったら、黒羽宗一郎です、と言ってから、鳳悠一だった、と言う。どちらも俺の名前だから』

『会って謝る。謝っても戻らないものを、戻らないまま受け取る』

 録音はそこで途切れていた。

 録音が切れたあとも、鳳は再生装置を見なかった。

 窓の外で波が館の壁へ当たり、二拍遅れて低い音が上がる。

「兄は、僕に会うことを最後にしたんですね」

 誰も急いで答えなかった。

「帰ることを、全部の後へ置いた」

「後回しにした」

 真壁が言った。

「はい」

「美化しない方がいい」

「していません」

 鳳の声に、初めて明確な怒りが混じった。

「兄は、僕を守ったんじゃない。少なくとも、二十一年間ずっとではない。最初は危険から守った。その後は、自分が責められる場面から逃げた」

「録音で欠点まで先に認められると、僕が怒る場所まで決められた気がします」

「決められた場所で怒らなくていい」

 真壁が答えた。

「録音にないことを言え。本人が想定してない言葉で」

「聞く人はいません」

「俺たちはいる」

 二階堂が言った。

「返事を届ける相手にはなれない。でも、なかったことにはさせない」

 鳳はしばらく黙った。

「兄さん」

 呼びかけは、録音機ではなく、机の空いた席へ向いた。

「僕は、あなたが生きていたと知りたかった。証拠がなくても、危険が残っていても。信じるか、会うか、待つか、怒るかを、自分で決めたかった」

 声は震えなかった。

「僕を守るために選択肢を奪ったと言われても、感謝できません。父の葬式へ来なかったことも、母を待たせたことも、僕の講演を見て帰ったことも、許せません」

 九条は何も挟まなかった。

「それでも、生きていたことは嬉しいです」

 鳳は一度、目を閉じた。

「嬉しかった時間が、二十一年間のどこかに本当にあった。それを、殺された夜にしか受け取れなかったことが、いちばん腹立たしい」

 二階堂が視線を伏せた。

 真壁は録音機の停止表示を確認した。

「その返事も記録するか」

「いいえ」

 鳳は言った。

「これは兄の事件記録ではなく、僕のものです」

「わかった」

 真壁はそれ以上求めなかった。

 五通の手紙は一通ずつ日付と状態を記され、証拠袋へ収められた。

 送られなかった言葉も、今度は順番を失わなかった。

 二階堂が停止ボタンを押す。

「広報としては、最悪の原稿だな」

「どこがですか」

「言い訳が長い。結論が遅い。聞く相手が一番欲しい言葉を、最後まで言ってない」

「一番欲しい言葉?」

 二階堂は鳳を見た。

「会いたかった、でしょ」

 鳳は目を伏せた。

「兄は、そういうことを言わない人でした」

「だから俺が補った」

「勝手ですね」

「公的な記録では補わない。鳳悠一さんが生き、黒羽宗一郎として暮らし、ここで殺されたことを、確かめた順に書く」

「お願いします」

 真壁は三つ目の録音をもう一度確認した。

 依子が朱里の計画を利用する可能性を、黒羽は予想していた。

 では、なぜ一人で鐘楼へ行ったのか。

 答えは録音の最初にあった。

 依子は協力すると言った。

 黒羽は、二十一年前に自分の名を書いた少女が、二十一年後にはそれを消す側へ来ると信じた。

 信じた相手に呼ばれたから、警戒しながらも会いに行った。

「殺人の動機は、父親の名だけじゃない」

 真壁が言う。

「黒羽は依子を、隠蔽を終わらせる証人にしようとした。依子にとっては、自分が二十一年守ったものを、当事者の一人に否定されることになる」

「しかも鳳先生の前で」

 二階堂が続ける。

「彼女は黒羽さんを、血禍の死者に戻したかった。黒羽宗一郎として告発する人間ではなく、二十一年前に死んだ鳳悠一として」

 九条が言った。

「だから顔と指紋を隠した。すぐ黒羽に戻らないように」

「でも血は残した」

 鳳が死者の採血管を見る。

「いずれ僕との関係が出る。兄として発見させるために」

「血禍」

 二階堂が低く言った。

「最後の見立てだけ、本当の名前へつながってる」

 真壁は首を横に振った。

「つながっているんじゃない。犯人が、そう読ませようとした」

「違う?」

「鳳悠一だから殺したんじゃない。黒羽宗一郎が告発しようとしたから殺した。犯人は死後、都合のいい方の名前だけを残した」

 鳳は静かに頷いた。

「兄は、二つの名前で生きた。どちらか一つに戻すことも、奪うことになります」


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