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蛇の目/美食家  作者: ふゆはる


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第四十二話/狩りの時間

 群馬大学医学部附属病院。


 無機質な白に満たされた病室。

 消毒液の匂いと、機械の規則的な電子音だけが、ここが“生の側”であることをかろうじて証明している。


 小南優子は、そのベッドの上に横たわっていた。


 三日間――


 完全な昏睡。


 外界から切り離され、ただ生命維持だけが続けられていた時間。


 だが、その均衡は、静かに破られる。


 瞼が、わずかに震える。


 重い。


 異様に重い。


 まるで、自分の身体ではないような感覚。


 呼吸の仕方すら、一瞬、分からなくなる。


(……ここは……)


 視界が滲む。


 ぼやけた光。

 白い天井。

 動く影。


 誰かがいる。


 声がする。


「……反応あり。意識、戻りつつあります」


「優子さん、聞こえますか?」


 言葉が、遠い。


 水の中から聞こえるような、歪んだ音。


(……生きてる……?)


 その認識が、追いつかない。


 自分は確かに――


 あの場所にいた。


 暗く、湿った空間。

 閉ざされた空気。

 逃げ場のない、箱。


 そして――


 “あれ”。


(……違う)


 思考が拒絶する。


(ここも、あそこなんじゃないか)


 現実と悪夢の境界が、曖昧になる。


 助かったという実感が、湧かない。


 むしろ――


「まだ終わっていない」という恐怖の方が、強く残っていた。


 身体が動かない。


 声が出ない。


 脳が、命令を拒否している。


 “生きる”という行為そのものが、どこか遠い。


 だが――


 微かに。


 ほんの微かに。


 内側から、何かが押し上げてくる。


(……言わないと)


 理由は分からない。


 だが、それだけははっきりしていた。


(言わなきゃ……)


 唇が、震える。


 音にならない呼気。


 看護師が顔を寄せる。


「何か言えますか?」


 優子の喉が動く。


 乾いた音が漏れる。


 言葉にならない。


 だが――


 諦めない。


 何度も、何度も。


 そして――


 かすれた声が、形になる。


「あの……」


 一拍。


 空気が止まる。


「あの男の事を……」


 呼吸が乱れる。


 だが、止まらない。


「話さなくちゃ……」


 その一言。


 それが、彼女の“帰還”だった。


 ---


 翌日。


 病室の空気は、わずかに現実へと近づいていた。


 医療機器の音。

 差し込む光。

 規則正しい時間の流れ。


 優子は、枕元で身体を起こしていた。


 まだ弱い。


 だが、目ははっきりしている。


 そこへ、二人の女性が入ってくる。


 静かな足取り。


 だが、空気が変わる。


 一人は、鋭い視線を持つ女。

 もう一人は、それを支えるように立つ女。


「小南さん」


 柔らかな声。


 だが、その奥には緊張がある。


「少し、お話いいですか」


 優子は、二人を見る。


 そして――


 理解する。


(この人たちだ)


 自分を、“現実”に引き戻した側の人間。


 ゆっくりと、頷く。


「……はい」


 恵美が、一歩前に出る。


「お願いがあります」


 一拍。


「男の似顔絵作成に、手を貸して欲しい」


 言葉は簡潔だった。


 だが、その意味は重い。


 優子の瞳が、揺れる。


 あの男。


 “人ではないもの”。


 記憶が、蘇る。


 恐怖が、這い上がる。


 だが――


 逸らさない。


 逃げない。


 優子は、まっすぐに恵美を見る。


 そして、はっきりと頷いた。


「……やります」


 その声は、弱い。


 だが、確かだった。


 ---


 それから三日間。


 断片だった記憶が、少しずつ形を持ち始める。


 顔の輪郭。

 目の位置。

 声の調子。

 笑い方。


 そして――


 触れられた感覚。


 距離。


 温度。


 優子の証言は、異様なほど具体的だった。


 それは、単なる目撃ではない。


 “接触”した者の記憶。


 逃れようのない、近さ。


「目は……もっと細い」


「口元が……歪んでる感じ」


「笑ってるのに……笑ってない」


 言葉が積み上がる。


 描かれていく。


 一つの顔が。


 やがて――


 完成する。


 モンタージュ。


 紙の上に現れた、“あの男”。


 優子は、それを見つめる。


 一瞬で。


 迷いなく。


「……この男よ」


 断定。


 その声に、揺らぎはなかった。


 ---


 恵美が、その紙を手に取る。


 じっと見つめる。


 目が、細くなる。


 表情が変わる。


 “狩る者”の顔。


(これでいい)


 確信。


 足りなかったピースが、埋まった。


 身体的特徴。

 足跡。

 そして、顔。


 すべてが繋がる。


 準備は、整った。


 ---


 優子の証言は、それだけでは終わらなかった。


 拉致される前。

 声をかけられた瞬間。

 違和感。

 言葉の選び方。


 そして――


 閉じ込められてからの会話。


 すべてが、細部まで語られる。


「……あの人、自分のことを……」


 言葉を選ぶ。


「“観察してる”って言ってた」


 沈黙。


 恵美の目が、わずかに動く。


「あと……」


 優子の声が低くなる。


「人じゃないみたいに……話すんです」


 一拍。


「“反応が面白い”って……」


 空気が冷える。


 それは、証言ではない。


 “異常の証明”だった。


 すべての情報は、即座に処理される。


 蛇の目へ送信。


 解析が始まる。


 ---


 病室の外。


 廊下の窓から、光が差し込む。


 恵美は、静かに立っていた。


 手には、モンタージュ。


 その隣に、渡辺と片瀬。


「揃ったな」


 渡辺が言う。


「ああ」


 片瀬が応じる。


 恵美は、紙から目を離さない。


「ここからね」


 短く。


 だが、その言葉にはすべてが込められていた。


 データは揃った。


 顔もある。


 身体的特徴もある。


 証言もある。


 あとは――


 狩るだけ。


 蛇の目と。


 そして、自分の感覚で。


 あの男を。


 “人を材料にする存在”を。


 見つけ出す。


 確実に。


 逃がさない。


 恵美の目が、静かに細められる。


 その瞬間――


 追跡は、“確定”へと変わった。


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