第四十一話/司法のメス
翌日の午後。
空気の質が、明らかに違っていた。
群馬大学大学院医学系研究科――その解剖室は、徹底的に管理された無機質な空間だった。
外界の匂いも、音も、温度も遮断されている。
あるのは、白と銀。
そして、“事実”だけ。
金属の台の上に、水森沙也加が横たわっていた。
いや――
“水森沙也加だったもの”が。
昨夜見たときの、生々しさはすでに薄れている。
処置され、整えられ、均されたその姿は、ある意味で“静かすぎた”。
死が、整頓されている。
その異様さに、渡辺が無意識に息を詰める。
片瀬は腕を組んだまま動かない。
恵美は、一歩だけ前に出ていた。
視線は逸らさない。
逃げない。
それが、この場所に立つ者の最低条件だった。
「始めます」
低く、落ち着いた声。
解剖医――園田が手袋をはめながら言った。
感情を排した声音。
だがそこにあるのは、長年積み上げられた経験と、揺るぎない精度だった。
「まず、外表から」
淡々とした口調。
だが、その一言一言は、確実に“真実”へと近づいていく。
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「体格、女性。推定年齢20代前半」
メスが走る前に、視線だけで全体を捉える。
「栄養状態――著しく不良」
指先で皮膚を押す。
戻りが遅い。
「皮膚弾力低下。脱水傾向」
腕を持ち上げる。
そこに、無数の痕跡。
「……点滴痕、多数」
針痕が、規則的に並んでいる。
古いもの。
新しいもの。
混在している。
「長期間にわたり、外部からの栄養・水分補給が行われていた可能性」
渡辺が低く呟く。
「飼ってたのか……」
園田は反応しない。
ただ、続ける。
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「体表に外傷は少ない」
これは異常だった。
拘束され、監禁されていたにも関わらず。
「暴行の痕跡は限定的」
つまり――
“壊していない”。
壊さずに、維持している。
恵美の中で、何かが繋がる。
(管理していた)
“対象”として。
人ではなく。
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「開きます」
短い宣言。
メスが皮膚を割く。
音は、ほとんどしない。
だが、その行為の重みは、誰もが理解していた。
胸腔、腹腔。
順に露出されていく内部。
園田の手は、迷いがない。
まるで機械のように正確だった。
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「……まず、血液」
採取された血液は、通常とは明らかに違っていた。
「粘性が高い」
わずかに濁っている。
「著しい高血糖状態が疑われる」
そのまま、数値が示される。
「血糖値――500以上」
空気が止まる。
渡辺が思わず顔をしかめる。
「……生きてたのか、それで」
園田は淡々と答える。
「生きていたからこそ、この数値です」
一拍。
「通常であれば、昏睡、あるいは死亡に至るレベル」
だが――
彼女は、“維持されていた”。
異常な環境下で。
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「次に、電解質」
モニターにデータが映し出される。
「カリウム値――異常上昇」
片瀬が眉をひそめる。
「高カリウム血症……」
園田が頷く。
「心停止を誘発する要因になります」
つまり――
直接的な死因に関与している。
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「胃内容物、確認」
胃が開かれる。
中は――
空だった。
完全に。
「……なし」
何もない。
消化途中のものすら。
「長時間の絶食状態」
恵美が小さく呟く。
「与えてない……」
園田が訂正する。
「与えていない、のではない」
一拍。
「経口摂取を排除している」
その言葉の意味。
意図的。
管理された飢餓。
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「腸内細菌叢の検査結果」
次に提示されたデータは、さらに異常だった。
「常在菌――著しく減少」
ほぼ、検出されないレベル。
渡辺が顔を上げる。
「……そんなこと、あるのか?」
園田の声は変わらない。
「通常では考えにくい」
一拍。
「抗菌剤の長期投与、あるいは極端な栄養制限」
つまり――
体内環境そのものを、“作り変えている”。
人間の内部を。
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沈黙が落ちる。
解剖室の空気が、わずかに重くなる。
だが、園田は止まらない。
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「総合所見」
手を止める。
視線を、三人へ向ける。
「死因は――糖尿病性合併症」
はっきりとした断定。
「重度の高血糖状態に加え、高カリウム血症」
一拍。
「電解質異常による心停止」
恵美の視線が、遺体へ戻る。
「……作られた状態、ですね」
問いではない。
確認だった。
園田は、わずかに頷く。
「自然発症とは考えにくい」
そして――
「極めて人為的です」
その一言で、すべてが繋がる。
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“殺した”のではない。
“死なせた”。
管理し、操作し、限界まで追い込み――
最後に、崩壊させる。
その過程すべてが、計算されている。
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「……実験だな」
渡辺が低く言う。
怒りとも、嫌悪ともつかない声。
片瀬も小さく吐き捨てる。
「人でやることじゃねえ」
恵美は、何も言わなかった。
ただ、見ていた。
水森沙也加を。
その“結果”を。
そして――
ゆっくりと、目を閉じる。
(間に合わなかった)
再び、その言葉が浮かぶ。
だが今度は、違う。
感情だけでは終わらない。
理解した。
何をされたのか。
どうやって殺されたのか。
ならば――
次は。
(止める)
目を開く。
その視線は、すでに前を向いていた。
「……ありがとうございました」
恵美が言う。
園田は静かに手袋を外す。
「まだ、終わりではありません」
一拍。
「むしろ、ここからです」
その通りだった。
これは“結果”に過ぎない。
原因は、まだ外にいる。
三人は無言で頷く。
解剖室を後にする。
重い扉が閉まる。
その向こうに残るのは――
真実と、沈黙。
そして、確定した“異常”。
廊下を歩きながら、渡辺が言う。
「顔だな」
片瀬が続ける。
「足跡と一致する奴」
恵美は短く答える。
「蛇の目に回す」
すでに、次の手は決まっている。
科学。
データ。
そして、追跡。
すべてを使う。
あの男を――
“人間を材料にする存在”を。
見つけ出すために。




