第十一章 七禍の解体
廊下の赤い非常灯の下で、鷺宮未沙は倒れていた。
首に巻かれていたのは、細い赤い紐だった。
血ではない。
朱色に染めた組紐。祭具に使われるものに似ている。だが、首を絞めるには充分な強さがあった。
真壁は走り寄り、紐を外した。
「息は」
鳳が膝をつくより早く、真壁が脈を取る。
ある。
弱いが、ある。
二階堂が廊下の先を照らした。
「誰かがいた」
「見たか」
「影だけ。鏡廊下側へ逃げた」
「追うな」
「わかってる」
二階堂は奥へ行こうとはしなかった。
十二灯館のあと、彼も変わった。犯人が用意した順番に飛び込むことの危険を、身体で知っている。
鳳は未沙の首元を見た。
「紐が、壁の金具に通されています」
廊下の壁には、古い装飾金具が並んでいた。かつて灯や祭具を吊るすために使われたものだろう。そのひとつに、紐の擦れた跡がある。
「自分で絞めたように見せられるか」
真壁が訊く。
「角度によります。でも、倒れ方が合いません」
九条が遅れて到着した。沙羅は若い捜査員に任せてきたのだろう。彼は膝をつき、未沙の状態を確認する。
「生きている。気道は確保できる。意識は戻る」
「薬は」
「瞳孔と呼吸を見る限り、強い鎮静はなさそう。絞められた時間が短い」
二階堂が廊下の床を照らした。
「短いというより、止められたのかも」
床に、黒い靴跡があった。
一人分ではない。
未沙の足跡。
それより大きい足跡。
そして、もうひとつ。廊下の端を滑るような跡。
鳳がその跡を見た。
「壁の裏を通っています」
「またか」
二階堂が顔をしかめる。
「この館、表より裏の方が人通り多くない?」
「そういう建物です」
「嫌な返事」
未沙は食堂へ運ばれた。
これ以上、個別に動くことは危険だった。真壁は全員を一箇所に集め、出入口を二名の捜査員に確認させた。窓、床下、壁の裏、音響管、鏡の裏。鳳が図面に印をつけ、九条が死傷者の状態を整理し、二階堂が各自の発言と行動時刻を紙に書き出した。
信用ではなく、確認。
十二灯館で得た方法が、七禍館でも必要になっていた。
真壁は食堂の中央に立った。
「ここから、順番を変えます」
二階堂がすぐに言った。
「真壁が今、口で言っています。録音ではありません。全員、口元を確認してください」
榊悠斗が、疲れた顔で言った。
「いちいち、それを続けるんですか」
「続けます」
二階堂は答えた。
「面倒なら、犯人の声に従ってください」
榊は黙った。
その沈黙には反発があったが、先ほどよりも弱い。彼も理解し始めている。ここでは、声も、灯も、名前も、すべてが誰かに置かれる。
真壁は続けた。
「犯人は、七禍の順番で俺たちを動かそうとしている。海、火、土、風、鏡、音、血。その順番に意味があると思わせている。だが、実際には順番そのものが罠だ」
鳳が図面を広げる。
「七禍館は、七つの場所が独立しているように見えます。しかし床下、水路、壁内の音響管、鏡廊下の裏動線でつながっている。つまり、犯人はひとつの禍の場所から別の禍を操作できます」
九条が検案メモを置いた。
「死体も同じ。海禍だから溺死、火禍だから焼死、土禍だから圧死、という単純な対応ではない。死因と見立てがずれている」
二階堂が続ける。
「言葉も同じです。“七人は禍に選ばれた”という言い方が、最初からおかしい。選ばれたんじゃない。選んだ人間がいる」
真壁は頷いた。
「今から、七禍を解体する」
食堂が静まり返る。
「まず海禍。今夜の海禍は、島を孤立させるために使われた。港の設備が壊され、船が使えないように見せられた。しかし実際には、裏の水路から出入りできる経路が残っていた。二十一年前も同じだ。海は死因ではなく、戻る道を隠すために使われた」
灯村要が顔を伏せた。
「灯村さん。あなたは、その水路を知っていましたね」
「知っていた」
灯村の声は低い。
「二十一年前、沙羅を逃がしたのはあなたですね」
沈黙。
灯村は頷いた。
「はい」
沙羅の肩が震えた。
「私は、あの子を船に乗せた。死なせたくなかった。だが、そのせいで島では沙羅は死んだことにされた」
「海禍の死者候補になった」
「そうです」
真壁は次へ進む。
「火禍。火野千景さんの死は、顔と身元確認を曖昧にするために使われた。焼けた顔、残された遺留品、火災現場。その三つがあれば、人は確認したと思い込む。今夜、犯人は黒羽宗一郎さんの死と火野千景さんの記録を重ね、火禍の記憶を再燃させた」
榊が顔を上げた。
「黒羽部長は、本当に火禍として殺されたんですか」
九条が答えた。
「火禍に見せられた。死因と見立ては別」
「では、部長は」
「殺された可能性が高い。ただし、火で死んだとは限らない」
榊の顔が歪んだ。
上司を悼む顔か。
自分が知らなかったことへの怒りか。
あるいは、黒羽が何を隠していたのかを恐れる顔か。
真壁は榊を見た。
「黒羽さんは、血禍の間の内部確認をあなたにさせなかった」
「はい」
「なぜだと思いますか」
「……わかりません」
「本当に?」
榊はしばらく黙った。
「部長は、七禍館をただの観光資源とは見ていませんでした」
「どういう意味ですか」
「最初は、話題性のある廃館再生事業でした。七禍祭の伝承、未解決事件、離島観光。それを組み合わせれば、注目は集まる。ですが、途中から部長は、七禍の名前に妙にこだわるようになった」
「名前に?」
「はい。どの死者が、どの禍に対応しているか。パンフレットの表記を何度も直させました。とくに血禍だけは、曖昧なままにしておけと」
二階堂が言う。
「曖昧なまま?」
「はい。血禍の死者は鳳悠一、と断定しすぎるなと。けれど、鳳悠一の名は残せと」
鳳の表情が硬くなった。
真壁は榊の言葉を記憶に置いた。
黒羽は、血禍を知っていた。
少なくとも、血禍が単純な死亡記録ではないことを理解していた可能性がある。
真壁は続ける。
「火野さん。あなたは、自分の母の死が利用されたことを知り、七禍を壊そうとした」
朱里は頷いた。
「はい」
「だが、その計画もまた利用された」
「はい」
「土禍。二十一年前、土砂崩れで真依さんが巻き込まれた。古賀清澄さんが救助に向かい、死亡した。だが、古賀清澄の名は土禍に置かれず、別の名が置かれた」
古賀直澄の死が、そこで意味を変えた。
彼は、沈黙を守った加害側の人間であると同時に、父の名を七禍から取り戻せなかった遺族でもあった。
「古賀直澄さんは今夜、そのことを言おうとしていた。だから殺された」
九条が言った。
「死因は、見立てと一致しない。圧死に見せようとしたが、実際には先に殺されている」
食堂がざわつく。
真壁は声を上げない。
「風禍。風洞回廊では、風の音と空調が使われた。人の足音、声、落下音を消すためだ。二十一年前も、風は死因ではなく、音を隠す道具だった」
鳳が補足する。
「風洞回廊の壁には、意図的な隙間があります。風の通り道であると同時に、音を散らす構造です。そこで何かを聞いた証言は、距離も方向も信用できません」
「鏡禍。鏡廊下は二つある」
鳳が図面に二本の線を引く。
「表の鏡廊下と、裏の鏡廊下。表から見れば同じ人物が進んでいるように見える。しかし角度と反射を使えば、別の人物の動きに見せられる。二十一年前の目撃証言も、今夜の目撃も、鏡で混ぜられている」
二階堂が言う。
「人は見たものに名前をつける。鏡に映った誰かを“あの人だ”と思った瞬間、犯人の編集に乗る」
真壁は頷いた。
「音禍。鐘は信用できない」
鳳悠一の録音にもあった言葉だった。
「鐘楼の鐘は、現場で鳴ったとは限らない。壁の中の音響管、床下の反響、録音。音は場所と時刻を偽装する。今夜の犯人は、録音を使って人を動かした。二十一年前も、音を使って目撃時刻をずらした可能性が高い」
九条が淡々と言う。
「死体の状態と、鐘が鳴ったとされる時刻が合わない」
真壁は最後の写真を置いた。
血禍の木札。
「そして血禍」
食堂の温度が下がったように感じた。
「血禍の間は、存在しない」
鳳が静かに言った。
「少なくとも、二十一年前の時点では“血禍の現場”として存在していません。あれは水路へ降りる縦坑で、後から部屋として整えられたものです」
二階堂が続ける。
「血禍は殺害現場じゃない。編集室だ」
その言葉が、食堂の中央に落ちた。
「誰を七人目にするか。沙羅か、真依か、鳳悠一か。死んだかどうかではなく、消せるかどうかで選ぶ。血禍とは、死者を殺す場所ではなく、生者を死者にする決定のことだった」
鷺宮未沙が意識を取り戻しかけていた。
彼女は薄く目を開け、その言葉を聞いた。
「母は……」
かすれた声。
「母は、死んだんですか」
真壁はすぐには答えなかった。
九条も答えない。
鳳が未沙を見る。
「今は、わかりません」
未沙の目に涙が滲む。
「わからない?」
「はい」
鳳は言った。
「でも、わからないことを、死んだことにはしません」
未沙は泣いた。
声は小さかった。
だが、その涙は二十一年前の名前の外側から、ようやくこちらへ戻ってきたものだった。
真壁は火野朱里を見る。
「あなたの計画は、七禍を解体するためだった」
「はい」
「だが、古賀直澄さんと佐伯警部補を殺した人間は、七禍を解体されると困る人物だ」
朱里は頷いた。
「そうです」
「その人物は、二十一年前の編集に関わっている。あるいは、その編集で守られた側にいる」
二階堂が紙を見た。
「候補はかなり絞られますね」
「まだ言うな」
真壁は制した。
「犯人は、名前を待っている。俺たちが誰かの名前を呼ぶのを待っている」
二階堂は頷いた。
「十二灯館と同じだ」
死体より先に、名前が置かれる。
その瞬間、人は役になる。
犯人。
被害者。
七人目。
血禍。
真壁は食堂の全員を見た。
「だから、まだ名前は呼ばない。証拠を先に置く」
そのとき、沙羅が小さく声を出した。
「……見た」
全員が彼女を見る。
九条が止めようとしたが、沙羅は首を振った。
「言わせて」
声は弱い。
だが、意思はあった。
「二十一年前、私は見た。真依が、階段から落ちたんじゃない。落とされたんでもない。落ちたのは、別の人」
真壁は訊く。
「誰ですか」
沙羅は震えた。
言うべき名前を探している。
しかし真壁は、すぐに言った。
「無理に名前にしなくていい。見たことだけを話してください」
沙羅は涙を流した。
「夜で、風が強くて、顔は見えなかった。真依が私の口を塞いだ。声を出しちゃだめだって。落ちた人は、海へ消えた。そのあと七人の死者の話になった時、その場所のことは誰も言わなかった」
二階堂が低く言う。
「八人目」
真壁は頷いた。
二十一年前の七禍は、七人を揃えた事件ではない。
七人に収めた事件だった。
七禍の外に落ちた死。
あるいは、生存。
そこに、最後の嘘がある。
食堂のスピーカーがまた鳴った。
だが、今度は誰も動かなかった。
『七つに戻せ』
加工された声。
『余分な名を消せ』
真壁はスピーカーを見上げた。
「嫌だ」
短く言った。
全員が真壁を見る。
「七つには戻さない。余分な名も消さない。七禍の外に落ちた名前も、血禍に置かれた名前も、全部拾う」
鳳が静かに立った。
「僕もです」
二階堂が肩をすくめる。
「俺も。言葉担当としては、名前を勝手に編集されるのが一番腹立つ」
九条が言った。
「検視担当としても、勝手に死んだことにされるのは困る」
榊悠斗が、震える声で言った。
「黒羽部長の名前も、ですか」
真壁は彼を見る。
「もちろんです」
「部長が、どこまで知っていたとしても?」
「知っていたことと、殺されていいことは別です」
榊は俯いた。
それまで肩に入っていた力が、少しだけ抜けた。
「……お願いします」
小さな声だった。
会社の代理人ではない。
上司を失った一人の人間の声だった。
真壁は食堂の扉へ向かった。
「最後の場所へ行く」
「どこへ」
榊が訊いた。
鳳が図面を指差した。
「血禍の間ではありません」
真壁が答える。
「血禍を作った場所だ」




