第八章 音禍――時を狂わす鐘
鐘の音は、上から聞こえた。
そう思った。
だが次の瞬間には、床下から響いているようにも感じた。
七禍館の中で鳴る音は、いつも場所を失う。
風洞回廊の風が旧祠の奥で鳴り、管理室の声が壁の中から聞こえ、血禍の間へ続く縦坑では水滴が時計のように時を刻んでいた。
そこへ、鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
重い音だった。
古い青銅を叩いたような、厚みのある音。けれど余韻は妙に短かった。普通なら、鐘の音は鳴った場所から広がる。空気を震わせ、壁に当たり、天井に返り、距離とともに丸くなる。
だが今の鐘は違った。
鳴った瞬間は近い。
余韻だけが遠い。
まるで音だけが、館の中を先に走って、あとから場所を探しているようだった。
真壁彰は、血禍の間と呼ばれていた縦坑の前で立ち止まった。
底には、黒い水がある。
壁には古い木札。
沙羅。
真依。
鳳悠一。
七つ、血は死者を選ぶ。
その下に、さっき赤いものが広がった。血に見えた。だが、まだ確認していない。水面に白い手のようなものも見えた。だが、それが人間の手かどうかも、まだ断定できない。
確認すべきものが、そこにある。
しかし鐘が鳴った。
六つ、音は時を狂わす。
二階堂壮也が、縦坑から目を離さずに言った。
「真壁」
「わかってる」
「鳴る時間じゃないよね」
「鳴る時間を知らない」
「でも、少なくとも今じゃない。鷺宮さんが死んだ直後、血禍の間を開けた直後、そこで鐘が鳴るのは、偶然にしては出来すぎ」
鳳恭介は、縦坑の縁に片手を置いていた。
真壁はその手首を掴んだままだった。
鳳はまだ、下へ降りようとしている。
理性では止まっている。
だが身体が、兄の名前へ向かっている。
真壁は低く言った。
「鳳さん。今は降りるな」
「下に誰かいます」
「いるかもしれない。だがこの縦坑も罠かもしれない」
「でも」
「でもじゃない。鐘が鳴った。犯人は俺たちを動かそうとしてる」
二階堂が短く言った。
「鳳さん、いま下りたら“血禍の候補者の前で鳳恭介が何かをした”って文章になる」
鳳の顔が歪んだ。
「……わかっています」
「わかってるなら、手を離す」
真壁が言うと、鳳はゆっくり縦坑の縁から手を離した。
その指先が震えていた。
真壁は鳳の手首から手を離す。
その瞬間、遠くで人の声がした。
佐伯警部補の声だった。
「真壁さん!」
声は、鏡廊下の方から聞こえたように思えた。
しかしすぐに、別の方向から反響した。
真壁は舌打ちした。
「どこだ」
二階堂が顔を上げる。
「今の、佐伯さん?」
「ああ」
「近い? 遠い?」
「わからない」
鳳が耳を澄ませた。
「鐘楼です」
「本当に?」
「最初の鐘は鐘楼から。ただ、佐伯さんの声は館内の音響管を通っているかもしれません」
「つまり場所がわからない」
「はい」
真壁は無線を手にした。
「佐伯さん、聞こえますか」
雑音。
返答はない。
まただ。
肝心な時に、音が役に立たない。
いや、違う。
役に立たないのではなく、犯人に役立つ形でしか機能していない。
真壁は判断した。
「鐘楼へ行く。二階堂は食堂へ戻って、全員の所在確認。九条にも連絡しろ。鳳は俺と来い」
二階堂が一瞬、縦坑を見た。
「血禍の方は?」
「佐伯さんの部下を一人置く。誰も下ろすな。誰も近づけるな」
「了解」
二階堂は走り出しかけて、振り返った。
「真壁」
「何だ」
「鐘が何回鳴ったか、覚えてる?」
「三回」
「俺も三回に聞こえた。でも、食堂では違うかもしれない」
「どういう意味だ」
「音禍だから」
それだけ言って、二階堂は鏡廊下を戻っていった。
真壁は鳳とともに鐘楼へ向かった。
血禍の間の扉を閉め、佐伯の部下に現場保全を指示する。鏡廊下を抜ける時、割れた鏡が足元で細かく鳴った。鷺宮依子の遺体は、九条が戻るまで動かせない。佐伯のもう一人の部下が廊下の入口で見張っている。
鏡は、まだ彼女の死を返している。
胸元の血。
二階堂のハンカチ。
金色の糸。
紫のガラス片。
沙羅は、返した。
何を返したのか。
罪か。
名前か。
あるいは、二十一年前に別の誰かへ押しつけられた死を、元の場所へ返したのか。
考えかけた時、また鐘が鳴った。
一つ。
今度は、はっきり近かった。
真壁は足を止める。
「今のは」
「鐘楼方向です」
鳳が答えた。
「だが、さっきより近い」
「近いというより、別の経路で届いています」
「別の経路?」
「館内の音響管か、通気口を通っている可能性があります。七禍館は音を回す構造がある。鳴った場所と聞こえる場所が一致しない」
「それを犯人が使っている」
「はい」
鐘楼へ続く階段は、館の北側にあった。
古い石段と木の階段が混ざっている。途中から急に狭くなり、壁が冷たく湿ってくる。塔というより、古い煙突の内側を登っているようだった。
真壁が先に立ち、鳳が後に続く。
階段の途中で、鳳が壁に手を当てた。
「空洞があります」
「どこにでもあるな」
「この館は、空洞が多すぎます」
「建築的におかしいか」
「おかしいというより、意図的です。音や風や水を通すための空間が、人の動線の裏に重なっている」
「七禍のために作られた館か」
鳳はすぐには答えなかった。
「最初から殺人のために作られたとは思いません。ただ、見せるため、聞かせるため、隠すための構造がある。誰かがそれを殺人に使っている」
階段の上から、微かな金属音がした。
真壁は手を上げ、鳳を止めた。
風ではない。
何かが揺れている。
鐘そのものか。
あるいは、ロープか。
真壁は慎重に階段を上がった。
鐘楼の最上部は、狭い円形の空間だった。
中央に大きな鐘が吊られている。
古い青銅製の鐘。
高さは一メートルほど。表面には七禍歌の一部らしき文字が刻まれている。鐘の下には太いロープ。周囲の壁には細い通気口がいくつもあり、外の風がそこから入り込んでいた。
そして、鐘の横に人が倒れていた。
佐伯警部補だった。
真壁は走り寄った。
「佐伯さん!」
佐伯は横向きに倒れていた。
額から血が流れ、右手は鐘のロープを握っている。目は半開き。胸は動いていないように見えた。
真壁は頸動脈を確認した。
脈がない。
呼吸もない。
だが、真壁は死亡確認をしなかった。
それは九条の仕事だ。
「鳳さん、九条を呼んでくれ」
「はい」
「無線が通じなければ走れ」
鳳はすぐに階段へ向かった。
真壁は佐伯の身体に触れず、周囲を見た。
鐘のロープは佐伯の右手に絡んでいる。
床には血痕。
倒れた位置は、鐘から少し離れている。
鐘の下に、古い木札が落ちていた。
六つ、音は時を狂わす。
その下に、佐伯警部補の名はない。
代わりに、別の文字。
九条雅紀。
真壁は、奥歯を噛んだ。
まただ。
今度は九条の名前が置かれた。
音禍の場所に。
佐伯の死体のそばに。
鐘の音が鳴った直後に。
九条は、佐伯とどこで何をしていたか。
真壁は記憶を辿る。
九条は灯村と久世の処置をしていたはずだ。
だが、その途中で一度、佐伯と話していたかもしれない。
死亡時刻がずらされれば、九条の証言は矛盾する。
音禍。
時を狂わす。
犯人は、死体だけでなく時間を置こうとしている。
真壁は、鐘楼の床を見た。
佐伯の靴跡。
もう一人分の足跡は見えない。
床は乾いている。
だが、鐘の下だけがわずかに濡れていた。
水滴。
縦坑の底で聞いたような、一定間隔の水滴。
真壁は、その水滴が鐘の内側から落ちていることに気づいた。
鐘の中。
真壁はライトを向けた。
鐘の内側に、何かが貼り付けられている。
小さな機械。
録音機か。
スピーカーか。
いや、もっと単純なものかもしれない。
真壁は触らずに位置を記憶した。
階段を上がってくる足音がした。
九条だった。
鳳が後ろにいる。
九条は一瞬で佐伯の状態を見て、真壁の横に膝をついた。
「触った?」
「脈と呼吸だけ」
「わかった」
九条は頸動脈、瞳孔、呼吸を確認する。
数秒後、低く言った。
「死亡確認」
鐘楼の中で、その言葉が重く響いた。
真壁は、木札を指した。
「お前の名前がある」
九条は一瞬だけ木札を見た。
表情はほとんど変わらなかった。
「そう」
「驚かないのか」
「順番的に、そろそろだと思ってた」
鳳が苦い顔をする。
「順番的に、という言い方も嫌ですね」
「事実」
九条は佐伯の首元を見ていた。
「死因は、頭部外傷だけじゃないかもしれない」
「どう見える」
「後頭部に打撲。額の血は倒れた時かもしれない。首に圧迫痕は……薄い。胸部に強い打撲もある。鐘にぶつかった?」
「自分で鐘を鳴らして転倒?」
「そう見せたいのかもしれない」
「死亡時刻は」
「この場では断定しない」
真壁は、九条の言い方にわずかな引っかかりを覚えた。
「何かあるか」
「佐伯さんとは、さっき話した」
「いつ」
「灯村さんの処置の後。久世さんの処置を終えた後、廊下で」
「時刻は」
「鐘が鳴る十分くらい前」
「内容は」
「久世さんの状態と、灯村さんの搬送について」
「その時、佐伯さんは生きていた」
「生きていた」
九条は淡々と言った。
「でも、この死体を見る限り、その時刻にはすでに死んでいた可能性もある」
真壁は眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「体温、出血、死後変化が微妙に合わない。もちろん、この環境では誤差が大きい。でも、俺が佐伯さんと話した時刻と、死亡推定がずれる可能性がある」
鳳が小さく息を呑んだ。
「九条さんが話した相手は、佐伯さんではなかった?」
「その可能性もある」
九条は言った。
「声だけだったから」
真壁は、背筋に冷たいものを感じた。
「顔は見ていないのか」
「廊下の角で、背中を見た。佐伯さんの声で話された。俺は処置中で、手元の記録を見ながら答えた」
「顔は」
「見てない」
音禍。
時を狂わせる。
声を置く。
佐伯が生きていたと思わせる。
九条に証言させる。
そして死体の状態と食い違わせる。
二階堂がいれば、こう言うだろう。
犯人は、九条の言葉を犯人の文章へ組み込んだ。
九条が佐伯と話したと言えば言うほど、九条は矛盾の中へ入る。
九条は死体を読む人間だ。
その九条の証言が、死体と矛盾する。
それは、九条にとって最悪の配置だった。
「真壁」
九条が言った。
「俺を外してもいい」
真壁は即座に返した。
「外さない」
「俺の証言が汚染されている」
「だからお前自身に検証させる」
「合理的じゃない」
「合理的だ。お前が一番、死体を名前で見ない」
九条は少しだけ黙った。
鳳が、鐘を見上げている。
「鐘の音がおかしい」
「何が」
真壁が訊く。
「この鐘は、本当に鳴っています。ただ、今聞いた音の一部は、この鐘ではないかもしれません」
「録音か」
「はい。鐘の内側に何かあります」
「見た」
鳳は鐘の内側を覗き込んだ。
「小型のスピーカーです。水滴で作動する仕掛けかもしれません」
「水滴?」
「縦坑でも聞こえました。一定間隔で水が落ちる音。ここでも鐘の内側に水が落ちています。水の重みでスイッチが入る、あるいは接点が閉じる仕掛けなら、時間差で音を出せる」
真壁は鐘楼の壁を見た。
通気口。
音響管。
水滴。
スピーカー。
鐘。
声。
時刻。
犯人は、音を使って館全体の時間を動かしている。
「二階堂を呼ぶ」
真壁は言った。
「食堂の証言を取れ。鐘が何回鳴ったか、どこから聞こえたか、何時だと思ったか。全員別々に」
鳳が頷き、階段へ向かった。
真壁は九条を見る。
「お前は佐伯さんを見ろ。だが、自分の証言も全部書け。何時、どこで、何を聞き、何を見なかったか」
「わかった」
九条は短く答えた。
顔には出ない。
だが真壁にはわかった。
九条は傷ついている。
自分の証言が、死体と矛盾するかもしれない。
それは九条にとって、自分の目と手を疑われることに等しい。
真壁は低く言った。
「九条」
「何」
「時刻が嘘をついてる」
九条は真壁を見た。
「まだ断定できない」
「俺が言ってるだけだ」
「証拠は」
「これから探す」
九条は、ほんのわずかに目を細めた。
「そう」
それだけ言って、また佐伯の遺体へ視線を落とした。
*
二階堂が鐘楼へ来たのは、十分ほど後だった。
階段を上がってきた時の顔で、真壁は状況が悪いことを察した。
「証言、割れてるな」
二階堂は頷いた。
「かなり」
「どう割れた」
「食堂にいた人間は、鐘を四回聞いたと言ってる。調理担当の一人は二回。火野さんは三回。久世さんは、鐘の音は聞いていない。ただ、壁の中で誰かが歩く音を聞いたと言ってる」
「壁の中」
「うん。あと、灯村さんは意識が朦朧としてるけど、鐘の音に反応して“まだ早い”と言った」
「まだ早い?」
「そう」
二階堂は鐘を見上げた。
「本来の鐘の時刻を知ってるのかも」
「佐伯さんの死亡時刻は」
「九条が困ってる顔してた」
九条が横から言った。
「困ってない」
「困ってるよ。九条の困ってる顔、俺はわかる」
「顔は言わない」
「それ今言う余裕あるの、ちょっと安心した」
九条は無視した。
「佐伯さんの死亡推定は、俺が“佐伯さんと話した”時刻より前に寄る可能性がある。環境要因を考えると確定ではない。でも少なくとも、鐘が鳴った直後に死んだとは考えにくい」
二階堂が言った。
「つまり、鐘が鳴った時にはすでに死んでいた」
「可能性が高い」
「じゃあ、誰が鐘を鳴らした?」
九条は鐘を見た。
「人間とは限らない」
鳳が鐘の内側の仕掛けを見ながら言った。
「水滴式の遅延装置です」
二階堂が目を細める。
「出た、嫌な仕掛け」
「簡単に言うと、一定量の水が溜まると重りが落ちる。その動きでスイッチが入り、スピーカーから録音された鐘の音が流れる。同時に、小さな金属球が鐘の内側を叩くようになっている」
「つまり、本物の鐘と録音の鐘が混ざる」
「はい」
「だから人によって聞いた回数が違う」
「場所によって、録音音声と本物の鐘の音、反響音がずれて聞こえるはずです」
二階堂は小さく笑った。
「音は時を狂わす、ね。やってることは鐘のフェイクニュースだ」
真壁は鐘のロープを見た。
「佐伯さんの手にロープが絡んでいた。自分で鳴らしたように見せるためか」
「はい」
鳳が答える。
「でも実際には、佐伯さんが鳴らしたとは限りません。ロープは死後に握らされた可能性もある」
九条が言った。
「右手の握り方が不自然。死後に絡められた可能性がある」
「また持ち物で存在を作る」
二階堂が呟いた。
「黒羽さんの席、古賀さんの杖、佐伯さんのロープ。本人がそこにいたと思わせるための記号」
真壁は佐伯の遺体を見た。
地元県警の警部補。
現場を一緒に守ろうとしていた男。
その男が、鐘のそばに置かれている。
九条の名を添えられて。
音禍として。
怒りが湧いた。
だが、怒りを前に出すわけにはいかない。
犯人は怒りも利用する。
「二階堂」
「何」
「犯人は、九条をどう疑わせたい」
「一番わかりやすいのは、死亡時刻の矛盾。九条は佐伯さんと話したと言う。でも死体はその前に死んでいたように見える。じゃあ九条が嘘をついた、もしくは佐伯さんの死亡時刻を操作した、という疑い」
「九条に動機は」
「現状は薄い。でも、犯人は動機より専門性で疑わせる気だと思う」
「専門性」
「九条は死亡時刻を読める。逆に言えば、死亡時刻を偽装できる人間に見える。医師で、死体に触れられて、皆から少し距離がある。疑わせるには十分」
九条は淡々と聞いていた。
「俺を疑うのは合理的」
「そういうことを本人が言うから余計疑われるんだよ」
二階堂が返す。
「ただし、犯人の文章としては下手。九条に罪を着せたいなら、もっと直接的な医療道具を置くはず。今回は九条の“証言”を汚しにきてる」
真壁は頷いた。
「お前の時は見た目。俺の時は行動。九条の時は証言」
「そう」
二階堂は言った。
「犯人は、俺たち三人の強みを逆に使ってる。真壁は現場へ行くから疑われる。俺は見られ方を扱うから見た目で疑われる。九条は死体と時刻を扱うから、証言と死亡時刻で疑われる」
鳳が静かに言った。
「僕は、建物ですね」
二階堂が鳳を見る。
「鳳さんは、たぶん最後に来ます」
鳳は答えなかった。
それは全員がわかっていた。
血禍。
鳳悠一。
血禍の候補者。
鳳恭介は、最後の見立てへ引き込まれる。
犯人はそれを狙っている。
*
鐘楼の現場を保存し、佐伯の遺体を動かさないまま、真壁たちは食堂へ戻った。
館の中は、もう完全に朝になっていた。
だが、窓の外が明るくなるほど、館の中の影は濃くなった。
食堂の人々は、鐘の音の証言を終えた後、疲弊し切っていた。調理担当の一人は泣いている。久世は小部屋で横になり、灯村は再び意識を失っている。火野朱里は、手帳を膝の上に置き、ずっと同じページを見ていた。
鷺宮の死が告げられた時、朱里は顔を上げた。
「鷺宮さんも」
真壁は頷いた。
「死亡が確認されました」
「鏡禍ですか」
二階堂がすぐに言った。
「そう呼ばないでください」
朱里は二階堂を見る。
「でも、そう見えるように殺された」
「だから呼ばないんです」
二階堂の声は短かった。
「そう見えるように殺されたなら、犯人の見せ方に乗る必要はない」
朱里は静かに目を伏せた。
「鷺宮さんは、沙羅さんのことを知っていました」
「ええ」
「でも、最後まで話さなかった」
「話そうとして殺された可能性があります」
「話すのが遅いと、死ぬんですね」
その言葉は、自分に向けたもののようにも聞こえた。
真壁は朱里を見た。
「火野さん。まだ話していないことがあるなら、今話してください」
朱里は手帳を閉じた。
「母の日記に、鐘のこともあります」
全員が彼女を見る。
「出してください」
朱里は手帳を開いた。
薄い紙をめくり、一箇所を示す。
そこには、こう書かれていた。
――鐘は一度しか鳴っていないのに、真依は三度聞いたと言う。
――沙羅は、六つ目の音は人を騙すためにあると言った。
――鳳くんは、鐘楼ではなく壁が鳴っていると言った。
鳳の顔が強張った。
「兄が、二十一年前に気づいていた」
「鐘楼ではなく壁が鳴っている」
二階堂が繰り返す。
「今回と同じ」
真壁は朱里に訊いた。
「なぜ今までこれを?」
「母の日記は、私にとって母の遺品です。証拠として扱われるのが怖かった」
「今は?」
「もう、遺品として守っている場合ではないと思いました」
二階堂が朱里を見た。
「それは本心ですか」
朱里は二階堂を見返した。
「今度は私を疑いますか」
「はい」
あまりにも率直な返答だった。
朱里は微かに笑った。
「正直ですね」
「嘘をつくところじゃないので」
「私は、母の名前を返してほしいだけです」
「そのために何をしたか、が問題です」
「私は殺していません」
「まだ、誰もあなたを犯人だとは言っていません」
「でも、そう見ている」
二階堂は黙った。
朱里は続けた。
「二階堂さんは、言葉を疑う。真壁さんは行動を見る。九条さんは死体を見る。鳳さんは建物を見る。では、遺族は何を見ればいいんですか」
答える者はいなかった。
「遺族は、ずっと名前を見るしかないんです」
朱里は手帳を撫でた。
「火野千景。母の名前です。火禍ではなく」
その声に、真壁は胸を刺された。
朱里の言葉は正しい。
だが、正しい言葉は危うい。
正しさは、ときに犯罪のすぐ隣に立つ。
特に、誰も見てくれなかった時間が長すぎる時には。
九条が静かに言った。
「名前を見るなら、死体を使わない方がいい」
朱里は九条を見た。
「九条さんらしいですね」
「そう」
「でも、死体にならなければ見てもらえない人もいます」
「それは間違ってる」
「世の中が?」
「死体を使う人間が」
九条の声は平坦だった。
しかし、言葉は硬かった。
朱里は何も言わなかった。
真壁は、手帳の記述を写真に撮らせた。
鐘は一度しか鳴っていないのに、三度聞いた。
壁が鳴っている。
二十一年前にも、音の錯誤があった。
今回の音禍は、過去の再現であると同時に、過去の解説でもある。
犯人は、二十一年前の七禍の嘘を見せている。
だが、そのために現在の人間を殺している。
許されない。
*
鐘楼の仕掛けを、鳳が図面に起こした。
食堂の長卓に、紙が広げられる。
「鐘楼の鐘は実際に鳴っています。ただし、鳴った回数はおそらく一回です」
鳳が言う。
「一回?」
二階堂が確認する。
「はい。本物の鐘は一回。鐘の内部に仕込まれたスピーカーから録音が流れ、さらに館内の音響管を通って別の場所に反響した。結果として、場所によって二回、三回、四回に聞こえた」
「食堂では四回」
「鐘楼近くでは一回、あるいは二回。血禍の縦坑では三回。久世さんの小部屋では、音が壁の中を通っただけで鐘とは認識されなかった」
九条が言った。
「死体の時間もずらした」
鳳は頷く。
「水滴式の遅延装置で、鐘の音が鳴る時間を操作した可能性があります。佐伯さんが死んだ時刻と、鐘が鳴った時刻は一致しません」
二階堂がメモを見ながら言う。
「つまり、犯人は佐伯さんを殺したあと、一定時間後に鐘が鳴るよう仕掛けた。みんなは鐘の時刻を佐伯さんの死と結びつける。九条はその前に佐伯さんの声を聞いたと思ってる。すると、九条の証言と死体が矛盾する」
「九条が嘘をついたように見える」
真壁が言う。
「うん」
二階堂は九条を見る。
「でも、九条が聞いた佐伯さんの声も、おそらく録音か模倣。あるいは、別人が背中だけ見せた」
「俺は顔を見ていない」
九条は言った。
「声だけで佐伯さんだと思った」
「それを犯人は利用した」
「そう」
九条は淡々としている。
だが、真壁にはわかる。
九条は、自分のミスを許していない。
見なくてはいけないものを見なかった。
確認すべき顔を確認しなかった。
その一点を、ずっと自分の内側で責めている。
真壁は言った。
「九条」
「何」
「お前のミスじゃない」
「ミスではある」
「罠だ」
「罠にかかったなら、ミス」
二階堂が割り込んだ。
「その反省会、あとでやって。今やると犯人が喜ぶ」
九条は黙った。
二階堂は続ける。
「九条の証言が汚れたことが犯人の目的なら、ここで九条が自分を疑い始めるのが一番まずい」
「合理的」
「そう。だから合理的にやめて」
九条は少しだけ目を伏せた。
「わかった」
真壁は、その短い返事に少し安堵した。
その時、灯村のいる小部屋から物音がした。
全員が振り返る。
九条がすぐに立つ。
真壁も続いた。
灯村要が、ベッド代わりの長椅子の上で目を開けていた。顔色は悪いが、意識はさっきよりはっきりしている。唇が乾き、呼吸は浅い。
「灯村さん」
九条が近づく。
「無理に話さないで」
灯村は首をわずかに振った。
「鐘……」
「鐘が聞こえた?」
灯村は頷いた。
「違う……あれは……鐘じゃない」
「何ですか」
真壁が訊く。
灯村は目を閉じ、苦しそうに言った。
「壁だ……壁の中の鐘……二十一年前も……」
真壁は身を乗り出した。
「二十一年前も、音を使ったんですか」
灯村は呼吸を乱した。
九条が止めようとする。
しかし灯村は、言葉を絞り出した。
「沙羅が……逃げた夜……鐘が鳴った……でも、鐘楼には誰も……」
「沙羅は逃げた?」
鳳の声が震えた。
灯村は、鳳を見た。
焦点の合わない目が、それでも鳳の顔を捉えようとする。
「鳳……悠一は……死んでない……」
空気が止まった。
鳳は動かなかった。
真壁も、二階堂も、九条も。
灯村の声だけが、かすれて続く。
「少なくとも……あの夜は……」
そこで九条が強く止めた。
「ここまで。これ以上は危険」
灯村は目を閉じた。
鳳は、白くなった顔で立っていた。
真壁は、鳳に声をかけようとしてやめた。
言葉を選べない。
兄は死んでいない。
少なくとも、あの夜は。
それは希望ではない。
むしろ、さらに深い闇への入口だった。
死んでいないなら、なぜ血禍の死者になったのか。
その後、どこへ消えたのか。
誰が、鳳悠一の名前を死者として置いたのか。
二階堂が静かに言った。
「鳳さん」
鳳は、ゆっくり二階堂を見た。
「今、その言葉に飛びつかない方がいい」
「わかっています」
鳳の声は、かすかに震えていた。
「でも、聞いてしまいました」
「うん」
二階堂は頷いた。
「だから、ここで一回止める。灯村さんの言葉も、まだ証言の一部。名前じゃない。結論じゃない」
鳳は目を閉じた。
「兄は、血禍ではない」
「それは、たぶんそう」
二階堂の声は珍しく優しかった。
「でも、兄さんが何だったのかは、まだ決めない」
鳳は、小さく頷いた。
*
音禍の解明は、まだ途中だった。
佐伯の死。
九条の名が置かれた木札。
鐘の偽装。
灯村の証言。
朱里の母の日記。
それらは、二十一年前の事件と現在の事件を一気に近づけた。
真壁は食堂の窓辺に立ち、海を見た。
朝の海は青灰色だった。
夜の海と違い、輪郭がある。波の線も、港も、燃えた船も、崖の下の水路も見える。
だが、見えるようになったからといって、理解できるわけではない。
見えるものは増えた。
同時に、見えなかったものの多さもわかってきた。
七禍島事件は、単純な見立て殺人ではない。
七つの死をなぞった事件でもない。
死んだ者。
死んだことにされた者。
逃げた者。
名前を置かれた者。
顔を奪われた者。
声を塞がれた者。
時刻を狂わされた者。
それらを、誰かが七つの禍として並べた。
二十一年前も。
今も。
二階堂が横に来た。
「真壁」
「何だ」
「今のところ、犯人は七禍を全部使う気だよね」
「ああ」
「海、火、土、風、鏡、音。残りは血」
「血禍の縦坑に、何かがいた」
「見た?」
「白い手のようなもの」
二階堂は顔をしかめた。
「嫌な言い方」
「確認していない」
「沙羅かもしれない」
「名前を置くな」
「わかってる。でも犯人はそこへ置きたい」
二階堂は食堂の奥を見た。
鳳は、長卓の端で兄の日記と図面を見ている。九条は灯村の状態を確認している。朱里は母の日記を抱えて座っている。
「血禍は、鳳さんを狙うと思う」
「だろうな」
「あと、火野さんも」
「なぜ」
「火野さんは犯人かもしれない。でも同時に、血禍に利用される側でもある。犯人が別にいるなら、彼女は最高の候補者だよ。遺族で、七禍に詳しくて、動機がある」
「犯人に見える」
「そう」
二階堂は低く言った。
「次は、血禍の候補者を並べてくる」
真壁は縦坑を思い出した。
沙羅。
真依。
鳳悠一。
そして今の七禍館にいる者たち。
鳳恭介。
火野朱里。
名前を返したい者たち。
名前を置かれた者たち。
その中から、誰かが“死者”として選ばれる。
それが血禍。
真壁は低く言った。
「選ばせない」
二階堂は、少しだけ笑った。
「いいね。真壁らしい」
「笑うところか」
「いや、頼もしいところ」
その時、館内放送が鳴った。
ざらりとしたノイズ。
全員が顔を上げる。
真壁は身構えた。
放送から、声が流れる。
今度は男でも女でもない。
録音を加工したような、平板な声。
「七つ」
鳳が立ち上がった。
声は続けた。
「血は、死者を選ぶ」
食堂の扉が、内側からではなく、廊下の方から小さく叩かれた。
一度。
二度。
三度。
真壁が扉へ向かう。
開ける前に、足元を確認する。
罠はない。
扉を開ける。
廊下には誰もいない。
ただ、床に木札が置かれていた。
古い木札ではない。
新しいものだった。
そこには、三つの名前が書かれている。
沙羅。
火野朱里。
鳳恭介。
二階堂が、後ろで息を呑んだ。
鳳は、動かなかった。
朱里は、自分の名を見つめていた。
真壁は木札を見下ろす。
七つ、血は死者を選ぶ。
犯人はついに、候補者を置いた。
血禍は、まだ始まっていない。
だが、死者を選ぶ準備だけは、整えられていた。




