第四十話/足跡
通報から数分後、現場の空気はわずかに変わっていた。
だが、それは安堵ではない。
“終わった”のではなく、“始まった”という重みだった。
二課と県警へ連絡を入れた三人は、ログハウス内部に留まり、犯人の痕跡を探り始めていた。
救出した女性――小南優子は、すでに限界に近かった。
担架に乗せられる前、かろうじて呼吸をしているだけの状態。
目は開いているが、焦点は合わない。
何かを語る余力など、残っていない。
「……今は無理ね」
恵美が短く言う。
渡辺も頷く。
「後でだな」
生きている。
それだけで、今は十分だった。
その一方で――
もう一人。
天幕の奥にあった“それ”。
恵美はゆっくりと振り返る。
視線の先にあるのは、水森沙也加だったもの。
正確には、“そうであった痕跡”。
以前、別の現場で見た遺体とは明らかに違う。
もっと、生々しい。
腐敗が進みきっていない。
体温が完全に失われたばかりの、あの独特の静けさ。
(……まだ、近い)
死が。
時間が。
距離が。
すべてが“近い”。
恵美の表情が、わずかに歪む。
(間に合わなかった)
その一言が、頭の中で反響する。
遅かった。
ほんの少し。
ほんの、数時間か、数日か。
だがその差が、生死を分けた。
拳が無意識に握られる。
だが――
すぐに開く。
(……違う)
ここで止まるな。
後悔は、後でいい。
今は、追う。
必ず。
この場所に来た意味を、無駄にしない。
恵美は視線を切り替える。
ログハウス内部を改めて見渡す。
整然としている。
異常なほどに。
器具。
容器。
拘束具。
薬品。
どれも、位置が決まっている。
無駄がない。
そして――
「……出ないわね」
指紋。
ほぼ確実に、残されていない。
「ここまでやる奴だ」
渡辺が低く言う。
「拭いてるに決まってる」
片瀬も同意する。
「徹底してる」
つまり、物理的な痕跡は期待できない。
残るのは――
科学。
「科警研頼みね」
恵美が呟く。
だが、その前にできることがある。
二人の被害者。
その特定。
恵美は端末を取り出す。
カメラを起動。
小南優子。
水森沙也加。
それぞれの顔を記録する。
そして、蛇の目へ送信。
数秒。
即座に応答が返る。
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【照合結果】
被害者A:小南 優子(22)
状態:失踪届あり(7日前)
被害者B:水森 沙也加(年齢推定20代前半)
状態:失踪届なし
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渡辺が舌打ちする。
「……届出なしかよ」
片瀬が低く言う。
「完全に“消えてる”な」
恵美は画面を見つめたまま言う。
「人を一人、完全に消す」
一拍。
「そして、利用する」
言葉が重い。
現実としてそこにある。
水森沙也加は、“存在しなかったことにされた人間”だった。
家族か。
環境か。
社会か。
理由は分からない。
だが、その空白に、犯人は入り込んだ。
そして――
利用した。
「……ふざけてる」
渡辺が吐き捨てる。
だが怒りをぶつける相手は、ここにはいない。
外から、複数の車両の音が近づいてくる。
鑑識だ。
ライトが差し込む。
人の気配が増える。
現場は、次の段階へ移行する。
「……任せるか」
片瀬が言う。
恵美は頷く。
だが――
そのまま外へ出た。
ログハウスの外。
冷たい空気。
深呼吸を一つ。
視線を周囲に巡らせる。
内部は、徹底的に遮断されていた。
ビニールで覆われ、痕跡は残らない。
だが――
外は違う。
(外側なら……)
人間は、完全には消えない。
どこかに、必ず残る。
恵美はゆっくりと歩き出す。
ライトを足元に向ける。
土。
湿っている。
井戸の近く。
水が使われている証拠。
その周辺を、慎重に見る。
そして――
見つけた。
「……あった」
足跡。
明確な圧痕。
まだ新しい。
そして――
三人のものではない。
恵美の呼吸が変わる。
スマートフォンを取り出す。
角度を変え、複数枚撮影。
すぐに蛇の目へ送信。
だが、それだけでは終わらない。
恵美はその場に立つ。
目を閉じる。
静寂。
感覚を研ぎ澄ます。
足元の土。
柔らかさ。
沈み方。
自分の体重での圧。
比較する。
そして――
“重ねる”。
そこに立っていたであろう人物を。
(……踏み込みが深い)
(体重がある)
(重心が安定している)
ゆっくりと、目を開く。
自分の足跡と並べる。
視覚的に比較する。
その瞬間――
像が浮かぶ。
ぼんやりとした輪郭。
だが確かに、“人”として。
「……180前後」
小さく呟く。
「体重……75から80」
視線を落とす。
足跡のサイズ。
「27……」
渡辺と片瀬が近づく。
「分かるのか?」
渡辺が聞く。
恵美は頷く。
「大まかだけど」
一拍。
「外してない」
それは“勘”ではない。
積み重ねた経験と、感覚。
追跡者としての資質。
「……十分だ」
片瀬が言う。
「顔さえ出れば」
渡辺が続ける。
「見つけられる」
恵美は小さく息を吐く。
「ええ」
そして、鑑識に向かって声をかける。
「この足跡、型を取って」
指示は的確だった。
現場を任せる。
三人は顔を見合わせる。
ここでやるべきことは、終わった。
「行くぞ」
渡辺が言う。
「次だな」
片瀬が応じる。
恵美は一度だけログハウスを振り返る。
そこに残されたもの。
救えた命。
救えなかった命。
すべてを背負いながら――
視線を前に戻す。
「……行きましょう」
三人は車へ戻る。
エンジンがかかる。
向かう先は決まっている。
群馬大学大学院医学系研究科。
科学と、知見。
そして――
この異常を“理解するため”の場所へ。




