第九章 鏡が作った十三分
犯人が死者へ着せたのは、黒羽宗一郎の服だけではなかった。
生存時間も、動作も、名前も着せた。
八時二十七分に食堂を出た黒羽は、八時四十分、鏡の中で腕を上げた。十三分。犯人は、その十三分を「生きていた時間」に見せかけた。
鳳は鏡廊下のサービス通路へ入り、死体を支えた滑車と、地下へ続くレールを一つずつ調べた。今度は腰に安全帯を付け、真壁がロープの端を持っている。
「信用されていない気がします」
「気のせいじゃない」
「この高さなら落ちても一メートルです」
「一メートルでも頭は割れる」
九条が後ろから言った。
「二対一ですね」
「二階堂を入れれば三対一」
「俺、数に入ってる?」
二階堂は食堂側で映像を見直していた。
八時二十三分、依子がワインを取りに立つ。
八時二十七分、黒羽が食堂を出る。
八時三十九分、依子が戻る。
八時四十分、停電。
依子が食堂を離れていたのは、十六分。
食堂脇の配膳室から鐘楼の機械室までは、管理用階段を使えば一分半。依子は黒羽が食堂を出る前に管理階段へ入り、仕掛けを整えて待てた。黒羽が合流してからも、殺害、偽装、台車への固定、鏡裏への移送に必要な時間が残る。
その後は自動で動く。
朱里のタイマーが停電を起こす。
暗闇を合図に、水受けへ溜められた水が一定重量へ達する。
鐘の重りが外れ、三度鳴る。
同時に鏡裏のロープが引かれ、死体の右腕が上がる。
三打目で留め金が外れ、台車が傾斜レールを地下へ滑る。
死体は水路を通り、血禍の昇降台へ落ちる。
補助重りが台を上げ、扉の落とし錠を掛ける。
最後に、顔の布へ仕込んだ発火具が作動する。
補助電源を落として仕掛けを試すと、鏡の裏で細い灯が点いた。壁の中を重りが走り、レールが低く震える。三度の鐘がわずかな時差で館へ返り、鏡面には持ち上がる腕だけが浮かんだ。
木札も同じだった。七枚は胸へ置かれただけではなく、組紐で胴へ固定されていた。移送の途中で散らないよう、最初から死体と一緒に運ばれる作りだった。
海水の匂い、焼けた布、黒い油。別々の怪異に見えた七つの禍は、犯人が同じ運搬機構へ結びつけた痕跡だった。
「館全体が、一つの殺人装置」
真壁が言った。
「違います」
鳳は滑車の摩耗をライトで照らした。
「館は運搬装置です。殺人に使ったのは人間です。建物を主語にすると、また責任が隠れます」
「訂正する。犯人が館全体を使った」
「はい」
鳳は鏡裏の床から銀色の小片を拾った。
タイピンの留め具だった。
遺体発見時、銀のタイピンは右の襟に付いていた。
夕食へ現れた黒羽は、左の襟に付けていた。
「鏡に映した時、正しい位置に見えるよう、犯人が右へ付け替えた」
二階堂が映像を停止する。
鏡の中では、タイピンは左側に見える。
「これがあったから、榊さんは黒羽さんだと思ったんだ。毎日見ている上司の目印が、いつもの場所にあった」
「でも実物では逆」
真壁はタイピンを証拠袋へ入れた。
「犯人は、鏡から見た黒羽を作った」
鳳が鏡の木枠を見た。
「二十一年前の写真も同じです」
過去資料の鏡禍の遺体写真。
死者の胸元に付けられた名札は、左右反転した字で書かれていた。当時は祭礼の特殊な書式と説明されたが、実際には鏡へ映して撮影した時に正しく読めるよう作られている。
「鷺宮征一は、遺体そのものより、見た人がどう受け取るかを先に作った」
二階堂が言った。
「依子さんは、父親と同じやり方で黒羽さんを置いた」
最後の物証は、鐘楼の巻き上げ機から出た。
古い機械の安全爪を解除するには、先端が二股になった専用鍵が要る。鍵は館の管理台帳では廃棄済みとなっていた。
だが依子の鍵束の中に、用途不明の細い真鍮棒があった。
先端を布で拭った痕がある。微細な溝には巻き上げ機と同じ黒い油が入り込み、先端の擦過痕は安全爪の二股溝と対応していた。
「これは鍵ではありません」
依子は言った。
「父の遺品です」
「だから、あなたしか用途を知らなかった」
真壁が答える。
「触れた覚えはありません」
「昨夜、機械へ差し込まれた痕がある。油も新しい」
「誰かが私の鍵を使ったのでしょう」
「鍵束は、ずっと腰につけていたと証言した」
依子は黙った。
二階堂が真壁を見る。真壁が一度だけ頷いた。
「鷺宮さん。昨夜、あなたは鏡の黒羽さんを見て、右手を上げたと言った。食堂から見えていたのは左です。でも遺体が実際に上げたのは右手だった」
「鏡なのですから当然です」
「そう。鏡だと知っていれば」
二階堂は映像を再生する。
「停電の直後、鏡の裏だけが明るくなるまで一秒ある。その一秒間、食堂側の鏡には自分たちしか映っていない。黒羽さんの姿が現れた瞬間、榊さんは『部長』、久世さんは『誰かいる』、朱里さんは何も言わなかった。あなたは『黒羽さんが右手を上げている』と言った」
「だから何です」
「暗い影を黒羽さんと断定し、鏡では左に見える腕を、実物どおり右だと言った。その後、指摘されてから『鏡では左に見えた』と言い直した」
「こじつけです」
「言葉だけならね」
二階堂は真鍮鍵の証拠袋を見た。
「でも言葉は、物証の場所を教える」
真壁は依子の部屋から押収した薬を机へ置いた。
黒羽の胃内容から検出されたものと同じ鎮静薬。依子の処方薬だった。管理室のコーヒーポットからは出ず、黒羽のカップだけから検出された。
「薬を入れ、鐘楼へ呼び、父親の鍵で装置を動かした。朱里の停電計画を使い、鏡で死亡時刻を延ばした。黒羽の顔と指紋を隠し、血縁だけが残るようにした」
「私は、黒羽さんを殺していません」
「なら説明してください」
真壁は十六分間の空白を指す。
「八時二十三分から三十九分まで、どこにいた」
「ワイン庫です」
「配膳室のカメラに、ワイン庫へ入る姿はない。管理階段へ入る姿だけが映っている」
久世が差し出した別角度の映像だった。
依子は管理階段へ入り、十六分後、ワインを一本持って戻っている。
ワイン庫は管理階段の途中から分岐する。
鐘楼へも、同じ階段で行ける。
「ワイン庫へ行ったことは証明できる」
依子は言った。
「鐘楼へ行かなかったことは、証明できない」
真壁は答えた。
「そして鐘楼には、あなたの鍵と薬と、死者の皮膚がある」
依子の顔から、丁寧な管理人の表情が消えた。
その時、館の地下で警報が鳴った。
火災報知器ではない。
排水槽の水位警報だった。
鳳が図面を見る。
「地下発電室です。海側の水門が開いている」
「誰が」
真壁が依子を見る。
依子の腰に、鍵束はなかった。
椅子の脇の床に、鍵束だけが落ちている。水門鍵が一本、抜けていた。
火野朱里が食堂の入口で立ち尽くしていた。顔色が悪い。
「鷺宮さんが、母の原簿は地下にあると言ったんです」
「私がそちらを見た瞬間、腰から鍵束を外す音がしました」
朱里の声が掠れた。
「振り向いた時には、残りの鍵だけ床に落ちていて、鷺宮さんはもう廊下へ走っていました」
「水門鍵を抜いたのを見たか」
「手元までは。でも、母の原簿と言われて一瞬迷った。そこを使われました」
依子の姿は、食堂から消えていた。
二階堂が窓を見る。
鏡の奥のサービス廊下に、濃紺の影が走った。
「地下へ行った」
鳳が安全帯を外す。
真壁が先に扉へ向かった。
「今度は俺が先だ」
「はい」
「返事が早すぎる」
「今回は、本当にわかっています」
館の下で、海が入り始めていた。




