第六章 死者の名簿
黒羽宗一郎の部屋には、衣服より図面が多かった。
七禍館の平面図、断面図、設備図。二十一年前の工事日報。島の旧所有者名簿。事故当時の新聞記事。いずれも開発会社の責任者が業務で集めた範囲を越えている。
机の中央に、一枚の解体計画図があった。
赤線で囲まれた範囲は、七禍館のほぼ全域。
保存予定は、玄関の名板だけ。
その名板にも修正指示が入っている。
鳳悠一――削除。
代わりに、空欄を置く。
「名前を消そうとした?」
二階堂が訊く。
鳳は図面を見たまま答えた。
「死者としての名前を、です」
「兄だと思う?」
「思います」
「証明は?」
「まだありません」
「いい答え」
二階堂は机の引き出しを開けた。
中には、未送信の封筒が一通あった。
宛名は鳳恭介。
真壁が手袋を替え、封を確認する。糊付けはされていない。中には便箋ではなく、古い建築用トレーシングペーパーが入っていた。
七禍館の断面図。
地下の一室に丸がつき、横に短い言葉がある。
――恭介へ。壁の厚さを信じるな。壁を厚くした理由を見ろ。
鳳の指が震えた。
「兄の字です」
「二十一年前の字と比較する」
真壁が言う。
「はい」
鳳はそれ以上触れなかった。
未送信の封筒は一通だけではなかった。
机の最下段に、青い図面箱がある。
鳳が蓋へ手を掛け、途中で止めた。
「開けてください」
真壁が言う。
「僕が?」
「宛先はお前だ。だが証拠でもある。俺が立ち会う」
鳳は頷いた。
箱の中に、五通の封筒が年代順に並んでいる。
事故の翌年。
五年後。
十年後。
十五年後。
そして今年。
どれにも切手はない。
最初の封筒には、便箋が一枚だけ入っていた。
――恭介。生きている。いまは帰れない。
署名はなかった。
「これだけ?」
二階堂が訊く。
「生きていると伝えるだけなら、送れたはずです」
鳳は紙を見た。
「送れば、差出場所がわかる」
真壁が言う。
「当時は家族も監視されていた可能性がある」
「最初の数年は、ですね」
鳳の声は平らだった。
二通目は、黒羽宗親の病状と、養子縁組の経緯が書かれていた。
――俺を助けた人がいる。その人の息子として生きる。鳳の名を捨てるわけではない。でも、二つの家のどちらにも、半分だけ戻ることはできない。
文章は途中で切れ、最後の三行が黒く塗り潰されている。
斜光を当てると、筆圧だけが残っていた。
――父さんと母さんに、俺は死んだままでいてほしいと言えるのか。
――お前に、兄は生きているが帰らないと伝えて、何を待たせるのか。
――決められない。
「決められないから、知らせなかった」
鳳が言った。
「それも決めたことになります」
誰も反論しなかった。
三通目には父の死亡記事と、実家の電話番号、同じ夜の七つの時刻が書かれていた。
公衆電話で受話器を取り、最後の番号を押せずに戻った時刻なのかもしれない。
最後に一文だけ残っている。
――父さんの葬式へ行かなかった。行けなかった、とは書かない。
鳳は便箋を机へ置いた。
「母は、葬式のあとも兄の席を空けていました」
「黒羽さんは知らなかった」
「知ろうとしなかったんです」
四通目は、便箋ではなかった。
京東大学の公開講座の案内。
講師名は、鳳恭介。
題目は《改修建築に残る設計者の意思――隠された構造を読む》。
開催日は三年前。
入場券の半券が挟まれている。
座席は最後列の端だった。
「来ていた」
鳳の指が半券へ触れる。
「僕の講演に」
裏面に、黒羽の字がある。
――声が父さんに似た。
――説明の前に、図面の余白を見る癖は変わらない。
――終わったあと、名乗ろうとした。
裏面には、名乗ろうとした跡が何度も消され、最後に一行だけ残っていた。
――人が多かった。
「人が多かったからじゃない」
二階堂が半券を見つめる。
「わかっています。兄は帰れない理由を、なくなるたび補強した」
鳳は公開講座の案内を閉じた。
五通目は、今年の日付だった。
封筒の宛名には、大学ではなく鳳の自宅住所が書かれている。
「住所を知っていた」
真壁が言う。
「大学の公開情報ではありません」
鳳は便箋を開いた。
中身は一行だった。
――七禍島へ来てほしい。帰るために、建物を見てほしい。
その下に、書きかけの署名がある。
鳳。
最初の一画で止まり、横に黒羽宗一郎と書き直されていた。
二つの名前の間へ、細い縦線が一本引かれている。
「送らなかった代わりに、開発会社の正式な依頼を出した」
兄から弟へ送る言葉はなく、報酬と調査条件だけが並んでいた。
「仕事なら、断られても兄として拒絶されたことにならない」
二階堂が言った。
「兄は僕を試したんでしょうか」
「自分を守ったんだと思う」
真壁が答えた。
「お前を守ることと、自分が名乗らずに済むことが、途中から同じ形になった」
鳳は五通を年代順へ戻した。
「守ったつもりだった、で終わらせたくありません」
「終わらせなくていい」
「兄が死んだから、理解しなければならない気がします」
「理解と許すことは別だ」
真壁は言った。
「死者になったから正しい人間になるわけじゃない」
九条が薬箱から顔を上げた。
「死体は、生前の判断を改善しない」
二階堂が小さく笑う。
「九条、それ慰めとしては最悪だけど、内容はいいね」
「慰めてない」
鳳は箱の蓋を閉じなかった。
五通の手紙は、帰れなかった二十一年の説明ではない。
帰らない判断を、毎回やり直した記録だった。
そのどれにも、弟の返事を書く場所は残されていなかった。
九条がベッド脇の薬箱を調べている。
「鎮痛薬。胃薬。古い骨折の痛み止め」
「右手首?」
「たぶん。診察券がある」
本土の整形外科。患者名は黒羽宗一郎。過去の画像データ照会には令状と時間が必要だが、手術歴欄に「二十一年前、右橈骨遠位端骨折。鋼線固定」とあった。
鳳の兄が受けた治療法と一致している。
「珍しい?」
真壁が訊く。
「治療自体は珍しくない。でも骨折時期、場所、現在の変形が合えば強い」
「DNAは」
「死者の血液は採取した。鳳先生が同意すれば、親族関係の鑑定はできる」
鳳は迷わなかった。
「お願いします」
「結果は島を出てから」
「わかっています」
黒羽の携帯電話は、部屋の金庫から見つかった。
八時十二分、鷺宮依子からメッセージが届いている。
《記録室の原本を確認しました。お一人で鐘楼へお越しください。鳳先生には、まだ知らせない方がいいでしょう》
黒羽の返信。
《今夜、終わらせる。彼には私から話す》
依子は、送信を認めた。
「記録室で会う予定でした。鐘楼と書いたのは、黒羽さんから場所を変えたいと言われたからです」
「そのやり取りは残っていない」
「口頭でした」
「管理室のコーヒーに薬が入っていた」
「私も同じポットから飲みました」
「あなたのカップは洗われている」
「習慣です」
「黒羽のカップだけ残した?」
「片づける前に停電が起きました」
説明はできる。
できすぎるほどに。
二階堂は依子の言葉を書き留めていた。
「鷺宮さん。昨夜、鏡の中の黒羽さんを見て、右手を上げたと言いましたね」
「……言い間違いです。鏡では左に見えました」
「港で船を迎えた時、黒羽さんが最上階の窓にいたという話には、見違いだと言った」
「榊さんが地下にいると話したからです」
「でも、黒羽さんはその時間、地下にいなかった可能性がある。榊さんは予定を聞いただけで、見ていない」
「何がおっしゃりたいんですか」
「あなたは見えるものを、都合に合わせて本物と見違いに分けている」
依子は薄く笑った。
「広報の方は、言葉だけで人を犯人にできるのですね」
「逆です。言葉だけで犯人にされる人を減らすために、言葉を見てる」
二階堂はペンを閉じた。
「火野朱里さんみたいに」
その日の午前、県警から過去資料の画像が届いた。
二十一年前の死亡者名簿。
遺体発見報告。
島保存会の広報文。
地元紙の第一報。
二階堂は食堂の長机へ並べ、発表時刻を付箋で示した。
「変なんだよ」
「どこが」
真壁が隣に立つ。
「地元紙の号外は、七人目が発見されたとされる時刻の四十分前に印刷を始めてる。見出しは『七人は禍に選ばれた』。記事本文にも、血禍の死者は鳳悠一とある」
「発見前に、死者の名前が決まっていた」
「島の保存会が配った広報文をそのまま使ってる。作成者は鷺宮依子の父、鷺宮征一」
九条が名簿を見た。
「六人の死亡推定時刻は、全員ほぼ同じ」
「記録では別々の場所で事故に遭った」
「でも死後硬直と体温の記載を読み直すと、一時間以内。海で溺れた人、焼死した人、土砂に埋まった人が、同時に死ぬのは不自然」
鳳が図面を重ねた。
「地下発電室から七箇所へ、運搬路が伸びています。六人を移した後、最後の一人だけ遺体がなかった」
「だから鳳悠一を選んだ」
真壁は名簿の空白を見る。
「事故を目撃し、島から消えた人間。死者にすれば口を塞げる。七という数も完成する」
二階堂が古い広報文の下書きを裏返した。
裏面に鉛筆の圧痕がある。斜光を当てると、消された文章が浮かんだ。
――六名、地下設備室にて死亡。一名、所在不明。
その一行の上から、別の言葉が書かれている。
――七人は、禍に選ばれた。
「事実を物語へ直した瞬間だ」
二階堂が呟いた。
紙の端には、子どものように細い字で補足があった。
《血禍は悠一。父の指示》
依子は当時十六歳だった。
「依子が書いたのか」
「筆跡鑑定は必要。でも現在の記録簿の字に似てる」
「父に言われて、名を書いた」
鳳は兄の名前を見つめていた。
「十六歳の彼女が、兄を死者にした」
真壁は鳳へ視線を向けた。
「その時の行為と、昨夜の殺人は分ける」
「わかっています」
「同情と無罪も、同じじゃない」
二階堂が言う。
「父親に命じられた十六歳と、三十七歳の管理人は同じ人だけど、同じ責任じゃない。混ぜると、どっちも見えなくなる」
九条が古い遺体写真を一枚ずつ見ていた。
「六人は、別々の禍で死んでない」
「断定できるか」
「火禍の遺体に生体反応がない。土禍の口腔に土がない。海禍の肺に水が少ない。風禍の索条痕も死後。全員の死因は一酸化炭素中毒で矛盾しない」
「二十一年前も、一つの死体群に七つの見え方を重ねた」
鳳が言った。
「昨夜の犯人は、それを再現したんじゃない」
「何が違う?」
「隠蔽の手順を、もう一度使ったんです。七禍の見立てではなく、鷺宮征一が死体を運んだ方法を」
真壁は顔を上げた。
昨夜の犯人は、伝承を知っているだけでは足りない。
二十一年前、どの機械で、どの順に、どの通路を使って死体を動かしたかを知っている。
その記録は、表には残っていない。
知る者は、実行した者か、実行した者から直接聞いた者だけだった。




