第四十三話/臨界点
男は、怒りというよりも――“破綻”に近い感情に呑まれていた。
それは爆発ではない。
内側から、静かに、だが確実に焼き尽くしていく熱だった。
新たな収穫場。
そして、収穫直前だった“アレ”。
すべてを、失った。
頭の中で、その事実だけが何度も反復される。
(……何故バレた?)
思考はそこから一歩も動かない。
いや、動けない。
理由が見つからない。
原因が特定できない。
それは彼にとって、“理解不能”という最も忌むべき状態だった。
男はこれまで、失敗をしなかった。
少なくとも、自分の中では。
環境は整えた。
痕跡は消した。
対象は選別した。
手順は管理した。
すべては、計算通りだったはずだ。
(ミスはない)
断定。
何度も繰り返す。
(ミスは、ない)
だが――
結果は、覆らない。
収穫場は、消えた。
その現実だけが、確定している。
男の視線は、部屋の隅に固定されていた。
テレビ。
そこから流れるニュース映像。
山間部のログハウス。
規制線。
出入りする警察と鑑識。
言葉が流れる。
「監禁」「遺体」「事件性」。
だが――
それらは男の中で、意味を持たない。
理解できないのではない。
“理解する必要がないもの”として、処理されている。
(収穫場が……見つかった?)
その一点だけが、異物のように引っかかる。
なぜ。
どうやって。
誰が。
思考が空転する。
答えに辿り着くための“材料”が、何一つない。
それが、男にとって最大の恐怖だった。
論理が成立しない。
因果が繋がらない。
それはすなわち、自分の世界が崩れているということだった。
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さらに、問題はそれだけではなかった。
水森沙也加。
あれは、もう“終わっている”。
収穫は完了している。
だが――
小南優子。
あれは、“途中”だった。
テレビは、その点については何も語らない。
生存か、死亡か。
情報は出ていない。
だが、男の中では、別の“経験”が答えを出していた。
(……まだ死んでいない)
その確信。
根拠は、ある。
あの段階では、まだ崩壊には至らない。
管理はしていた。
状態も把握していた。
だからこそ分かる。
(生きている)
その瞬間。
脳の奥で、何かが弾けた。
熱。
焼け付くような熱が、一気に広がる。
同時に、全身に鳥肌が立つ。
寒気。
恐怖。
興奮。
すべてが混ざり合い、形を失う。
(致命的なミス)
初めて、その言葉が浮かぶ。
自分の中で。
否定できない形で。
男は、思い出していた。
顔。
声。
距離。
近かった。
近すぎた。
「観察している」と語ったこと。
反応を楽しんだこと。
あれは――
余計だった。
不要だった。
合理性がなかった。
ただの、“逸脱”。
(……見られた)
顔を。
声を。
そして――
自分という存在を。
男の呼吸が乱れる。
指先が震える。
だが、それでも思考は止まらない。
いや、止められない。
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(……まだ、間に合う)
その一縷の可能性に、すがる。
希望的観測。
優子が死んでいれば。
問題はない。
証言は存在しない。
顔も、声も、消える。
収穫場は失った。
だが、それだけだ。
場所など、いくらでも見つけられる。
また作ればいい。
また選べばいい。
また繰り返せばいい。
それだけの話だ。
(問題は、ない)
そう言い聞かせる。
だが――
すぐに、それは崩れる。
(……いや)
現実は、違う。
優子は、おそらく生きている。
その確信が、消えない。
そして、それが意味すること。
自分の顔が、記録される。
声が、再現される。
行動が、言語化される。
すべてが、“外に出る”。
(……終わる)
その認識が、ようやく形を持つ。
男の中で、何かが決定的に崩れた。
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(高飛び)
選択肢の一つが浮かぶ。
逃亡。
国外。
追跡不能な場所へ。
理論上は、可能。
だが――
現実は違う。
時間がない。
準備もない。
資金も、ルートも、確実ではない。
何より――
“今から動いて間に合うのか”。
その一点で、思考が止まる。
想定外。
計画外。
それは彼の最も苦手とする領域だった。
完璧に設計された世界の外。
そこでは、彼は“無力”に近い。
(……無理だ)
結論が出る。
あまりにも早く。
あまりにもあっさりと。
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静寂。
部屋の中に、何もない時間が流れる。
テレビの音だけが、遠くで鳴っている。
だが、それもやがて耳に入らなくなる。
男は、動かない。
ただ、立っている。
思考は、止まりかけている。
選択肢は、ほとんどない。
残された道は、極端に少ない。
その現実が、じわじわと精神を圧迫していく。
(……逃げる)
それは、決断というよりも。
“反射”に近かった。
考えた結果ではない。
考えられなくなった結果。
とりあえず。
今は。
ここから離れる。
それしかない。
男は、ゆっくりと動き出す。
必要なものを、無造作にまとめる。
整然とした動きではない。
初めての、“乱れ”。
それでも、止まらない。
止まれない。
猶予は、ない。
もう、後はない。
すべては崩れ始めている。
それを理解しているからこそ――
男は、逃げることを選んだ。
いや、
選ばざるを得なかった。




