第三十七話/舌禍
薄暗い室内に、規則性のない機械音が満ちていた。
湿った空気。消毒液と、どこか甘ったるい異臭が混ざり合っている。
沙也加の処置を終えた男――渡辺と名乗っていた“それ”は、数日間ほとんどこの部屋を離れなかった。
いや、“離れる必要がなかった”と言うべきか。
もうすべては整っている。
あとは、時間だけが必要だった。
その余裕が、男を変えていた。
饒舌だった。
異様なほどに。
まるで、長年溜め込んでいたものを吐き出すかのように、男は語り続けた。
優子の前で。
拘束され、声も発せられず、ただ呼吸することだけを許された存在に向かって。
「知ってるか? 子供の頃な、森ってのは宝の山なんだよ」
唐突に始まる独白。
返事はない。
だが男は気にしない。
むしろ、その方が都合がいいとでも言うように、言葉を重ねていく。
「みんな怖がるだろ? 暗いし、気持ち悪いし……でもな、違うんだよ。あそこには“正しい循環”がある」
ゆっくりと歩きながら、優子の周囲を回る。
靴底が床に擦れる音が、やけに大きく響く。
「死んだものが、土に還って、また生きるものになる」
足を止める。
「無駄がない」
その言葉には、妙な確信があった。
優子は、ただ聞いているしかなかった。
いや、“聞かされている”。
耳を塞ぐこともできない。
意識を逸らすこともできない。
体は動かない。
拘束具が、わずかな身じろぎすら許さない。
口に差し込まれていた栄養チューブが、喉の奥を圧迫している。
吐き気。
慢性的な腹痛。
抗生物質の過剰投与。
腸がねじれるような痛みが、断続的に襲ってくる。
だが――それすらも、今では“日常”になりつつあった。
抵抗する気力は、とうに削り取られていた。
そんな優子を見下ろしながら、男はふと手を伸ばす。
「……ああ、そうだ」
軽い調子で言う。
まるで思い出したかのように。
「もう、これは必要ないな」
次の瞬間――
口腔に差し込まれていたチューブが、ゆっくりと引き抜かれる。
ぬるり、とした感触。
喉の奥から何かが抜けていく違和感。
咳き込みたくなる衝動。
だが、それすらも上手くできない。
空気が、一気に流れ込む。
久しぶりの“自由”。
だがそれは、救いではなかった。
優子は理解していた。
(……終わる)
何が、とは言葉にできない。
だが、確実に“段階が変わる”ことだけは分かる。
男の目的が――
達せられようとしている。
それでも、体は動かない。
逃げるという選択肢は、最初から存在しなかった。
男は、その様子を観察するように見つめる。
そして、満足げに小さく頷いた。
「いい感じだ」
評価するような口調。
人間に向けるものではない。
完全に、“対象”として見ている視線。
男は椅子を引き、優子の正面に腰掛ける。
距離が近い。
息遣いすら感じるほどに。
「なあ」
柔らかい声。
だが、その奥にあるものは冷たい。
「俺の名前、渡辺だと思ってるだろ?」
優子の瞳が、わずかに揺れる。
男は笑った。
「違うよ」
あっさりと否定する。
「そんな名前、使ったこともない」
さらりとした口調。
まるでどうでもいいことのように。
「便利なんだよ、名前ってのは。場面ごとに変えられる」
指先で自分のこめかみを軽く叩く。
「でもな、本質は変わらない」
視線が、優子を射抜く。
「俺は俺だ」
その言葉には、異様な重みがあった。
逃げ場のない、確定された存在。
男は続ける。
「隣、気になってたろ?」
一瞬、優子の呼吸が乱れる。
沙也加。
その存在は、ずっと隣にあった。
見えない。
だが、感じる。
物音。気配。わずかな振動。
それが、“もう一人いる”という確信を与えていた。
男は、ゆっくりと頷く。
「あれが、沙也加だ」
淡々と告げる。
「いい出来だぞ」
誇らしげですらあった。
「時間はかかったけどな……ちゃんと応えてくれた」
何に対しての“応え”なのか。
優子には理解できない。
いや――
理解したくない。
男の言葉は、次第に熱を帯びていく。
「人間ってのは面白い」
立ち上がる。
再び歩き始める。
「ただ死ぬだけじゃ、もったいないんだよ」
振り返る。
「活かせる」
その言葉に、優子の背筋が凍る。
「栄養になる。基盤になる。培地になる」
一つ一つ、区切るように言う。
「人間は、“肥料”としても優秀なんだ」
完全な狂気。
だが男は、大真面目だった。
一切の迷いも、疑いもない。
それが、何よりも恐ろしい。
「で、そこに――」
ゆっくりと手を広げる。
「菌を入れる」
笑う。
「育つんだよ」
優子の視界が揺れる。
理解が追いつかない。
言葉は聞こえている。
意味も分かる。
だが、それを“現実”として受け取ることができない。
「沙也加はな、いい反応を見せた」
満足そうに頷く。
「ちゃんと“環境”になった」
その言葉で、全てが繋がる。
優子の中で、何かが崩れる。
(……人間を……)
(肥料にして……)
(キノコを……)
否定したい。
だが、できない。
ここにいる時点で、すでに異常の中にいる。
そして――
その犠牲者が、自分だけではないこと。
もう一人いること。
それが、確定した。
疑いようがない事実として。
涙が溢れる。
止まらない。
声にならない嗚咽。
男は、それをじっと見つめる。
「いいね」
小さく呟く。
「その反応」
満足げに。
「やっぱり、人間はいい」
ゆっくりと近づく。
優子の顔を覗き込む。
「だからこそ、価値がある」
その目は、完全に“壊れて”いた。
優子は思う。
(この男は――)
(狂ってる)
それ以上でも、それ以下でもない。
だが、その狂気は現実であり、
逃げ場はどこにもなかった。




