第十章 七禍の終わる場所
地下発電室へ下りる階段を、水が一段ずつ呑み込んでいた。
海側水門が開けば、満潮の海水は旧運搬路へ入り、発電室を満たす。二十一年前の煤も、排水溝の歯片も、壁に残った計算式も消える。原本の紙は水に溶け、鉄はさらに錆び、六人が同じ場所で死んだ証拠は再び一つの原因を失う。
「閉められるか」
真壁が訊く。
「水門室まで行けば」
鳳は図面を濡らさないよう胸元へ入れた。
「ただし、発電室を通る経路はもう危険です。上の名付け部屋から縦坑を下りた方が早い」
「縦坑は使わない」
「別経路では間に合いません」
「鳳先生」
「安全帯を使います」
「そういう問題じゃない」
二階堂が後ろから言った。
「真壁。今回は鳳先生が正しい。俺たちが下の水門室へ回る。鳳先生は上から位置を指示。降りるのは灯村さん」
灯村が工具箱を持ち上げた。
「俺なら構造を知っとる」
真壁は一瞬考え、頷いた。
「鳳先生は縦坑の縁から離れろ」
「指示を出すには」
「一メートル離れて出せ」
「細かいですね」
「お前には必要だ」
名付け部屋は、玄関の名板の裏にあった。
六十センチ厚いと思われた壁の中に、人一人が通れる細長い記録庫が隠されている。棚には古い木札、供養帳、死亡記録。奥の床が血禍の縦坑へ開き、下から海水の音が上がっていた。
鷺宮依子は、最奥の机に立っていた。
父の手帳と、二十一年前の原簿を抱えている。足元には金属製の小さな火鉢。書類の端へ火が移り始めていた。
火鉢の炎は棚の木札を順に照らし、海、火、土、風、鏡、音、血の文字を壁へ長く映した。縦坑の底では海水が鉄を叩き、その響きが通気管を回って鐘楼の方角から返ってくる。
島の各所へ散らされていた光、音、鏡、水路は、この狭い壁の内側で一つの隠蔽へつながっていた。
「そこまでです」
真壁が言った。
「水門を閉めてください」
「閉めれば、また残る」
依子は燃えかけた原簿を見た。
「父の字も、私の字も、黒羽さんの声も。残ったものだけで、全部を決められる」
「残らなかった人間の代わりに、あなたが決めてきた」
二階堂が答える。
「六人は禍になりたいと言ってない。鳳悠一さんも、死者にしてくれとは言ってない」
「では、どうすればよかったんです」
依子の声が初めて震えた。
「島には、何もなかった。祭りを失えば人が消える。事故が明るみに出れば、会社は撤退し、父は逮捕され、私たちは住む場所を失う。六人が死んだ理由をただの失敗にしたら、誰が悼むんです」
「失敗で死んだ人間は、悼む価値がないのか」
九条が言った。
「意味がない死は、忘れられます」
「意味を付けても、死因は変わらない」
「人は死因だけで死ぬのではありません」
「でも死体へ役を付けても、生き返らない」
九条の声は平らだった。
「遺族が知りたいのは、伝承の中の役じゃない。最後にどこで、何が起きたか」
依子は鳳を見た。
「あなたのお兄さんは、島を捨てた」
「兄は逃げました」
鳳は否定しなかった。
「僕からも逃げた。二十一年、戻らなかった。僕はそのことを許していません」
依子の目が揺れる。
「それでも、兄が血禍だったことにはなりません」
「彼は自分だけ生きた」
「生き残ったことは、罪ではない」
「父を告発しようとした」
「告発されることをしたからです」
鳳の声は静かだった。
「壊れた建物に名前を付けても、壊した人間は消えません。補修した壁は、元の壁より厚くなる。隠した場所ほど、寸法が合わなくなる。あなたのお父様が作った七禍は、二十一年間、嘘の厚みを増やしただけです」
依子の背後で、火が原簿の角を舐めた。縦坑から吹き上がる風が炎を横倒しにし、木札の影が七本、彼女の身体を横切った。
依子は原簿を火鉢へ落とそうとした。
真壁が距離を詰める。
「黒羽宗一郎を殺したのは、あなたですね」
「……あの人は、父のしたことを全部、自分の正しさへ使おうとした」
「答えてください」
「私に手帳を出させ、館を壊し、鳳先生を呼んだ。私が父を否定するところを見せるために」
「殺したのか」
「薬を入れました」
依子の手から、原簿の端が垂れる。
「鐘楼へ呼びました。父の鍵を使いました。ロープが上がった時、黒羽さんは私を見ていた。何も言わなかった。二十一年前と同じ目でした。全部見て、全部覚えて、いつか外へ持ち出す人の目」
「映写室の火も、あなたですね」
真壁が訊いた。
依子の視線が、燃えかけた原簿へ落ちる。
「火野千景の声が残れば、六人が地下にいたことを説明する材料になる。コンタクトシートも、黒羽さんが見つけて旧映写室へ集めていた。あなたは朱里さんの計画書を盗んだ時、原本テープの隠し場所も知った」
「私は、火野さんに一人で来いと書いただけです」
「来ると知っていた」
「来ない選択もできました」
「できないと見抜いたから使った」
二階堂が言った。
「火野さんが、母親の原本を守るためなら自分を危険へ置くことを。あなたは彼女の執念を、朱里さん自身の責任に見える形で燃料にした」
「火は小さくしました。煙に気づけば、すぐ出られるように」
九条の赤い目が依子を向く。
「冷却ダクトを動かし、防火戸を落とした。出られない構造にした」
「死なせるつもりは」
「死ぬ可能性を知っていた」
真壁が遮った。
「意図の名前を言い換えても、したことは変わらない」
依子は唇を震わせた。
「火野さんは、母親の写真を何度も外せと言った。けれど、あの写真がなくなれば、火禍を悼む場所もなくなる。黒羽さんも、彼女も、全部をただの設備事故へ戻そうとした」
「戻すんじゃない」
二階堂が答える。
「最初に起きたことを書くんです。あなたが後から付けた意味を外すだけだ」
「意味を外せば、残るのは失敗と責任だけです」
「それを隠すために、また人を殺しかけた」
依子は否定しなかった。
「それで殺した」
「七禍へ戻したんです」
「違う」
真壁の声が低くなる。
「あなたが殺した。黒羽宗一郎を。鳳悠一を。二つの名前で生きた一人の人間を」
依子の頬を涙が伝った。
「父は、一人ではできなかった」
「二十一年前のことか」
「私は木札を書きました。鏡禍の札を反対に書いた。血禍に悠一さんの名を書いた。父が言った通りに。十六歳でした。でも、字を書いたのは私です」
「だから今度も、自分で終わらせようとした?」
二階堂が訊く。
「父だけを悪者にして、自分だけ真実を話すことはできなかった」
「それは責任を取ることじゃない」
二階堂は燃える紙を見た。
「記録ごと消えれば、また他人に物語を補わせる。あなたは最後まで、語り方を支配したいだけだ」
依子が火鉢を蹴った。
炭と火の粉が床へ散る。
九条が棚から厚い帆布を引き抜き、火へ被せた。真壁は依子の手首を取り、原簿を奪う。依子は抵抗し、縦坑の方へ身体を引いた。
古い床板が割れた。
依子の片脚が闇へ落ちる。
真壁が腕を掴んだが、濡れた床で足が滑った。
鳳が二人へ手を伸ばす。
「来るな!」
真壁が怒鳴る。
鳳は止まらなかった。
柱へ安全帯の金具を掛け、真壁のコートを掴んだ。二階堂も後ろから鳳の腰を支える。九条は床へ這い、依子のもう一方の腕を取った。
「三つ数える」
九条が言った。
「一、二、三」
四人で依子を引き上げた。
依子は床へ倒れ、咳き込んだ。九条が手首の脈を確認し、脚の損傷を見る。
「骨折はない。擦り傷」
「どうして」
依子が九条を見た。
「何が」
「私を、助けるんです」
「生きてるから」
九条は当然のように答えた。
「死体にしてから責任を聞くことはできない」
地下から、金属が軋む音がした。
灯村が水門を閉めている。
鳳は縦坑の縁から一メートル離れた位置で、図面を見ながら声を張った。
「右へ四分の一回転。次に補助弁です。赤いハンドルではなく、その下の小さい方を」
『見えた!』
無線の向こうで灯村が答える。
水音が少しずつ弱くなった。
火は帆布の下で消えた。
原簿の端は焼けたが、六人の名前と、死亡場所の訂正前記録は残った。
真壁は依子の両手へ手錠を掛けた。
「鷺宮依子。黒羽宗一郎殺害などの容疑で身柄を確保する。県警へ引き継ぐ」
依子は抵抗しなかった。
「七禍は、なくなりますか」
誰に向けた問いかはわからなかった。
二階堂が答えた。
「伝承は残るでしょうね」
依子が顔を上げる。
「でも事件記録からは外す。海禍でも、火禍でも、血禍でもなく、六人が設備事故で死亡し、その責任を隠すため遺体が移動されたと書く」
「それだけ?」
「それだけを書くのが、二十一年かかったんです」
依子は目を閉じた。
館の外で、夜明け前の風が鳴っていた。
鐘は鳴らなかった。
鏡にも、誰の影も置かれなかった。
七禍島の夜は初めて、伝承ではなく、人間のしたことだけを残して明けようとしていた。




