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七禍島、鳳恭介の帰還 ―七つの禍に選ばれた死者と、遺体なき兄の謎―  作者: 二条理|アコンプリス


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第八章 音禍――時を狂わす鐘

 鐘の音は、上から聞こえた。

 そう思った。

 だが次の瞬間には、床下から響いているようにも感じた。

 七禍館の中で鳴る音は、いつも場所を失う。

 風洞回廊の風が旧祠の奥で鳴り、管理室の声が壁の中から聞こえ、血禍の間へ続く縦坑では水滴が時計のように時を刻んでいた。

 そこへ、鐘が鳴った。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 重い音だった。

 古い青銅を叩いたような、厚みのある音。けれど余韻は妙に短かった。普通なら、鐘の音は鳴った場所から広がる。空気を震わせ、壁に当たり、天井に返り、距離とともに丸くなる。

 だが今の鐘は違った。

 鳴った瞬間は近い。

 余韻だけが遠い。

 まるで音だけが、館の中を先に走って、あとから場所を探しているようだった。

 真壁彰は、血禍の間と呼ばれていた縦坑の前で立ち止まった。

 底には、黒い水がある。

 壁には古い木札。

 沙羅。

 真依。

 鳳悠一。

 七つ、血は死者を選ぶ。

 その下に、さっき赤いものが広がった。血に見えた。だが、まだ確認していない。水面に白い手のようなものも見えた。だが、それが人間の手かどうかも、まだ断定できない。

 確認すべきものが、そこにある。

 しかし鐘が鳴った。

 六つ、音は時を狂わす。

 二階堂壮也が、縦坑から目を離さずに言った。

「真壁」

「わかってる」

「鳴る時間じゃないよね」

「鳴る時間を知らない」

「でも、少なくとも今じゃない。鷺宮さんが死んだ直後、血禍の間を開けた直後、そこで鐘が鳴るのは、偶然にしては出来すぎ」

 鳳恭介は、縦坑の縁に片手を置いていた。

 真壁はその手首を掴んだままだった。

 鳳はまだ、下へ降りようとしている。

 理性では止まっている。

 だが身体が、兄の名前へ向かっている。

 真壁は低く言った。

「鳳さん。今は降りるな」

「下に誰かいます」

「いるかもしれない。だがこの縦坑も罠かもしれない」

「でも」

「でもじゃない。鐘が鳴った。犯人は俺たちを動かそうとしてる」

 二階堂が短く言った。

「鳳さん、いま下りたら“血禍の候補者の前で鳳恭介が何かをした”って文章になる」

 鳳の顔が歪んだ。

「……わかっています」

「わかってるなら、手を離す」

 真壁が言うと、鳳はゆっくり縦坑の縁から手を離した。

 その指先が震えていた。

 真壁は鳳の手首から手を離す。

 その瞬間、遠くで人の声がした。

 佐伯警部補の声だった。

「真壁さん!」

 声は、鏡廊下の方から聞こえたように思えた。

 しかしすぐに、別の方向から反響した。

 真壁は舌打ちした。

「どこだ」

 二階堂が顔を上げる。

「今の、佐伯さん?」

「ああ」

「近い? 遠い?」

「わからない」

 鳳が耳を澄ませた。

「鐘楼です」

「本当に?」

「最初の鐘は鐘楼から。ただ、佐伯さんの声は館内の音響管を通っているかもしれません」

「つまり場所がわからない」

「はい」

 真壁は無線を手にした。

「佐伯さん、聞こえますか」

 雑音。

 返答はない。

 まただ。

 肝心な時に、音が役に立たない。

 いや、違う。

 役に立たないのではなく、犯人に役立つ形でしか機能していない。

 真壁は判断した。

「鐘楼へ行く。二階堂は食堂へ戻って、全員の所在確認。九条にも連絡しろ。鳳は俺と来い」

 二階堂が一瞬、縦坑を見た。

「血禍の方は?」

「佐伯さんの部下を一人置く。誰も下ろすな。誰も近づけるな」

「了解」

 二階堂は走り出しかけて、振り返った。

「真壁」

「何だ」

「鐘が何回鳴ったか、覚えてる?」

「三回」

「俺も三回に聞こえた。でも、食堂では違うかもしれない」

「どういう意味だ」

「音禍だから」

 それだけ言って、二階堂は鏡廊下を戻っていった。

 真壁は鳳とともに鐘楼へ向かった。

 血禍の間の扉を閉め、佐伯の部下に現場保全を指示する。鏡廊下を抜ける時、割れた鏡が足元で細かく鳴った。鷺宮依子の遺体は、九条が戻るまで動かせない。佐伯のもう一人の部下が廊下の入口で見張っている。

 鏡は、まだ彼女の死を返している。

 胸元の血。

 二階堂のハンカチ。

 金色の糸。

 紫のガラス片。

 沙羅は、返した。

 何を返したのか。

 罪か。

 名前か。

 あるいは、二十一年前に別の誰かへ押しつけられた死を、元の場所へ返したのか。

 考えかけた時、また鐘が鳴った。

 一つ。

 今度は、はっきり近かった。

 真壁は足を止める。

「今のは」

「鐘楼方向です」

 鳳が答えた。

「だが、さっきより近い」

「近いというより、別の経路で届いています」

「別の経路?」

「館内の音響管か、通気口を通っている可能性があります。七禍館は音を回す構造がある。鳴った場所と聞こえる場所が一致しない」

「それを犯人が使っている」

「はい」

 鐘楼へ続く階段は、館の北側にあった。

 古い石段と木の階段が混ざっている。途中から急に狭くなり、壁が冷たく湿ってくる。塔というより、古い煙突の内側を登っているようだった。

 真壁が先に立ち、鳳が後に続く。

 階段の途中で、鳳が壁に手を当てた。

「空洞があります」

「どこにでもあるな」

「この館は、空洞が多すぎます」

「建築的におかしいか」

「おかしいというより、意図的です。音や風や水を通すための空間が、人の動線の裏に重なっている」

「七禍のために作られた館か」

 鳳はすぐには答えなかった。

「最初から殺人のために作られたとは思いません。ただ、見せるため、聞かせるため、隠すための構造がある。誰かがそれを殺人に使っている」

 階段の上から、微かな金属音がした。

 真壁は手を上げ、鳳を止めた。

 風ではない。

 何かが揺れている。

 鐘そのものか。

 あるいは、ロープか。

 真壁は慎重に階段を上がった。

 鐘楼の最上部は、狭い円形の空間だった。

 中央に大きな鐘が吊られている。

 古い青銅製の鐘。

 高さは一メートルほど。表面には七禍歌の一部らしき文字が刻まれている。鐘の下には太いロープ。周囲の壁には細い通気口がいくつもあり、外の風がそこから入り込んでいた。

 そして、鐘の横に人が倒れていた。

 佐伯警部補だった。

 真壁は走り寄った。

「佐伯さん!」

 佐伯は横向きに倒れていた。

 額から血が流れ、右手は鐘のロープを握っている。目は半開き。胸は動いていないように見えた。

 真壁は頸動脈を確認した。

 脈がない。

 呼吸もない。

 だが、真壁は死亡確認をしなかった。

 それは九条の仕事だ。

「鳳さん、九条を呼んでくれ」

「はい」

「無線が通じなければ走れ」

 鳳はすぐに階段へ向かった。

 真壁は佐伯の身体に触れず、周囲を見た。

 鐘のロープは佐伯の右手に絡んでいる。

 床には血痕。

 倒れた位置は、鐘から少し離れている。

 鐘の下に、古い木札が落ちていた。

 六つ、音は時を狂わす。

 その下に、佐伯警部補の名はない。

 代わりに、別の文字。

 九条雅紀。

 真壁は、奥歯を噛んだ。

 まただ。

 今度は九条の名前が置かれた。

 音禍の場所に。

 佐伯の死体のそばに。

 鐘の音が鳴った直後に。

 九条は、佐伯とどこで何をしていたか。

 真壁は記憶を辿る。

 九条は灯村と久世の処置をしていたはずだ。

 だが、その途中で一度、佐伯と話していたかもしれない。

 死亡時刻がずらされれば、九条の証言は矛盾する。

 音禍。

 時を狂わす。

 犯人は、死体だけでなく時間を置こうとしている。

 真壁は、鐘楼の床を見た。

 佐伯の靴跡。

 もう一人分の足跡は見えない。

 床は乾いている。

 だが、鐘の下だけがわずかに濡れていた。

 水滴。

 縦坑の底で聞いたような、一定間隔の水滴。

 真壁は、その水滴が鐘の内側から落ちていることに気づいた。

 鐘の中。

 真壁はライトを向けた。

 鐘の内側に、何かが貼り付けられている。

 小さな機械。

 録音機か。

 スピーカーか。

 いや、もっと単純なものかもしれない。

 真壁は触らずに位置を記憶した。

 階段を上がってくる足音がした。

 九条だった。

 鳳が後ろにいる。

 九条は一瞬で佐伯の状態を見て、真壁の横に膝をついた。

「触った?」

「脈と呼吸だけ」

「わかった」

 九条は頸動脈、瞳孔、呼吸を確認する。

 数秒後、低く言った。

「死亡確認」

 鐘楼の中で、その言葉が重く響いた。

 真壁は、木札を指した。

「お前の名前がある」

 九条は一瞬だけ木札を見た。

 表情はほとんど変わらなかった。

「そう」

「驚かないのか」

「順番的に、そろそろだと思ってた」

 鳳が苦い顔をする。

「順番的に、という言い方も嫌ですね」

「事実」

 九条は佐伯の首元を見ていた。

「死因は、頭部外傷だけじゃないかもしれない」

「どう見える」

「後頭部に打撲。額の血は倒れた時かもしれない。首に圧迫痕は……薄い。胸部に強い打撲もある。鐘にぶつかった?」

「自分で鐘を鳴らして転倒?」

「そう見せたいのかもしれない」

「死亡時刻は」

「この場では断定しない」

 真壁は、九条の言い方にわずかな引っかかりを覚えた。

「何かあるか」

「佐伯さんとは、さっき話した」

「いつ」

「灯村さんの処置の後。久世さんの処置を終えた後、廊下で」

「時刻は」

「鐘が鳴る十分くらい前」

「内容は」

「久世さんの状態と、灯村さんの搬送について」

「その時、佐伯さんは生きていた」

「生きていた」

 九条は淡々と言った。

「でも、この死体を見る限り、その時刻にはすでに死んでいた可能性もある」

 真壁は眉を寄せた。

「どういう意味だ」

「体温、出血、死後変化が微妙に合わない。もちろん、この環境では誤差が大きい。でも、俺が佐伯さんと話した時刻と、死亡推定がずれる可能性がある」

 鳳が小さく息を呑んだ。

「九条さんが話した相手は、佐伯さんではなかった?」

「その可能性もある」

 九条は言った。

「声だけだったから」

 真壁は、背筋に冷たいものを感じた。

「顔は見ていないのか」

「廊下の角で、背中を見た。佐伯さんの声で話された。俺は処置中で、手元の記録を見ながら答えた」

「顔は」

「見てない」

 音禍。

 時を狂わせる。

 声を置く。

 佐伯が生きていたと思わせる。

 九条に証言させる。

 そして死体の状態と食い違わせる。

 二階堂がいれば、こう言うだろう。

 犯人は、九条の言葉を犯人の文章へ組み込んだ。

 九条が佐伯と話したと言えば言うほど、九条は矛盾の中へ入る。

 九条は死体を読む人間だ。

 その九条の証言が、死体と矛盾する。

 それは、九条にとって最悪の配置だった。

「真壁」

 九条が言った。

「俺を外してもいい」

 真壁は即座に返した。

「外さない」

「俺の証言が汚染されている」

「だからお前自身に検証させる」

「合理的じゃない」

「合理的だ。お前が一番、死体を名前で見ない」

 九条は少しだけ黙った。

 鳳が、鐘を見上げている。

「鐘の音がおかしい」

「何が」

 真壁が訊く。

「この鐘は、本当に鳴っています。ただ、今聞いた音の一部は、この鐘ではないかもしれません」

「録音か」

「はい。鐘の内側に何かあります」

「見た」

 鳳は鐘の内側を覗き込んだ。

「小型のスピーカーです。水滴で作動する仕掛けかもしれません」

「水滴?」

「縦坑でも聞こえました。一定間隔で水が落ちる音。ここでも鐘の内側に水が落ちています。水の重みでスイッチが入る、あるいは接点が閉じる仕掛けなら、時間差で音を出せる」

 真壁は鐘楼の壁を見た。

 通気口。

 音響管。

 水滴。

 スピーカー。

 鐘。

 声。

 時刻。

 犯人は、音を使って館全体の時間を動かしている。

「二階堂を呼ぶ」

 真壁は言った。

「食堂の証言を取れ。鐘が何回鳴ったか、どこから聞こえたか、何時だと思ったか。全員別々に」

 鳳が頷き、階段へ向かった。

 真壁は九条を見る。

「お前は佐伯さんを見ろ。だが、自分の証言も全部書け。何時、どこで、何を聞き、何を見なかったか」

「わかった」

 九条は短く答えた。

 顔には出ない。

 だが真壁にはわかった。

 九条は傷ついている。

 自分の証言が、死体と矛盾するかもしれない。

 それは九条にとって、自分の目と手を疑われることに等しい。

 真壁は低く言った。

「九条」

「何」

「時刻が嘘をついてる」

 九条は真壁を見た。

「まだ断定できない」

「俺が言ってるだけだ」

「証拠は」

「これから探す」

 九条は、ほんのわずかに目を細めた。

「そう」

 それだけ言って、また佐伯の遺体へ視線を落とした。

     *

 二階堂が鐘楼へ来たのは、十分ほど後だった。

 階段を上がってきた時の顔で、真壁は状況が悪いことを察した。

「証言、割れてるな」

 二階堂は頷いた。

「かなり」

「どう割れた」

「食堂にいた人間は、鐘を四回聞いたと言ってる。調理担当の一人は二回。火野さんは三回。久世さんは、鐘の音は聞いていない。ただ、壁の中で誰かが歩く音を聞いたと言ってる」

「壁の中」

「うん。あと、灯村さんは意識が朦朧としてるけど、鐘の音に反応して“まだ早い”と言った」

「まだ早い?」

「そう」

 二階堂は鐘を見上げた。

「本来の鐘の時刻を知ってるのかも」

「佐伯さんの死亡時刻は」

「九条が困ってる顔してた」

 九条が横から言った。

「困ってない」

「困ってるよ。九条の困ってる顔、俺はわかる」

「顔は言わない」

「それ今言う余裕あるの、ちょっと安心した」

 九条は無視した。

「佐伯さんの死亡推定は、俺が“佐伯さんと話した”時刻より前に寄る可能性がある。環境要因を考えると確定ではない。でも少なくとも、鐘が鳴った直後に死んだとは考えにくい」

 二階堂が言った。

「つまり、鐘が鳴った時にはすでに死んでいた」

「可能性が高い」

「じゃあ、誰が鐘を鳴らした?」

 九条は鐘を見た。

「人間とは限らない」

 鳳が鐘の内側の仕掛けを見ながら言った。

「水滴式の遅延装置です」

 二階堂が目を細める。

「出た、嫌な仕掛け」

「簡単に言うと、一定量の水が溜まると重りが落ちる。その動きでスイッチが入り、スピーカーから録音された鐘の音が流れる。同時に、小さな金属球が鐘の内側を叩くようになっている」

「つまり、本物の鐘と録音の鐘が混ざる」

「はい」

「だから人によって聞いた回数が違う」

「場所によって、録音音声と本物の鐘の音、反響音がずれて聞こえるはずです」

 二階堂は小さく笑った。

「音は時を狂わす、ね。やってることは鐘のフェイクニュースだ」

 真壁は鐘のロープを見た。

「佐伯さんの手にロープが絡んでいた。自分で鳴らしたように見せるためか」

「はい」

 鳳が答える。

「でも実際には、佐伯さんが鳴らしたとは限りません。ロープは死後に握らされた可能性もある」

 九条が言った。

「右手の握り方が不自然。死後に絡められた可能性がある」

「また持ち物で存在を作る」

 二階堂が呟いた。

「黒羽さんの席、古賀さんの杖、佐伯さんのロープ。本人がそこにいたと思わせるための記号」

 真壁は佐伯の遺体を見た。

 地元県警の警部補。

 現場を一緒に守ろうとしていた男。

 その男が、鐘のそばに置かれている。

 九条の名を添えられて。

 音禍として。

 怒りが湧いた。

 だが、怒りを前に出すわけにはいかない。

 犯人は怒りも利用する。

「二階堂」

「何」

「犯人は、九条をどう疑わせたい」

「一番わかりやすいのは、死亡時刻の矛盾。九条は佐伯さんと話したと言う。でも死体はその前に死んでいたように見える。じゃあ九条が嘘をついた、もしくは佐伯さんの死亡時刻を操作した、という疑い」

「九条に動機は」

「現状は薄い。でも、犯人は動機より専門性で疑わせる気だと思う」

「専門性」

「九条は死亡時刻を読める。逆に言えば、死亡時刻を偽装できる人間に見える。医師で、死体に触れられて、皆から少し距離がある。疑わせるには十分」

 九条は淡々と聞いていた。

「俺を疑うのは合理的」

「そういうことを本人が言うから余計疑われるんだよ」

 二階堂が返す。

「ただし、犯人の文章としては下手。九条に罪を着せたいなら、もっと直接的な医療道具を置くはず。今回は九条の“証言”を汚しにきてる」

 真壁は頷いた。

「お前の時は見た目。俺の時は行動。九条の時は証言」

「そう」

 二階堂は言った。

「犯人は、俺たち三人の強みを逆に使ってる。真壁は現場へ行くから疑われる。俺は見られ方を扱うから見た目で疑われる。九条は死体と時刻を扱うから、証言と死亡時刻で疑われる」

 鳳が静かに言った。

「僕は、建物ですね」

 二階堂が鳳を見る。

「鳳さんは、たぶん最後に来ます」

 鳳は答えなかった。

 それは全員がわかっていた。

 血禍。

 鳳悠一。

 血禍の候補者。

 鳳恭介は、最後の見立てへ引き込まれる。

 犯人はそれを狙っている。

     *

 鐘楼の現場を保存し、佐伯の遺体を動かさないまま、真壁たちは食堂へ戻った。

 館の中は、もう完全に朝になっていた。

 だが、窓の外が明るくなるほど、館の中の影は濃くなった。

 食堂の人々は、鐘の音の証言を終えた後、疲弊し切っていた。調理担当の一人は泣いている。久世は小部屋で横になり、灯村は再び意識を失っている。火野朱里は、手帳を膝の上に置き、ずっと同じページを見ていた。

 鷺宮の死が告げられた時、朱里は顔を上げた。

「鷺宮さんも」

 真壁は頷いた。

「死亡が確認されました」

「鏡禍ですか」

 二階堂がすぐに言った。

「そう呼ばないでください」

 朱里は二階堂を見る。

「でも、そう見えるように殺された」

「だから呼ばないんです」

 二階堂の声は短かった。

「そう見えるように殺されたなら、犯人の見せ方に乗る必要はない」

 朱里は静かに目を伏せた。

「鷺宮さんは、沙羅さんのことを知っていました」

「ええ」

「でも、最後まで話さなかった」

「話そうとして殺された可能性があります」

「話すのが遅いと、死ぬんですね」

 その言葉は、自分に向けたもののようにも聞こえた。

 真壁は朱里を見た。

「火野さん。まだ話していないことがあるなら、今話してください」

 朱里は手帳を閉じた。

「母の日記に、鐘のこともあります」

 全員が彼女を見る。

「出してください」

 朱里は手帳を開いた。

 薄い紙をめくり、一箇所を示す。

 そこには、こう書かれていた。

 ――鐘は一度しか鳴っていないのに、真依は三度聞いたと言う。

 ――沙羅は、六つ目の音は人を騙すためにあると言った。

 ――鳳くんは、鐘楼ではなく壁が鳴っていると言った。

 鳳の顔が強張った。

「兄が、二十一年前に気づいていた」

「鐘楼ではなく壁が鳴っている」

 二階堂が繰り返す。

「今回と同じ」

 真壁は朱里に訊いた。

「なぜ今までこれを?」

「母の日記は、私にとって母の遺品です。証拠として扱われるのが怖かった」

「今は?」

「もう、遺品として守っている場合ではないと思いました」

 二階堂が朱里を見た。

「それは本心ですか」

 朱里は二階堂を見返した。

「今度は私を疑いますか」

「はい」

 あまりにも率直な返答だった。

 朱里は微かに笑った。

「正直ですね」

「嘘をつくところじゃないので」

「私は、母の名前を返してほしいだけです」

「そのために何をしたか、が問題です」

「私は殺していません」

「まだ、誰もあなたを犯人だとは言っていません」

「でも、そう見ている」

 二階堂は黙った。

 朱里は続けた。

「二階堂さんは、言葉を疑う。真壁さんは行動を見る。九条さんは死体を見る。鳳さんは建物を見る。では、遺族は何を見ればいいんですか」

 答える者はいなかった。

「遺族は、ずっと名前を見るしかないんです」

 朱里は手帳を撫でた。

「火野千景。母の名前です。火禍ではなく」

 その声に、真壁は胸を刺された。

 朱里の言葉は正しい。

 だが、正しい言葉は危うい。

 正しさは、ときに犯罪のすぐ隣に立つ。

 特に、誰も見てくれなかった時間が長すぎる時には。

 九条が静かに言った。

「名前を見るなら、死体を使わない方がいい」

 朱里は九条を見た。

「九条さんらしいですね」

「そう」

「でも、死体にならなければ見てもらえない人もいます」

「それは間違ってる」

「世の中が?」

「死体を使う人間が」

 九条の声は平坦だった。

 しかし、言葉は硬かった。

 朱里は何も言わなかった。

 真壁は、手帳の記述を写真に撮らせた。

 鐘は一度しか鳴っていないのに、三度聞いた。

 壁が鳴っている。

 二十一年前にも、音の錯誤があった。

 今回の音禍は、過去の再現であると同時に、過去の解説でもある。

 犯人は、二十一年前の七禍の嘘を見せている。

 だが、そのために現在の人間を殺している。

 許されない。

     *

 鐘楼の仕掛けを、鳳が図面に起こした。

 食堂の長卓に、紙が広げられる。

「鐘楼の鐘は実際に鳴っています。ただし、鳴った回数はおそらく一回です」

 鳳が言う。

「一回?」

 二階堂が確認する。

「はい。本物の鐘は一回。鐘の内部に仕込まれたスピーカーから録音が流れ、さらに館内の音響管を通って別の場所に反響した。結果として、場所によって二回、三回、四回に聞こえた」

「食堂では四回」

「鐘楼近くでは一回、あるいは二回。血禍の縦坑では三回。久世さんの小部屋では、音が壁の中を通っただけで鐘とは認識されなかった」

 九条が言った。

「死体の時間もずらした」

 鳳は頷く。

「水滴式の遅延装置で、鐘の音が鳴る時間を操作した可能性があります。佐伯さんが死んだ時刻と、鐘が鳴った時刻は一致しません」

 二階堂がメモを見ながら言う。

「つまり、犯人は佐伯さんを殺したあと、一定時間後に鐘が鳴るよう仕掛けた。みんなは鐘の時刻を佐伯さんの死と結びつける。九条はその前に佐伯さんの声を聞いたと思ってる。すると、九条の証言と死体が矛盾する」

「九条が嘘をついたように見える」

 真壁が言う。

「うん」

 二階堂は九条を見る。

「でも、九条が聞いた佐伯さんの声も、おそらく録音か模倣。あるいは、別人が背中だけ見せた」

「俺は顔を見ていない」

 九条は言った。

「声だけで佐伯さんだと思った」

「それを犯人は利用した」

「そう」

 九条は淡々としている。

 だが、真壁にはわかる。

 九条は、自分のミスを許していない。

 見なくてはいけないものを見なかった。

 確認すべき顔を確認しなかった。

 その一点を、ずっと自分の内側で責めている。

 真壁は言った。

「九条」

「何」

「お前のミスじゃない」

「ミスではある」

「罠だ」

「罠にかかったなら、ミス」

 二階堂が割り込んだ。

「その反省会、あとでやって。今やると犯人が喜ぶ」

 九条は黙った。

 二階堂は続ける。

「九条の証言が汚れたことが犯人の目的なら、ここで九条が自分を疑い始めるのが一番まずい」

「合理的」

「そう。だから合理的にやめて」

 九条は少しだけ目を伏せた。

「わかった」

 真壁は、その短い返事に少し安堵した。

 その時、灯村のいる小部屋から物音がした。

 全員が振り返る。

 九条がすぐに立つ。

 真壁も続いた。

 灯村要が、ベッド代わりの長椅子の上で目を開けていた。顔色は悪いが、意識はさっきよりはっきりしている。唇が乾き、呼吸は浅い。

「灯村さん」

 九条が近づく。

「無理に話さないで」

 灯村は首をわずかに振った。

「鐘……」

「鐘が聞こえた?」

 灯村は頷いた。

「違う……あれは……鐘じゃない」

「何ですか」

 真壁が訊く。

 灯村は目を閉じ、苦しそうに言った。

「壁だ……壁の中の鐘……二十一年前も……」

 真壁は身を乗り出した。

「二十一年前も、音を使ったんですか」

 灯村は呼吸を乱した。

 九条が止めようとする。

 しかし灯村は、言葉を絞り出した。

「沙羅が……逃げた夜……鐘が鳴った……でも、鐘楼には誰も……」

「沙羅は逃げた?」

 鳳の声が震えた。

 灯村は、鳳を見た。

 焦点の合わない目が、それでも鳳の顔を捉えようとする。

「鳳……悠一は……死んでない……」

 空気が止まった。

 鳳は動かなかった。

 真壁も、二階堂も、九条も。

 灯村の声だけが、かすれて続く。

「少なくとも……あの夜は……」

 そこで九条が強く止めた。

「ここまで。これ以上は危険」

 灯村は目を閉じた。

 鳳は、白くなった顔で立っていた。

 真壁は、鳳に声をかけようとしてやめた。

 言葉を選べない。

 兄は死んでいない。

 少なくとも、あの夜は。

 それは希望ではない。

 むしろ、さらに深い闇への入口だった。

 死んでいないなら、なぜ血禍の死者になったのか。

 その後、どこへ消えたのか。

 誰が、鳳悠一の名前を死者として置いたのか。

 二階堂が静かに言った。

「鳳さん」

 鳳は、ゆっくり二階堂を見た。

「今、その言葉に飛びつかない方がいい」

「わかっています」

 鳳の声は、かすかに震えていた。

「でも、聞いてしまいました」

「うん」

 二階堂は頷いた。

「だから、ここで一回止める。灯村さんの言葉も、まだ証言の一部。名前じゃない。結論じゃない」

 鳳は目を閉じた。

「兄は、血禍ではない」

「それは、たぶんそう」

 二階堂の声は珍しく優しかった。

「でも、兄さんが何だったのかは、まだ決めない」

 鳳は、小さく頷いた。

     *

 音禍の解明は、まだ途中だった。

 佐伯の死。

 九条の名が置かれた木札。

 鐘の偽装。

 灯村の証言。

 朱里の母の日記。

 それらは、二十一年前の事件と現在の事件を一気に近づけた。

 真壁は食堂の窓辺に立ち、海を見た。

 朝の海は青灰色だった。

 夜の海と違い、輪郭がある。波の線も、港も、燃えた船も、崖の下の水路も見える。

 だが、見えるようになったからといって、理解できるわけではない。

 見えるものは増えた。

 同時に、見えなかったものの多さもわかってきた。

 七禍島事件は、単純な見立て殺人ではない。

 七つの死をなぞった事件でもない。

 死んだ者。

 死んだことにされた者。

 逃げた者。

 名前を置かれた者。

 顔を奪われた者。

 声を塞がれた者。

 時刻を狂わされた者。

 それらを、誰かが七つの禍として並べた。

 二十一年前も。

 今も。

 二階堂が横に来た。

「真壁」

「何だ」

「今のところ、犯人は七禍を全部使う気だよね」

「ああ」

「海、火、土、風、鏡、音。残りは血」

「血禍の縦坑に、何かがいた」

「見た?」

「白い手のようなもの」

 二階堂は顔をしかめた。

「嫌な言い方」

「確認していない」

「沙羅かもしれない」

「名前を置くな」

「わかってる。でも犯人はそこへ置きたい」

 二階堂は食堂の奥を見た。

 鳳は、長卓の端で兄の日記と図面を見ている。九条は灯村の状態を確認している。朱里は母の日記を抱えて座っている。

「血禍は、鳳さんを狙うと思う」

「だろうな」

「あと、火野さんも」

「なぜ」

「火野さんは犯人かもしれない。でも同時に、血禍に利用される側でもある。犯人が別にいるなら、彼女は最高の候補者だよ。遺族で、七禍に詳しくて、動機がある」

「犯人に見える」

「そう」

 二階堂は低く言った。

「次は、血禍の候補者を並べてくる」

 真壁は縦坑を思い出した。

 沙羅。

 真依。

 鳳悠一。

 そして今の七禍館にいる者たち。

 鳳恭介。

 火野朱里。

 名前を返したい者たち。

 名前を置かれた者たち。

 その中から、誰かが“死者”として選ばれる。

 それが血禍。

 真壁は低く言った。

「選ばせない」

 二階堂は、少しだけ笑った。

「いいね。真壁らしい」

「笑うところか」

「いや、頼もしいところ」

 その時、館内放送が鳴った。

 ざらりとしたノイズ。

 全員が顔を上げる。

 真壁は身構えた。

 放送から、声が流れる。

 今度は男でも女でもない。

 録音を加工したような、平板な声。

「七つ」

 鳳が立ち上がった。

 声は続けた。

「血は、死者を選ぶ」

 食堂の扉が、内側からではなく、廊下の方から小さく叩かれた。

 一度。

 二度。

 三度。

 真壁が扉へ向かう。

 開ける前に、足元を確認する。

 罠はない。

 扉を開ける。

 廊下には誰もいない。

 ただ、床に木札が置かれていた。

 古い木札ではない。

 新しいものだった。

 そこには、三つの名前が書かれている。

 沙羅。

 火野朱里。

 鳳恭介。

 二階堂が、後ろで息を呑んだ。

 鳳は、動かなかった。

 朱里は、自分の名を見つめていた。

 真壁は木札を見下ろす。

 七つ、血は死者を選ぶ。

 犯人はついに、候補者を置いた。

 血禍は、まだ始まっていない。

 だが、死者を選ぶ準備だけは、整えられていた。


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