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蛇の目/美食家  作者: ふゆはる


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第九話/憂い

 男は憂いていた。

 怒りではない。

 後悔でもない。

 それは、丹念に育て上げた“畑”を失った農夫の喪失感に近い。

 群馬の栽培地――。

 廃工場という仮面の下で、彼は一年以上をかけて環境を整えてきた。

 温度。

 湿度。

 通気。

 遮光。

 排水。

 ニオウシメジという種は気まぐれだ。

 野生下では生育条件が限られ、安定収穫は難しい。

 だが彼は見出した。

「人間」という菌床。

 それは単なる培地ではない。

 代謝を続ける有機体。

 常に栄養を循環させる“動的土壌”。

 適切な栄養管理。

 投与量の調整。

 水分制御。

 筋肉量と脂肪比率。

 それらが揃ったとき、菌糸は驚異的な速度で浸潤し、

 傘は肉厚に育つ。

 だが、そのためには環境がいる。

 廃工場のように人目につかず、

 かつ菌床にとって最適な温湿度を維持できる空間。

 群馬の施設は理想的だった。

 北側の壁は断熱性が高く、

 窓は小さく外光を遮断できる。

 天井は高く、換気経路を改造しやすかった。

 彼は空調を分解し、

 湿度センサーを設置し、

 床に防水シートを敷いた。

 コンクリートの冷たさは温度安定に寄与した。

 地下配管からの微かな湿気は、菌糸の伸長に都合が良かった。

 一年。

 一年以上の試行錯誤。

 初期ロットは失敗した。

 菌糸が壊死した。

 腐敗菌に汚染された。

 だが彼は学習した。

 栄養投与のタイミング。

 麻酔量の最適値。

 呼吸抑制の閾値。

 菌床を“維持”しながら、菌糸を侵食させる。

 そのバランスは極めて繊細だった。

 そして、ようやく完成形に辿り着いた矢先――

 招かざる客。

 誰かの通報か。

 偶然か。

 それとも、追跡か。

 いずれにせよ、発見された。

 一年を費やした環境は、もう使えない。

 男は部屋の中をゆっくり歩きながら考える。

 新たな候補地。

 条件は厳しい。

 ・人目に付かない

 ・長期滞在可能

 ・温湿度管理が容易

 ・遮光性が高い

 ・搬入出経路が確保できる

 さらに――

 菌床となるべき“土壌”。

 これが最大の問題だった。

 ニオウシメジは、すべての人間で均一に育つわけではない。

 ある特定の条件が必要だった。

 体脂肪率。

 ホルモンバランス。

 栄養状態。

 精神的安定度。

 特定条件下でのみ、菌糸は理想的に広がる。

 それを満たす個体の確保。

 そして、外部に悟られず移送する手段。

 時間がない。

 冷蔵庫内の在庫は限られている。

 保存は可能だが、鮮度は落ちる。

 菌は生きている。

 新たな栽培を始めなければ、いずれ枯渇する。

 男の指が机を強く叩く。

 苛立ち。

 彼にとって“農場”は単なる犯罪現場ではない。

 研究室であり、

 厨房であり、

 芸術作品だった。

 それを破壊された。

 一年以上。

 夜を徹して環境データを記録し、

 菌糸の成長曲線を描き、

 最適条件を割り出した。

 その結晶が、黄色い規制線の向こうにある。

「……無駄にはしない。」

 低く呟く。

 彼は革張りのノートを開く。

 群馬農場のページ。

 最終収穫日。

 湿度ログ。

 温度変動。

 菌糸密度。

 そこに赤ペンで線を引く。

【終了】

 一瞬、視線が止まる。

 だが感傷はない。

 次のページを開く。

 白紙。

「条件を再定義する。」

 新たな候補地のリストを頭に思い浮かべる。

 地方の倉庫。

 山間部の廃別荘。

 倒産した食品工場。

 だが、問題は“土壌”だ。

 適合個体の確保には時間がかかる。

 特定条件下でなければならない。

 それを満たす環境を整え、接触し、信頼を築き、

 連れ出す。

 その工程が最も時間を要する。

 男は拳を握りしめる。

 苛立ちは強い。

 だがそれは、衝動ではない。

 計画を急がせる燃料だ。

「今回は、より完成度を上げる。」

 呟きは静かだ。

 一年かけて築いた栽培地は失われた。

 だが技術は失われていない。

 データは残っている。

 知識は蓄積されている。

 彼は窓のない部屋の天井を見上げる。

 新たな農場。

 新たな菌床。

 次は、さらに理想的な環境を作る。

 憂いの奥で、思考は既に前を向いていた。

 外では夜が深まっている。

 どこかでまた、

 次の“土壌”が選定されようとしていることを、

 まだ誰も知らない。

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