第十章 血禍は誰を選ぶか
食堂に戻ると、全員の顔が変わっていた。
人は、知らないことに怯える。
だが、知り始めたことにも怯える。
二十一年前の録音が見つかったこと。沙羅が生きていたこと。血禍の間は存在しないと鳳悠一が記録していたこと。その三つは、食堂の空気を一度に変えた。
これまで七禍は、死者のための名前だった。
海禍、火禍、土禍、風禍、鏡禍、音禍、血禍。
だが今は違う。
七禍は、誰かを死者にするための装置に見え始めていた。
「沙羅さんは生きているんですか」
最初に口を開いたのは鷺宮未沙だった。
彼女の声は震えていた。だが、質問の焦点はぶれていない。
「生きている」
真壁が答える。
「ただし衰弱している。今は九条が見ている」
九条は食堂の隅で、沙羅に水分を与えながら最低限の確認を進めていた。沙羅はまだ長く話せる状態ではない。それでも、いくつかの言葉だけは残した。
真依。
鳳くん。
落ちた人。
名前を選んだのは、誰か。
食堂の入口で、男が立ち尽くしていた。
三十代前半。濃紺のスーツに、まだ乾ききっていない雨の跡がある。髪は乱れていないが、顔色は悪い。港の復旧作業に使われていた予備船で、県警の捜査員とともに島へ入ったばかりだと聞いていた。
開発会社の社員。
榊悠斗。
黒羽宗一郎の直属の部下であり、七禍館再開発計画の実務を任されていた男だった。
黒羽が死んだあと、会社側の確認役として急遽呼ばれた。だが、到着してすぐに知らされたのは、上司の死と、二十一年前の隠蔽の可能性と、館の中にまだ犯人がいるという事実だった。
榊は、食堂の中央に並べられた資料を見た。
黒羽の名が書かれた記録。
火禍の資料。
血禍の候補名。
そして、沙羅が生きているという説明。
喉が動いた。
「これ以上、何をするつもりですか」
榊の声は硬かった。
「黒羽部長が亡くなっている。開発会社としては、これ以上、社員や関係者を危険に晒すわけにはいきません。私は会社の代理として――」
二階堂がすぐに言った。
「座ってください」
「命令ですか」
「お願いです。ですが、立ったまま感情的に話すと、あなたの言葉はかなり不利に見えます」
「不利?」
「ええ。黒羽宗一郎さんが亡くなった直後に、直属の部下であるあなたが“これ以上調べるな”と聞こえる発言をする。第三者が見れば、会社側が事件を止めたがっているように見えます」
「止めたいに決まっているでしょう。人が死んでいるんですよ」
「なら、なおさら確認が必要です」
二階堂は微笑んでいたが、目は笑っていなかった。
「榊さん。あなたは黒羽さんの部下として、七禍館の観光開発に関わっていた側の人間です。今この場で声を荒らげれば、二十一年前の死者を商売に使おうとした会社が、事件の真相を隠そうとしているように見える」
「私は隠してなどいません」
「なら、座ってください。隠していない人間は、確認を拒まない」
榊は唇を噛み、椅子に座った。
その動きには怒りがあった。
だが、それだけではない。
怯えもあった。
上司を失った部下の怯え。
会社の看板を背負わされた若手の怯え。
そして、自分が関わった計画の足元から、死者の名前が崩れていくことへの怯え。
真壁は、テーブルの上に証拠品の写真を並べた。
血禍の候補名が書かれた木札。
沙羅、火野朱里、鳳恭介。
さらに、奥の小部屋から見つかった古い図面。
沙羅、真依、鳳悠一。
二つの候補表は、二十一年を隔てて同じ形をしていた。
「今夜の犯人は、二十一年前の血禍を再演している」
真壁は言った。
誰も答えなかった。
「再演というより、なぞっている。二十一年前に、誰かが死者を選んだ。今夜の犯人はそれを知っている。あるいは、そう理解している」
火野朱里は俯いたままだった。
長い髪が頬を隠している。手は膝の上で組まれている。爪が白くなるほど強く、互いの指を押さえていた。
真壁は続ける。
「海禍では船と港が使われた。島を孤立させ、灯村さんの動きを疑わせるためだ。火禍では顔の焼けた遺体の記憶が使われた。黒羽さんの死と火野千景さんの資料が重ねられた。土禍では古賀さんが殺された。だが、古賀さんは死ぬ前に何かを言おうとしていた」
古賀直澄の席は空いている。
その空白が、誰の言葉より重かった。
「真依」
九条が静かに言った。
「古賀さんは、真依の名前を出そうとしていた」
鷺宮未沙が目を閉じた。
真壁は彼女を見る。
「未沙さん。あなたは、真依さんと関係がありますね」
食堂の視線が彼女に集まる。
未沙はしばらく黙っていた。
「私は、鷺宮家の人間です」
「それは聞いています」
「でも、母は島の人間でした」
「名前は」
「鷺宮真依」
誰かが息を呑んだ。
鳳の手が、テーブルの下で止まる。
「真依は、私の母です」
未沙は顔を上げた。
「二十一年前、死んだことにされなかった人です。生きたことにもされなかった人です」
二階堂が低く言った。
「名前の外に置かれた」
「はい」
未沙は頷いた。
「母は、七禍館の床下に隠れていた構造を見つけた。水路、縦坑、音響管、鏡廊下の裏側。子どもだった母には、それが何のためのものか全部はわからなかった。でも、図面に描いた。沙羅さんに見せた。鳳悠一さんにも見せた」
鳳は静かに聞いていた。
兄の名前が出るたび、表情がわずかに硬くなる。だが、遮らない。
「そのあと、土砂崩れがありました。母は巻き込まれた。でも、遺体は見つからなかった。古賀清澄さんが救助に向かい、死んだ。けれど、七禍の中で土禍にされたのは、別の名前でした」
「陣内拓馬」
真壁が言う。
未沙は頷く。
「古賀清澄さんの名前は、表に出せなかった。鷺宮家の管理責任が問われるから。母の名前も出せなかった。館の中で何が起きていたかを、母が知っていたから」
二階堂が資料をめくる。
「死んだ人間と、死んだことにしたい人間と、死んでいないことにしたい人間が混ざった」
「それが七禍です」
未沙の声は震えていた。
「二十一年前の七禍は、七人が七つの災厄で死んだ事件じゃない。複数の事故と、事件と、行方不明と、隠蔽を、七つに編集したものです」
食堂の空気が重く沈んだ。
その言葉は、二階堂がたどり着きかけていた結論そのものだった。
榊悠斗だけが、遅れて息を吸った。
「編集……」
彼は小さく呟いた。
「それを、黒羽部長は知っていたんですか」
真壁は榊を見た。
「あなたは、どう思いますか」
「知りません。私は……少なくとも、そんな話は聞いていない」
「黒羽さんから、二十一年前の資料整理を指示されたことは」
榊は一瞬、答えに詰まった。
二階堂がそれを見た。
「ありますね」
「資料の整理は、開発計画に必要でした」
「どんな資料を」
「島の伝承、死亡記録、関係者の証言、古い新聞記事、保存会の記録。それから、七禍館の見取り図」
「血禍の間については」
榊の視線が動いた。
鳳が静かに見ていた。
「資料には、ありました」
「現地確認は」
「黒羽部長が、管理人側と確認したはずです。私は、入口までは見ました。でも、中までは」
「なぜ」
「黒羽部長に止められました」
食堂が静かになった。
榊は自分の言葉の重さに気づいたように、唇を引き結んだ。
「止められた、というのは……会社として、危険区域だったからです」
二階堂が言う。
「便利な言い直しですね」
榊は黙った。
真壁は未沙に視線を戻した。
「あなたは犯人を知っているのか」
未沙は火野朱里を見た。
朱里は動かなかった。
まるで、その視線を受けることを最初から知っていたように。
「火野さん」
真壁が呼ぶ。
朱里はゆっくり顔を上げた。
「私は、殺していません」
声は、意外なほど静かだった。
「誰を」
「古賀さんも、佐伯さんも」
二階堂の目が細くなる。
「順番が変ですね」
朱里が二階堂を見る。
「普通、“私は誰も殺していません”と言うところです。あなたは、古賀さんと佐伯さんだけを否定した」
朱里は唇を閉じた。
真壁は言った。
「海禍の仕掛け、火禍の資料誘導、土禍の床下への誘導、風禍の空調、鏡禍の目撃錯誤、音禍の録音。これらの準備に関わったか」
沈黙。
「答えてください」
朱里は膝の上の手を見た。
「関わりました」
榊が椅子を鳴らして立ち上がりかける。
「あなたが……」
二階堂が片手で制した。
「最後まで聞きましょう」
朱里は続けた。
「私は、二十一年前の事件を解体したかった。七禍として飾られる前に、誰が何をされたのかを見せたかった。開発会社が七禍を売り物にする前に、島がまた死者の名前を使う前に」
「だから再演した?」
「はい」
「殺人を?」
「違います」
朱里の声が揺れた。
「殺すつもりはなかった。古賀さんには話してもらうつもりだった。佐伯さんは、私の計画には入っていません」
「信じろと?」
「信じなくていいです」
その言葉に、二階堂がわずかに反応した。
「検証してください」
朱里は言った。
「私が仕掛けたものと、誰かが途中で差し替えたものを」
真壁は朱里を見た。
この女は嘘をついている。
だが、全部ではない。
それが一番厄介だった。
鳳が静かに口を開いた。
「血禍の木札は、あなたが作ったんですか」
「はい」
「沙羅、火野朱里、鳳恭介」
「はい」
「なぜ僕の名前を」
朱里は鳳を見た。
「あなたが来ると思ったからです」
「僕を血禍にするつもりだった?」
「違います」
「では」
「あなたを止めるつもりでした」
鳳の目が硬くなる。
「止める?」
「あなたは建物を読む。血禍の間が部屋ではないと見抜く。そうすれば、二十一年前に鳳悠一さんが何を見たかに近づく。近づけば、犯人はあなたの名前を置く」
「犯人?」
「二十一年前に名前を置いた人間、または、その人間を守りたい人間」
二階堂が短く息を吐く。
「つまり朱里さん。あなたは告発者であり、今夜の一部の仕掛け人。でも、殺人の実行者は別にいると言いたい」
「はい」
「便利ですね」
「便利でいいです」
朱里は静かに言った。
「私は、便利な悪役になるつもりでここへ来ました。火野千景の娘ですから。火禍の遺族が、七禍を壊すために暴走した。そう見えれば、みんな納得する」
「その納得が、犯人に利用された」
真壁が言うと、朱里は目を伏せた。
「はい」
榊が拳を握っていた。
「黒羽部長も、それに巻き込まれたんですか」
朱里は榊を見ない。
「黒羽さんは、七禍を利用しようとしていた」
「だから死んでもいいと?」
「そうは言っていません」
「あなたが仕掛けたせいで、部長は死んだ」
「榊さん」
二階堂の声が低くなった。
「今の言葉は、あなたの怒りとしては自然です。でも、事件の整理としては早すぎる」
「早すぎる?」
「黒羽さんがなぜ殺されたのかは、まだ確定していません。開発会社の責任者だったからか。何かを知っていたからか。あるいは、誰かにとって都合のいい火禍の役だったからか」
榊は言葉を失った。
その時、食堂の照明が落ちた。
完全な暗闇ではない。
非常灯だけが赤く点く。
古いスピーカーから、ノイズが流れた。
『血禍は、まだ選ばれていない』
録音の声だった。
男とも女ともつかない、加工された声。
『七つが揃わなければ、島は終わらない』
二階堂が即座に言った。
「全員、動かない。これは録音です。誰の口元も動いていない」
真壁は周囲を見る。
火野朱里。
鳳恭介。
沙羅。
血禍の候補だった三人のうち、沙羅は食堂の隅にいる。朱里は席に座っている。鳳は真壁の隣にいる。
だが、もう一人いる。
血禍の木札に名前はなかったが、今この場で最も危ない人間。
未沙。
真依の娘。
七禍の外に落ちた名の継承者。
真壁は叫んだ。
「未沙さん!」
未沙の椅子が空だった。
次の瞬間、廊下の奥から悲鳴が上がった。
誰の声か、一瞬わからなかった。
風が鳴った。
鏡が鳴った。
鐘が、遠くで一度だけ鳴った。
真壁は走り出す。
二階堂が続く。
鳳も走った。
九条が沙羅の肩を押さえたまま、低く言う。
「行け」
榊も立ち上がった。
だが、二階堂が振り返らずに言った。
「榊さんはここに。会社の代理人なら、まず生存者を守ってください」
榊は足を止めた。
真壁は振り返らなかった。
七禍は、まだ終わっていない。
犯人は、血禍を選び直そうとしている。




