第十話/執念
第二課オペレーションルーム。
壁面モニターに映し出されたのは、白衣姿の男だった。
背後には研究室の書架と、培養棚。無数のシャーレが整然と並んでいる。
菌類学者――砂原宗一。
その顔は冷静だが、声には明確な緊張が滲んでいた。
「吉羽さん、秋山室長。検分の結果がまとまりました。」
室内の空気がわずかに張り詰める。
恵美、秋山、渡辺、片瀬。
四人は無言でモニターを見つめている。
砂原は資料を切り替えた。
解剖所見。
血液データ。
腸内細菌叢の解析グラフ。
「まず、五体の遺体すべてに共通していた所見からお伝えします。」
一拍。
「全員が、重篤な糖尿病状態にありました。」
渡辺が小さく息を呑む。
恵美の眉がわずかに動く。
砂原は続ける。
「空腹時血糖値は異常高値。HbA1cも極端に高い。慢性的な高血糖状態が継続していたことを示しています。」
画面には数値が並ぶ。
通常では考えられない領域。
「さらに――」
次のスライド。
「体内マイクロバイオーム値が異常でした。」
腸内細菌叢の円グラフが映る。
ほぼ空白。
「皮膚、腸内ともに常在細菌が著しく減少しています。ほぼ壊滅的です。」
秋山が静かに問う。
「原因は。」
砂原は即答した。
「抗生物質の長期かつ大量投与です。」
沈黙。
「真菌と競合関係にある細菌群を徹底的に排除することで、体内環境を“真菌優位”に作り替えている。」
恵美の喉がわずかに鳴る。
砂原は淡々と説明を続ける。
「通常、人体は細菌と真菌が均衡を保つことで恒常性を維持しています。しかし常在細菌が消失すると、真菌は栄養を独占できる。」
次のスライド。
「初期解剖で確認されていたカリウム値の異常――あれも連動しています。」
渡辺が小声で言う。
「低カリウム血症……」
砂原は頷く。
「慢性的な高血糖状態は電解質バランスを崩します。さらに薬剤投与が重なれば、カリウム値は不安定になる。」
画面の数値が並ぶ。
「結論として、被害者は意図的に糖尿病状態へ誘導されていた可能性が極めて高い。」
室内の空気が重く沈む。
恵美が静かに問う。
「……全員、もともと糖尿病患者だった可能性は?」
砂原はわずかに首を横に振る。
「現時点では断定できません。ただし、膵臓組織の変性パターンが一致している点から、同一の誘導手段が用いられた可能性が高い。」
つまり――
被害者が最初から糖尿病だったのか、
それとも後天的に“作られた”のか。
それはまだ確定していない。
だが少なくとも、
体内環境は人工的に改変されていた。
秋山が低く言う。
「栽培行為とは別の技能がいるな。」
砂原は即座に同意した。
「はい。これは単なる菌類知識では不可能です。内分泌系、抗生物質の作用機序、電解質管理――医療行為に精通している。」
画面に、薬剤リストが映る。
広域抗生物質。
持続投与型製剤。
「これほどの量を長期間確保するには、医療機関関係者か、製薬流通にアクセス可能な人物である可能性が高い。」
渡辺が呻くように言う。
「医療従事者……?」
砂原は慎重に言葉を選ぶ。
「少なくとも、医学的知識を持ち、薬剤管理に理解がある人物です。」
そして、砂原は少し間を置いた。
「さらに――」
その一言で、室内の空気がさらに重くなる。
「糖尿病状態は、真菌にとって理想的な栄養環境を作ります。」
恵美の視線が鋭くなる。
「高血糖は血中・組織中の糖分濃度を上昇させる。真菌はそれを直接利用できる。」
スライドに菌糸侵襲モデルが表示される。
「抗生物質で競合を排除し、高血糖で栄養を供給し、電解質異常で免疫応答を鈍らせる。」
砂原の声は静かだが、その内容は凄惨だ。
「これは……菌床を“最適化”する工程です。」
誰も言葉を発しない。
「つまり犯人は、栽培のためだけに人体を改造している。」
その表現は、意図的に冷たい。
「段階的に代謝を操作し、真菌の浸潤効率を上げている。」
渡辺の拳が机の上で震える。
「それは……実験じゃないか。」
砂原は目を伏せる。
「はい。非人道的な人体実験と呼ぶべきでしょう。」
恵美の胸の奥に、じくじくとした痛みが広がる。
遺体は、単なる被害者ではなかった。
“素材”として調整されていた。
一年以上の栽培期間。
計画的な代謝操作。
薬剤管理。
秋山は静かに問う。
「再現性はあるのか。」
砂原は苦い表情を浮かべる。
「理論上は、あります。」
それが最も恐ろしい答えだった。
偶発ではない。
異常な才能ではない。
手順化された工程。
マニュアル化可能な“栽培技術”。
室内の四人は無言のまま、それぞれの思考に沈む。
蛇の目のモニターでは、犯人モデルが更新されている。
【医療知識:高】
【薬剤入手経路:専門職可能性】
【計画性:極高】
【実験志向性:確認】
機械は感情を持たない。
だが人間は違う。
恵美の胸に残るのは、
怒りでも恐怖でもなく、
じくじくとした重い嫌悪。
人体を菌床にするためだけに、
代謝を壊し、細菌を殺し、
糖尿病へと導く。
その工程を想像するだけで、心が軋む。
秋山の声が静かに響く。
「……我々は証拠を積み上げる。」
短いが強い言葉。
砂原は最後に言った。
「犯人は、栽培を“科学”として完成させようとしている。」
通信が切れる。
モニターは再び蛇の目の解析画面へ戻る。
無機質な確率値が並ぶ。
だがその前に立つ四人の胸中には、
機械には理解できない鈍い痛みが残っていた。
犯人は、
殺しているのではない。
育てている。
その事実が、
これまでのどんな連続殺人よりも、
深く心を削っていた。
そして犯人の妄執とも呼べる執念に一同は恐ろしさを覚えた。




