第八章 二つの名前の死者
予備鑑定の連絡が届いた翌朝も、遺体は島に残されていた。
海況はまだ完全には戻らず、搬送用の艇が入れるのは夕方になるという。
それまでの数時間、死者は血禍の間ではなく、館の客室に移されていた。
九条が選んだ部屋だった。
「ここが一番温度を保てる」
そう説明したが、鳳には別の理由もわかった。
七つの札も、鏡も、鐘の音もない部屋だった。
「会いますか」
九条が訊いた。
鳳は客室の前で立ち止まっていた。
「会う、という言い方でいいんでしょうか」
「遺体を見るかどうか」
「それなら、見ます」
「一人では入れない」
「真壁さんに言われましたか」
「言われなくても」
九条は扉を開けた。
遺体の顔から、焦げた布は除かれている。損傷を洗浄し、白い布で首元まで覆ってあった。生前の黒羽宗一郎の顔を完全に取り戻したわけではない。それでも、鏡の影や焼けた見立てではなく、一人の人間の顔に戻っていた。
鳳はベッドの横へ立った。
「兄は、もっとよく笑う人でした」
「二十一年前は」
「はい」
「人は変わる」
「知っています」
「死体は、最後の顔だけを残す。人生全部の顔じゃない」
鳳は九条を見た。
「慰めてくださっているんですか」
「説明してる」
「ありがとうございます」
「だから礼は、結果が出てから」
鳳の口元が、ほんの少し緩んだ。
死者の右手首には手術痕がある。眉尻の傷。左耳の後ろに、小さな黒子。子どもの頃、兄が髪を短くした夏に見つけ、鳳が鉛筆で印をつけようとして怒られた場所だった。
「兄です」
鳳は言った。
「今度は、似ているからではありません。僕が覚えている人です」
九条は否定しなかった。
ただ、布の外へ出ていた死者の手を内側へ戻した。
「記録には、鑑定結果で書く」
「はい」
「あなたの中では、先に決めてもいい」
鳳は長く息を吐いた。
「兄は、僕を守ったつもりだったんでしょうね」
「たぶん」
「でも、僕は守られた記憶より、置いていかれた記憶の方が長い」
「両方、本当でいい」
鳳は兄の顔へ視線を戻した。
「死んだ人に怒ってもいいですか」
「死体は怒られても傷つかない」
「九条先生らしい答えです」
「生きている人が我慢する必要もない」
部屋を出ると、真壁が廊下の窓際に立っていた。待っていたとは言わない顔をしている。
「大丈夫か」
「大丈夫ではありません」
「そうか」
「でも、動けます」
「それは聞いてない」
鳳は少し迷い、言い直した。
「一人にはならない方がいいと思います」
「最初からそう言え」
二階堂が階段から上がってきた。
「すごい。鳳先生が自己申告した」
「珍しい症例みたいに言わないでください」
「九条、記録しといて」
「してる」
「してるんですか」
鳳が九条を見る。
「比喩」
九条は顔色一つ変えなかった。
黒羽の未送信書類を整理していたその時、九条が遺留品として保全していた銀のタイピンを取り出した。側面に、装飾品には不要な微細なスロットがある。
調べると、タイピンそのものが薄型の録音機だった。内部に三つの記録が残っていた。
一つ目は、二週間前の依子との会話。
『父の手帳を出してくれ』
黒羽の声。
『出したら、父は死者を弄んだ人間になる』
依子の声。
『そうしたんだ』
『父は島を守ったんです』
『六人を七つへ分けて、俺を殺したことにした』
『あなたは生きた』
『弟の中では死んだ』
二つ目は、島へ来る前日の独白だった。
『鷺宮依子は協力すると言った。父親の記録を開き、七禍館を解体することに同意した。ただし、彼女がどこまで本気かはわからない。火野朱里が島へ来る。彼女は告発を計画している。依子がそれを知れば、利用するかもしれない』
そこで一度、長い沈黙が入る。
『恭介を呼んだ。建物の嘘を、俺より正確に読む。会えば、名乗れると思っている。二十一年も名乗れなかった人間が、今夜だけうまくできるとは思えないが』
三つ目には、鳳の名が付けられていた。
『恭介へ』
録音の中の声が、初めて兄の声に聞こえた。
記憶の中より低く、掠れている。けれど言葉の前に短く息を止める癖は変わらない。
『俺が黒羽宗一郎として死んだら、その名前を奪わないでほしい。黒羽宗親がくれた名だ。あの人がいなければ、俺は二十一年前に本当に死んでいた』
『でも、鳳悠一を血禍の死者のままにしないでくれ。勝手な頼みだと思う。俺はお前に、勝手なことしかしていない』
『二十一年前、地下設備室で六人が死んだ。発電機の試運転を強行した会社と、祭りを中止しなかった保存会の責任だった。鷺宮征一は死体を動かした。海、火、土、風、鏡、音。六人の死因を消し、最後に俺の名を血禍へ置いた』
『俺が逃げたからだ。俺が生きていると、六人が同じ場所で死んだことが残る。だから、死者にされた』
『最初の数年は、お前を巻き込むと思った。その後は、連絡しなかった時間を説明できなくなった』
『父さんが死んだ年、家へ七回電話しようとして、最後の番号を押さなかった。お前の講演にも行った。呼べる距離にいたのに帰った』
『お前を七歳のまま守るつもりで、自分だけ十九歳の夜から動いていなかった』
『証拠が揃ったら帰ると決め、条件を増やした。本当は証拠がなくても、お前に信じるかどうかを選ばせられた』
『だから、守ったとは言わない。巻き込まなかったことと、選ばせなかったことは別だ』
『島へは仕事として呼ぶ。兄として呼べなかったことを、最後にもう一度ごまかす形になる』
『会ったら、黒羽宗一郎です、と言ってから、鳳悠一だった、と言う。どちらも俺の名前だから』
『会って謝る。謝っても戻らないものを、戻らないまま受け取る』
録音はそこで途切れていた。
録音が切れたあとも、鳳は再生装置を見なかった。
窓の外で波が館の壁へ当たり、二拍遅れて低い音が上がる。
「兄は、僕に会うことを最後にしたんですね」
誰も急いで答えなかった。
「帰ることを、全部の後へ置いた」
「後回しにした」
真壁が言った。
「はい」
「美化しない方がいい」
「していません」
鳳の声に、初めて明確な怒りが混じった。
「兄は、僕を守ったんじゃない。少なくとも、二十一年間ずっとではない。最初は危険から守った。その後は、自分が責められる場面から逃げた」
「録音で欠点まで先に認められると、僕が怒る場所まで決められた気がします」
「決められた場所で怒らなくていい」
真壁が答えた。
「録音にないことを言え。本人が想定してない言葉で」
「聞く人はいません」
「俺たちはいる」
二階堂が言った。
「返事を届ける相手にはなれない。でも、なかったことにはさせない」
鳳はしばらく黙った。
「兄さん」
呼びかけは、録音機ではなく、机の空いた席へ向いた。
「僕は、あなたが生きていたと知りたかった。証拠がなくても、危険が残っていても。信じるか、会うか、待つか、怒るかを、自分で決めたかった」
声は震えなかった。
「僕を守るために選択肢を奪ったと言われても、感謝できません。父の葬式へ来なかったことも、母を待たせたことも、僕の講演を見て帰ったことも、許せません」
九条は何も挟まなかった。
「それでも、生きていたことは嬉しいです」
鳳は一度、目を閉じた。
「嬉しかった時間が、二十一年間のどこかに本当にあった。それを、殺された夜にしか受け取れなかったことが、いちばん腹立たしい」
二階堂が視線を伏せた。
真壁は録音機の停止表示を確認した。
「その返事も記録するか」
「いいえ」
鳳は言った。
「これは兄の事件記録ではなく、僕のものです」
「わかった」
真壁はそれ以上求めなかった。
五通の手紙は一通ずつ日付と状態を記され、証拠袋へ収められた。
送られなかった言葉も、今度は順番を失わなかった。
二階堂が停止ボタンを押す。
「広報としては、最悪の原稿だな」
「どこがですか」
「言い訳が長い。結論が遅い。聞く相手が一番欲しい言葉を、最後まで言ってない」
「一番欲しい言葉?」
二階堂は鳳を見た。
「会いたかった、でしょ」
鳳は目を伏せた。
「兄は、そういうことを言わない人でした」
「だから俺が補った」
「勝手ですね」
「公的な記録では補わない。鳳悠一さんが生き、黒羽宗一郎として暮らし、ここで殺されたことを、確かめた順に書く」
「お願いします」
真壁は三つ目の録音をもう一度確認した。
依子が朱里の計画を利用する可能性を、黒羽は予想していた。
では、なぜ一人で鐘楼へ行ったのか。
答えは録音の最初にあった。
依子は協力すると言った。
黒羽は、二十一年前に自分の名を書いた少女が、二十一年後にはそれを消す側へ来ると信じた。
信じた相手に呼ばれたから、警戒しながらも会いに行った。
「殺人の動機は、父親の名だけじゃない」
真壁が言う。
「黒羽は依子を、隠蔽を終わらせる証人にしようとした。依子にとっては、自分が二十一年守ったものを、当事者の一人に否定されることになる」
「しかも鳳先生の前で」
二階堂が続ける。
「彼女は黒羽さんを、血禍の死者に戻したかった。黒羽宗一郎として告発する人間ではなく、二十一年前に死んだ鳳悠一として」
九条が言った。
「だから顔と指紋を隠した。すぐ黒羽に戻らないように」
「でも血は残した」
鳳が死者の採血管を見る。
「いずれ僕との関係が出る。兄として発見させるために」
「血禍」
二階堂が低く言った。
「最後の見立てだけ、本当の名前へつながってる」
真壁は首を横に振った。
「つながっているんじゃない。犯人が、そう読ませようとした」
「違う?」
「鳳悠一だから殺したんじゃない。黒羽宗一郎が告発しようとしたから殺した。犯人は死後、都合のいい方の名前だけを残した」
鳳は静かに頷いた。
「兄は、二つの名前で生きた。どちらか一つに戻すことも、奪うことになります」




