第四十七話/三國彩花
三國彩花は――静かな光を持つ女性だった。
それは強烈に輝く類のものではない。
だが、確かにそこにあり、周囲を穏やかに照らす光。
幼い頃の事故で、彼女は歩く自由を失った。
車椅子が、彼女の世界の“足”となった。
さらに――
遺伝由来の一型糖尿病。
体内でインスリンは生成されない。
生きるためには、外部から補うしかない。
注射。
針。
日常。
それは“特別な行為”ではなく、“呼吸”に近いものだった。
朝、昼、夜。
血糖値を測り、数値を見て、適切な量を打つ。
それを怠れば――死ぬ。
だが彩花は、それを嘆かなかった。
不自由さは、確かにある。
だが、それ以上に彼女は“生きること”に前向きだった。
聡明で、穏やかで、そして強かった。
---
そんな彼女には、一人の幼馴染がいた。
三國義昭。
幼い頃から、いつも隣にいた存在。
彼だけは、彼女の車椅子を“特別扱い”しなかった。
押すこともあれば、放っておくこともある。
必要以上に気遣わず、必要な時には自然に手を貸す。
その距離感が、彩花には心地よかった。
二人は同じ学校へ進み、高校まで共に過ごした。
だが――
義昭は、少し変わっていた。
友人と騒ぐよりも、一人でいることを好む。
特に――森。
放課後、彼の姿が見えないときは、決まってそこだった。
ある日、彩花は聞いた。
「ねえ義昭、森で何してるの?」
車椅子の上から、首をかしげて。
義昭は、ほんの少し考えるように目を細めたあと――
静かに笑った。
「森って、すごいんだよ」
その言葉には、確かな熱があった。
「キノコの宝庫でさ、いろんな種類があるんだ」
彼の目が、わずかに輝く。
「それを観察して、時には食べる」
「そうすると――生きてる実感があるんだ」
少し間を置いて、付け加える。
「人間にはない“興味”が、尽きない」
彩花は、くすりと笑った。
「変わってるわね、義昭って」
その言葉に、彼は否定もしなかった。
ただ、いつものように静かに立っている。
「今度、そのキノコご馳走してよ」
軽い調子で続ける。
「私は森に行けないんだから」
その言葉を聞いた瞬間――
義昭の目が、わずかに揺れた。
寂しさ。
ほんの一瞬だけ浮かび、すぐに消える。
そして――
強く、言った。
「ああ」
「彩花に、びっくりするぐらい美味いもの食わせてやるよ」
その言葉は、約束だった。
---
大学進学。
二人は、別々の道へ進む。
自然と、距離ができる。
連絡も、減る。
やがて――途絶える。
それは、特別な理由があったわけではない。
ただ、時間が流れただけ。
---
再会は、突然だった。
彩花の母の死。
葬儀場。
白い花と、静かな空間。
そこに――義昭がいた。
スタッフとして。
黒いスーツ。
整った所作。
そして――変わらない目。
「……久しぶりだな」
その一言で、時間は繋がった。
それからの二人は、急速に距離を縮めていく。
幼少期の記憶。
高校時代の話。
空白の時間。
それらを埋めるように、言葉を交わした。
そして――
二十八歳の時。
二人は結婚した。
---
その結婚生活は――
彩花にとって、紛れもなく“幸せ”だった。
義昭は、献身的だった。
食事の管理。
通院の付き添い。
日常の細かな配慮。
すべてにおいて、隙がなかった。
体調が悪い日には、そっと寄り添う。
調子の良い日には、穏やかに笑う。
彩花は、安心していた。
この人となら、大丈夫だと。
---
だが――
時折、違和感があった。
それは小さなものだった。
義昭は、彩花の“すべて”を覚えている。
好きなもの。
嫌いなもの。
癖。
仕草。
一挙手一投足。
だが――
彩花の“周囲”には、興味を示さない。
友人の名前を、覚えない。
話を聞いても、深く踏み込まない。
ただ、頷くだけ。
そこに感情はない。
まるで――
“関係のない情報”を処理しているかのように。
そして次の瞬間には、再び彩花だけを見る。
その視線の濃さが、逆に異質だった。
---
転機は、入院だった。
糖尿病の合併症。
体調の悪化。
入院生活。
義昭は、変わらなかった。
表面上は。
だが――
その“目”。
観察するような視線。
測るような、冷たい奥行き。
そして、以前にも増して強くなる“溺愛”。
それは――
人に向けるものではなかった。
何か別のもの。
“対象”に向けるような。
彩花は、それを言葉にできなかった。
ただ、胸の奥に、小さな不安が積もっていく。
---
退院後。
状態は、安定しなかった。
インスリンの頻度が増える。
だが――
効かない。
血糖値は、上がる。
身体は、重くなる。
意識が、ぼやける。
その異常に対して、義昭はこう言った。
「これからは、できるだけ一緒にいよう」
穏やかな声で。
「自宅療養するんだ。いいね?」
拒否する理由は、見つからなかった。
だが――
彩花の中で、何かが引っかかった。
“何故か”不安だった。
---
それから、状況は悪化する。
急激に。
インスリンを打っても、効かない。
体調は、日を追うごとに崩れる。
それでも――
病院へ行くことを、義昭は拒否した。
「大丈夫だ」
「俺がいる」
薬は、彼が管理する。
外との接触は、減る。
やがて――
ほぼ、断たれる。
軟禁。
その言葉が、現実になる。
彩花は、弱っていく。
身体が動かない。
声も、出ない。
思考も、鈍る。
その様子を――
義昭は、見ている。
愛おしそうに。
優しく。
だが、その奥にあるものは――
明らかに異質だった。
---
ある日の午後。
静かな時間。
義昭は、いなかった。
ふと――
視線が向かう。
書斎。
結婚後、一度も入ることを許されなかった部屋。
鍵が、かかっていない。
(……開いてる)
胸の奥の不安が、強くなる。
それでも、手は止まらない。
ドアノブを回す。
静かに。
扉が開く。
中へ。
そして――
見つける。
ゴミ箱。
その中に――
大量の、インスリン注射。
使われていない。
廃棄されたもの。
「……なんで、これが……ここに?」
声にならない声。
その瞬間――
背後に、気配。
振り返る。
義昭が、立っていた。
静かに。
逃げ場を塞ぐように。
「あぁ……見つけてしまったか」
その言葉で――
すべてが繋がる。
急激な悪化。
効かない薬。
管理されていた生活。
(……そうか)
理解してしまう。
“与えられていたもの”が何だったのか。
信じていたものが、崩れる。
音もなく。
完全に。
---
義昭が、話し始める。
穏やかな声で。
「君は、もう長くない」
事実を告げるように。
「これからの話をしようと思う」
淡々と。
インスリンのすり替え。
偽の薬。
計画。
経過。
すべてを、語る。
長い、長い独白。
その一つ一つが、彩花の心を削る。
愛されていたはずの時間が、別の意味に変わっていく。
支えられていたはずの日々が、崩れていく。
そして――
最後に。
義昭は、微笑んだ。
「あんしんしてくれ」
優しく。
「これから君は、母なる大地になるんだ」
その言葉の意味。
理解してしまう。
「ずっと一緒にいるから」
「いつ旅立っても、大丈夫だからね」
---
叫びたかった。
否定したかった。
逃げたかった。
だが――
身体は、動かない。
声は、出ない。
残されたのは――
絶望。
そして、後悔。
(どうして……)
その問いすら、形にならない。
涙だけが、静かに流れる。
声にならない叫びが、胸の中で砕ける。
彼女の世界は、終わっていた。
すでに――
取り返しのつかないところまで。
その中で、ただ一つだけ確かなのは――
彼女が信じていた“愛”が、最も残酷な形で裏切られたという事実だった。




