第三十三話/幸福論
男の気分は最高潮に達していた。
沙也加への“仕込み”は完了した。
種菌は適切な位置に埋め込まれ、培地としての条件も整えた。
後は時間がそれを完成へと導くだけだ。
待つ。
ただそれだけの工程。
だが、その“待つ時間”こそが、男にとっては最も甘美だった。
自宅の冷蔵庫。
そこには、すでに収穫済みの“食材”が整然と並んでいる。
瓶詰め。
真空パック。
乾燥処理された標本のようなもの。
そのどれもが、男にとっては芸術品だった。
残量は、計算済み。
現在の消費ペースであれば、次の収穫まで十分に持つ。
完璧な計画。
その確信が、男の口元を緩ませる。
そして思考は、自然と次へ移る。
小南優子。
あの個体は、まだ未完成だ。
糖尿病“予備軍”。
だが、それでは足りない。
“環境”としては未熟だ。
男は頭の中で、数値を組み立てる。
血糖値の推移。
インスリン分泌量。
代謝の限界点。
現在投与している栄養剤の配合では、まだ緩やかすぎる。
もっと強く。
もっと急激に。
体内で処理しきれないほどの糖を流し込み、
意図的に代謝を破綻させる。
そうすることで――
より“豊かな培地”になる。
(時間はかかる)
その事実に、苛立ちはなかった。
むしろ逆だった。
時間をかけて育てること。
それは、男にとっての“純度”を高める行為だった。
沙也加は、ある意味で“効率重視”だ。
だが優子は違う。
より理想的な形で、より完成度の高い“菌床”として仕上げることができる。
その可能性があった。
(丁寧にやる)
その言葉が、内側で静かに響く。
その先にある“収穫”を想像する。
ゆっくりと、時間をかけて育ったそれ。
最適化された環境で、最大限に引き出された“味”。
その瞬間。
それを口に含む瞬間。
――そこまで思考が至った時、男の口内に唾液が溢れた。
ごくり、と飲み込む。
その感覚が、ある記憶を呼び起こす。
原点。
すべての始まり。
---
それは、少年期のことだった。
まだ世界が単純で、
“意味”よりも“感覚”が先にあった頃。
男は一人で森に入ることが多かった。
理由は特にない。
ただ、そこが静かだったからだ。
人の声がない。
人工的な音もない。
あるのは、風と、葉の擦れる音と、
そして土の匂い。
湿った空気。
腐葉土の甘いような、重い匂い。
それが好きだった。
ある日、男は普段よりも奥へと足を踏み入れた。
道はない。
獣道のような細い通り道を、感覚だけで進む。
その時だった。
異臭がした。
腐敗の匂い。
だが、不快ではなかった。
むしろ――興味を引かれた。
男は、その匂いを辿った。
数メートル進んだ先。
木々の隙間。
そこに、それはあった。
人の形。
倒れている。
動かない。
衣服は土と一体化し、
露出した部分はすでに変色していた。
自死者。
その概念を、当時の男は知らなかった。
ただ、「死んでいる」ということだけは理解できた。
怖くはなかった。
逃げようとも思わなかった。
むしろ――
目が離せなかった。
半ば白骨化したその体。
皮膚は崩れ、骨が覗いている。
だが男の視線を奪ったのは、それではなかった。
その周囲に広がるもの。
菌類。
白、灰色、淡い黄。
無数の菌糸が、死体を覆うように広がっていた。
そして――
その中に、一際鮮やかな色があった。
橙色。
滑らかな質感。
まるで、そこだけが“生きている”かのような輝き。
男は、ゆっくりと近づいた。
しゃがみ込む。
匂いを嗅ぐ。
土と腐敗の中に、微かな甘さが混じっている。
手を伸ばす。
躊躇はなかった。
それを、もぎ取る。
タマゴタケ。
名前など知らない。
ただ、美しいと思った。
そして――
口に入れた。
噛む。
柔らかい。
そして、広がる。
味。
それは、それまで経験したどの味とも違っていた。
土の匂い。
湿った空気。
腐敗の気配。
それらがすべて混ざり合いながら、
しかし不思議と“調和”している。
美味い。
その感覚が、全身を貫いた。
男は無言で、それを飲み込んだ。
そしてもう一つ、手に取る。
繰り返す。
止まらなかった。
その瞬間、男の中で何かが結びついた。
死と、美。
腐敗と、味。
終わりと、生成。
すべてが、ひとつの線で繋がる。
それは理解ではない。
**確信だった。**
世界は、こういう構造でできているのだと。
---
現在。
男はゆっくりと息を吐いた。
あの時の味。
あの時の光景。
それが、今の自分を形作っている。
だが――
再現では足りない。
あれを超えたい。
より純粋に。
より完全に。
自分の手で“育てたもの”で。
口元が歪む。
「もうすぐだ……」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
その声には、確かな歓喜が滲んでいた。
彼にとってそれは、
狂気ではない。
ただの――
**至福だった。**




