第五章 火は記録を選ばない
黒羽の部屋へ向かう途中で、鳳が立ち止まった。
「焦げ臭い」
真壁も足を止めた。
地下で見つけた煤や、血禍の間に残る焼けた布の匂いとは違う。もっと新しい。紙と、埃と、古い塗料が熱を持った匂いだった。
「火災報知器は」
「鳴っていません」
依子が答えた。
その声が廊下の奥から届いた時、二階堂は周囲を見回した。
「火野さんは?」
全員の視線が、朱里を留めていた客室へ向いた。
扉は半分開いていた。
室内に人はいない。
机の上には、朱里が分類していた新聞記事。ベッドには赤いスカーフ。床には資料ケースの中身が散らばり、内張りの一部が刃物で切られていた。
切れ目の奥は、細長い空洞になっている。
「原本を隠していた場所」
二階堂が言った。
机の中央に、折り畳まれた紙が一枚置かれていた。
印刷された文字は一行だけだった。
《火野千景の原本を返す。旧映写室へ。一人で来い》
「いつからいない」
真壁が訊く。
榊が時計を見る。
「十分ほど前、廊下で見ました。火野さんは部屋へ戻ると」
「旧映写室はどこだ」
「火禍展示室の裏です」
依子が答えた。
「二十一年前の記録映像を上映していた部屋ですが、いまは使用していません」
「鍵は」
「管理鍵です」
依子の腰には、鍵束がある。
「私の鍵はここにあります」
「合鍵は」
「保守用が一本。事務室の封印箱に」
榊が走り出した。
真壁は紙を証拠袋へ入れ、旧映写室へ向かった。
七禍館の西棟は、廊下を曲がるたび床の高さが変わった。火禍展示室へ近づくと、焦げ臭さが濃くなる。
火災報知器は鳴らない。
鳳が天井を見た。
「この区画だけ、感知器が新しい」
「新しいなら鳴るだろ」
「配線が切られていなければ」
火禍展示室には、赤い照明が残っていた。
壁一面に、過去の祭礼写真。中央のガラスケースには焦げた祭具と、複製された火野千景のスカーフが置かれている。
朱里が港で言った通り、焼けた遺体写真を展示するための空の額も準備されていた。
その奥に、映写室の鉄扉がある。
扉の隙間から、黒い煙が細く流れていた。
「朱里!」
真壁が扉を叩く。
返事はない。
取っ手は動かなかった。鍵が掛かっているだけではない。内側で何かが引っかかっている。
鳳が扉の周囲へ手を当てた。
「防火戸です。旧式の落下錠が作動している」
「外から開けられるか」
「通常は管理鍵で。ただ、熱で作動したなら上部の解除索を引く必要があります」
「どこだ」
「壁の中です」
「鳳先生」
「壊す位置を見ています」
真壁が返す前に、九条が煙の流れを見た。
「下から出てない。上から吸われてる」
煙は扉の隙間から廊下へ溢れるのではなく、上部の通気口へ引かれていた。
鳳の表情が変わる。
「排煙ではありません。旧映写機の冷却ダクトが動いている」
「火を大きくするためか」
「火を映写室の奥へ引くためです。映写室の裏にフィルム保管庫がある」
「中に人がいたら」
「煙も同じ方向へ流れます」
九条が短く言った。
「意識を失う」
真壁は無線を取り出した。
「灯村、消火器と工具を持って西棟へ。榊、主電源を落とせ。久世は全員を東棟へ移せ」
『了解』
鳳は火禍展示室の壁を測った。
「映写室は、見えている扉から入る前提で作られていません」
「どういう意味だ」
「映写機を交換するための搬入口が、裏のサービス廊下にあるはずです。改修図では塞がれていますが、壁の厚さが二十センチ足りない」
「場所は」
鳳は空の額を外した。
その裏に、縦長の板がある。赤い壁紙で塗り込められ、継ぎ目を隠されていた。
「ここです」
真壁と二階堂が板の端へ手を掛ける。
「押すぞ」
三人で力を加えると、板は壁ごと内側へ倒れた。
黒い煙が噴き出す。
九条が濡らした布を真壁へ渡した。
「低く。三十秒で戻って」
「鳳は来るな」
「内部の段差を説明します」
「外からしろ」
「入口の左に映写台。その奥が一段低い。フィルム庫は右壁。床に古いレールがあります」
「わかった」
真壁は煙の中へ入った。
熱は強くない。
だが視界がない。
床を這うように進むと、右手で金属ケースへ触れた。火は映写台ではなく、奥の紙箱とフィルム缶の周囲で燃えている。狙って集められていた。
「朱里!」
咳が返った。
映写台の陰に、人が倒れている。
朱里は意識を失ってはいなかった。床へ身体を伏せ、胸の下に小さな金属箱を抱え込んでいる。
「立てるか」
「テープが」
「置け」
「母の――」
「置いて出ろ」
朱里は首を振った。
真壁は金属箱ごと朱里の片腕を抱え上げるように引いた。
「持ったままでいい。動け」
朱里は立とうとして膝をついた。
煙を吸っている。
真壁が肩を貸し、壁の穴へ戻る。
外から二階堂が朱里の腕を取り、鳳が金属箱を受け取った。
真壁が最後に出た直後、灯村が消火器を噴射した。
白い粉が赤い照明を覆う。
火は数分で消えた。
九条は朱里を廊下へ寝かせ、呼吸と脈を確認した。
「名前は」
「火野、朱里」
「ここは」
「七禍館」
「息苦しさ」
「少し。喉が痛い」
「頭痛、吐き気」
「あります」
「酸素が要る。榊、救急箱にボンベは」
「あります」
朱里が起き上がろうとした。
「箱を」
「動かないで」
九条が肩を押さえる。
「でも」
「あなたが倒れたら、箱の確認も遅れる」
朱里はようやく身体を戻した。
鳳が金属箱を開ける。
中には、溶けかけた小型カセットテープと、黒く焦げた封筒が入っていた。
テープの透明な外装は変形している。磁気テープの一部が、焦げた糸のように飛び出していた。
「原本は、捨てていなかった」
二階堂が朱里を見る。
酸素マスクの下で、朱里が目を閉じた。
「母の声です」
「データはある」
「データは、編集したと言われる。原本がなければ、また誰かが作った物語にされる」
「だから一人で来た?」
「返すと書いてあった」
「あなたの部屋から盗んだ人が、親切に返すと思った?」
「思っていません」
「じゃあ、なぜ」
「焼かれると思ったからです」
朱里はマスクを少し浮かせた。
「私が行かなければ、母の声がなくなる」
九条がすぐに戻す。
「話す時も外さない」
二階堂は怒らなかった。
怒りより先に、朱里の判断の形を見ていた。
「火野さん。原本は証拠です。でも、お母さんそのものじゃない」
「わかっています」
「わかっている人は、一人で煙の中へ入らない」
朱里は答えなかった。
二階堂はそれ以上責めず、燃えた映写室へ目を向けた。
煙の向こうで、燃え残った紙がぱちりと崩れた。
真壁は燃えた映写室を見た。
「誰に呼び出された」
「わかりません。部屋へ戻った時、資料ケースの内張りが切られて、原本がなくなっていた。机に紙があった」
「廊下で誰かを見たか」
「濃紺の服が角を曲がるのを。鷺宮さんだと思いました」
依子は展示室の入口に立っていた。
「私は厨房で警察の方へお茶を用意していました」
「証明する人は」
「榊さんが途中まで一緒でした」
榊が消火器を抱えたまま頷く。
「五分ほど前までは。でも僕は事務室へ走ったので、その後は」
「映写室の鍵は封印箱にあったか」
「ありました」
榊が透明袋に入れた鍵を見せる。
「封印も切れていません」
鳳は鉄扉の上部を照らした。
「鍵を使っていません。サービス廊下側から入り、防火戸を落とした」
「その廊下へ入れるのは」
「館の構造を知っていれば、誰でも。朱里さんの計画書にも、サービス通路の一部が描かれていました」
真壁は依子だけを見なかった。
朱里の計画書を盗んだ人間は、その写しを誰かへ見せたかもしれない。久世は撮影のため館を歩いている。灯村は修繕を手伝った。榊は開発会社の図面を扱う。依子は管理人。全員に経路がある。
「火は、どこから出た」
九条が訊いた。
灯村が焼けた紙箱を動かす。
「金属缶の中だ。油を染み込ませた布と、遅れて燃える蝋。血禍の間と同じ作りに見える」
「同じ人間が作ったか、見て真似た」
真壁は焼け残った物を一つずつ確認した。
古いフィルム缶。
祭礼の上映台本。
二十一年前の遺体写真のネガ。
火野千景の原本テープ。
黒羽が集めた資料の複写。
燃やされたのは、火禍だけではない。
六人が七つへ分けられる前の記録が集められていた。
「これ、見てください」
鳳が床から半分焦げた透明シートを拾った。
六枚の写真が連続して並ぶ、密着焼きのコンタクトシートだった。
画像は小さい。
それでも、六人の遺体の背後に同じコンクリート壁が写っている。床の排水溝。変形した送風管。地下発電室で見つけたものと一致する。
各写真の下には、一から六までの番号。
七番目の枠だけが空白だった。
裏面に鉛筆書きが残っている。
《撮影後、海・火・土・風・鏡・音へ。七つ目は名で補う》
二階堂が読んだ。
「七つ目は名で補う」
鳳は空白の枠を見た。
「兄の遺体がなかったから、写真ではなく名前を置いた」
「誰の字だ」
「鷺宮征一の手帳と比較します」
依子の顔は動かなかった。
「父の資料なら、館のどこにあっても不思議ではありません」
「燃えても?」
二階堂が訊く。
「火災が意図的なら、私も被害者です」
「そういう並べ方もできますね」
「何がですか」
「自分に不利な物が燃えた時、自分も被害者だと言えば、燃やした側から外れて見える」
「また言葉ですか」
「今回は、誰が何を燃やそうとしたかです」
二階堂は呼び出しの紙を裏返した。
紙は七禍館の古い案内状だった。裏面を再利用している。端に、かすかな印刷が残っていた。
――禍は、あるべき場所へ返される。
「二十一年前の祭礼文です」
依子が言った。
「倉庫に束で残っています。誰でも持ち出せます」
「『返す』という言葉が好きな人がいる」
二階堂は紙を袋へ入れた。
「黒羽さんは名前を直すと言った。呼び出しは原本を返すと言った。火は記録を火禍へ返そうとした。誰かが、物を元の役へ戻すことに執着してる」
「黒羽さん自身かもしれない」
依子が言う。
「彼が事前に装置を用意し、事故で作動した可能性も」
「死者は自分の殺人後に、朱里さんを呼び出せない」
九条が即座に返した。
「ほかの人へ頼んだのでしょう」
「では、その人を探します」
真壁は言った。
依子の説明を否定せず、可能性の一つとして証拠の列へ置いた。
朱里の呼吸が落ち着くまで、九条は隣を離れなかった。
煤で黒くなった赤いスカーフを、朱里は膝へ戻していた。
「母は、火で死んでいなかった」
朱里が言った。
「まだ確定してない」
九条が答える。
「でも、写真は同じ場所です」
「同じ場所で撮った可能性が高い。死因は鑑定と記録を合わせる」
「あなたは、絶対と言わないんですね」
「絶対と言った人が、二十一年、あなたのお母様を火禍にした」
朱里は黙った。
久世が映写室の外から、小型の録音機を持ってきた。
「火野さん。前に取材した時、音声データをコピーさせてもらいました。編集前の形式で残っています」
「持っていたんですか」
「公開許可をもらっていないから、使っていません」
朱里は変形した原本テープを見る。
「原本がなくても、声は残る」
「はい」
「でも、あなたが編集したと言われる」
「言われます」
久世は否定しなかった。
「だから、元データの履歴も、コピーした日時も残してあります。それでも疑う人はいる。映像は、疑わせない道具じゃありません」
二階堂が続けた。
「言葉も同じです。残せば勝つわけじゃない。誰が、いつ、どう残したかを一緒に出す」
朱里は長い間、原本の焼けた外装を見ていた。
「母の声を、今夜流します」
真壁が朱里を見る。
「まだやるつもりか」
「私の計画としてではありません。証拠として、あなたたちへ渡します。そのあと公開するかは、私が決める」
「押収する。公開は捜査と権利関係を確認してからだ」
「はい」
朱里は初めて、すぐに反発しなかった。
「ただ、母の声を七禍の演出には使わせません」
「それは約束する」
二階堂が言った。
「あなたの告発にも、犯人の見立てにも、久世さんの映画にも。まず、火野千景さんが最後に残した私的な言葉として扱う」
朱里は酸素マスクの向こうで目を閉じた。
火は、燃やす物を選ばない。
だが火を置いた人間は、燃やす記録を選んでいた。
母の声。
六人が同じ場所にいた写真。
黒羽が集めた複写。
そして、それを守るためなら一人で煙へ入る娘。
犯人は、朱里の執念まで燃料にした。
真壁は焦げた床を見た。
「今後、単独行動は禁止だ」
「鳳先生だけではなく?」
二階堂が訊く。
「全員だ」
「俺も?」
「特にお前と鳳先生と朱里」
「三人同列なんですね」
鳳が言う。
「納得いかないか」
「いえ。朱里さんに失礼かと」
朱里がかすかに笑った。
咳に変わり、九条が背を支える。
「笑わない。煙を吸った直後」
「笑うのも禁止ですか」
「咳が出ることをしない」
二階堂が小声で言った。
「九条の禁止事項、真壁より細かい」
「医学的根拠がある」
火禍展示室の赤い照明は、主電源が落ちて消えていた。
暗くなったガラスケースには、誰の顔も映らない。
空の額だけが、焼けた壁に残っていた。
火が消えたあと、朱里は東棟の客室へ移された。
酸素投与を終えても、喉には煙のざらつきが残っている。九条から一時間は横になるよう命じられ、真壁からは扉を開けたままにするよう言われた。
「監視ですね」
「見守りと言ってほしいな」
二階堂が椅子を廊下側へ向けて座る。
「どちらでも同じです」
「言い方は大事なんだけどね」
朱里はベッドの上で、透明袋に入れられた原本テープを見ていた。
外装は歪み、巻き取られた磁気テープの端が焦げている。再生できるかは、専門業者へ渡さなければわからない。
けれど声のデータは残っている。
それを知っても、朱里の視線は原本から離れなかった。
鳳が扉の外を通り、足を止めた。
「入ってもいいですか」
「監視役が一人増えるだけなら」
「鳳先生は、監視される側だよ」
二階堂が言った。
「では、同室者ですね」
鳳は窓際の椅子へ腰を下ろした。
二人の間に、二階堂がいる。
「俺、席を外した方がいい?」
「単独行動は禁止です」
鳳が答える。
「真壁の命令を、こういう時だけ正確に使うんだよな」
二階堂は立たなかった。
朱里が鳳を見た。
「お兄さんは、生きて島を出たんですね」
「その可能性が高い、という段階です」
「そういう答え方、九条さんに似てきました」
「影響は受けています」
「羨ましいです」
言った直後、朱里は目を伏せた。
「すみません。殺された人の弟に言うことではありませんでした」
「何が羨ましいんですか」
「二十一年間のどこかで、生きていた可能性があることです」
朱里は喉を押さえ、小さく咳をした。
「母には、それがない。地下で六人が同時に死んだなら、私が待てた時間は最初から一分もなかった」
鳳はすぐには答えなかった。
「僕は、あなたが羨ましかったことがあります」
朱里が顔を上げる。
「遺体があったことを?」
「はい」
「兄は、死んだとも生きたとも決められなかった。家族は葬式を出せず、部屋を片づけられず、誕生日だけが増えました。死んだと確認できれば、待たなくて済むと思ったことがあります」
「遺体があっても、私の母ではありませんでした」
朱里は言った。
「火禍の遺体でした。棺を開けられず、顔を見られず、死因を聞けなかった。確認された死は、間違った名前で閉じられた」
「どちらも、選べなかったんですね」
「何をですか」
「待つか、悼むか。怒る相手を誰にするか」
鳳は窓の外を見た。
「兄は僕を守るために知らせなかった、と灯村さんは言いました。でも、守られる側は、守られ方を選べない」
「母は、私を待たせるつもりだったんです」
朱里は原本テープへ指を伸ばしかけ、袋の上で止めた。
「明日の朝、卵焼きを作ると言った。私は先に寝て、朝になれば帰ると思った。父に起こされて、島で事故があったと言われた」
記憶を話す声は、告発の時より静かだった。
「最初は、母が約束を破ったと思いました。十一歳だったから。死んだと聞いたあとも、怒っていた。朝食を作ると言ったのに、と」
「怒っていいと思います」
「死んだ人に?」
「九条さんは、死体は怒られても傷つかないと言っていました」
「本当に言いそうですね」
朱里が少し笑い、また咳をした。
廊下の向こうから九条の声が飛ぶ。
「笑わない」
「聞いていたんですか」
「咳が聞こえた」
姿は見えない。
二階堂が肩をすくめる。
「見守りが増えた」
朱里は声を落とした。
「私は母に怒る代わりに、記録へ怒りました。記録を作った人、信じた人、利用した人。全部へ。怒っている間は、母が帰らなかった朝を考えずに済んだ」
「僕は建物を見ました」
鳳が言った。
「兄の名板へ近づかず、その裏の壁を測った。壁なら、寸法が違う理由を探せる。兄がなぜ帰らなかったかより、簡単です」
「簡単には見えませんでした」
「僕には、です」
二人は違うものを見ていた。それでも、家族を一つの役へ置かれた者同士だった。
「黒羽さんが、お兄さんだったら」
朱里が訊いた。
「許しますか」
「許さないと思います」
鳳は答えた。
「生きていたことは嬉しい。連絡しなかったことは許せない。二つを一つにしないようにします」
「私は、母の死因がわかれば終われると思っていました」
「終わらなくてもいいのでは」
「また何かをするかもしれません」
二階堂が初めて口を挟んだ。
「死因、展示、会社の責任、二十一年分の怒り。全部必要でも、同じ方法で片づける必要はない」
「言葉には順番がある?」
「そういうこと」
朱里は原本テープから手を離した。
「データを渡します」
「もう押収するって言われたよ」
「押収されるのではなく、私が渡します」
二階堂は一拍置いた。
「それも大事な違いだね」
朱里はベッド脇の鞄から記録媒体を出した。
「母の声を、証拠として使ってください。ただし、七禍の再現映像には重ねないでください」
「約束した」
「記事を書く時も、全文は載せません」
「もう記事を書くつもりなんだ」
「それが仕事です」
「犯罪の反省記事?」
「母の記事です。私の犯罪も書きます」
朱里は鳳を見る。
「お兄さんのことも、書いていいですか」
「捜査が終わり、僕が確認してからなら」
「条件が多いですね」
「兄が条件を増やす人だった可能性があるので、僕は必要な条件だけにします」
二階堂が笑う。
「鳳先生、少し元気になった?」
「元気ではありません」
「自己申告はできるようになったね」
朱里が赤いスカーフを手に取った。
「これも、もう外した方がいいでしょうか」
「なぜです」
「母の代わりに巻いていたから」
鳳は少し考えた。
「あなたが選んで買った物なら、あなたのものです」
朱里はスカーフを膝に置いた。
外すとも、巻き直すとも決めなかった。
決める時間が残っていること自体が、二十一年前にはなかった選択だった。




