第三十話/小南優子
小南優子は、すべてを聞いていた。
聞こえてしまった、という方が正しい。
薄い壁一枚隔てた向こう側。
遮音などほとんど意味をなさないその空間で、男の声はやけに鮮明に響いていた。
渡辺、と名乗っていた男の声。
その語り口は穏やかで、どこか楽しげで――
そして、決定的に狂っていた。
言葉の一つ一つが、優子の中で像を結ぶ。
種菌。
培地。
穴。
収穫。
断片的な単語が、脳内で勝手に繋がり、形を持つ。
理解したくないのに、理解してしまう。
想像が、止まらない。
(やめて……)
耳を塞ごうとする。だが手は動かない。
拘束具が、無機質な力でそれを拒む。
声は続く。
淡々と、楽しげに、
まるで日常の延長のように。
その異常さが、何よりも現実味を帯びていた。
優子の中で、何かが音を立てて崩れた。
精神の防壁。
それはゆっくり壊れるものではなかった。
ある一点を越えた瞬間、一気に瓦解した。
――自分も、ああなる。
その確信が、あまりにも自然に、あまりにも確定的に浮かび上がる。
次の瞬間、優子は体を激しくよじっていた。
がむしゃらだった。
意味のない抵抗だと分かっていても、
それでも動かずにはいられない。
拘束具が軋む。
皮膚が擦れ、裂ける。
手首と足首から、じわりと血が滲む。
だが痛みは、恐怖にかき消されていた。
呼吸が荒くなる。
過呼吸に近い。
視界が揺れる。
その時だった。
下腹部に、嫌な感覚が走る。
抑えきれない。
恐怖と、極度の緊張と、体調の悪化。
糖尿病による代謝の乱れも重なり、身体の制御が効かない。
次の瞬間、温かいものが流れた。
失禁。
理解した瞬間、別の種類の絶望が押し寄せる。
人としての尊厳が、音もなく剥がれていく。
だがそれすら、些細なことに思えた。
それ以上の“何か”が、すぐそこまで来ているからだ。
(あの男は……何……)
思考が断片化する。
(人間……じゃない……)
結論だけが、妙に鮮明だった。
その異常性を理解した瞬間、
後悔が、堰を切ったように溢れ出す。
大久保公園。
夜の光景。
声をかけてきた男。
軽い気持ちだった。
ほんの少し、楽に金を稼げると思っただけだった。
(あの日から……)
歯車は、確実に狂っていた。
だが、その狂いに気づくのが遅すぎた。
遅すぎて、もう戻れない。
(なんで……)
問いに意味はない。
それでも止まらない。
(なんであの時……)
だが答えはない。
ただ現実だけが、ここにある。
簡単に手に入るはずだった金。
それと引き換えに差し出すには、あまりにも大きすぎるもの。
――自分の命。
そしてそれだけでは終わらない。
(ただじゃ……死ねない……)
その理解が、背筋を凍らせる。
死ぬことすら、終わりではない。
何かを“され続ける”。
その想像が、具体的な形を取り始めた瞬間、優子は衝動的に顎を引いた。
舌を噛み切る。
それしかない。
それだけが、唯一の逃げ道。
歯に力を込める。
だが――
口の中に違和感があった。
チューブ。
喉の奥へと繋がるそれが、物理的に動きを阻害している。
噛み切れない。
力を込めても、角度が足りない。
舌に歯が届かない。
「……っ……!」
声にならない叫び。
何度も試みる。
だが結果は同じだった。
その事実が、ゆっくりと理解に変わる。
――自死すら、許されていない。
逃げ道が、完全に塞がれた。
その瞬間、優子の中で何かが静かに折れた。
もはや、選択肢は存在しない。
ただ、与えられるものを受け入れるしかない。
隣の会話が、やがて途切れた。
沈黙。
それが逆に恐ろしい。
何かが終わった。
そして――次は自分だ。
時間の感覚が曖昧になる。
数秒か、数分か、それすら分からない。
その時だった。
目の前のビニールの幕が、ゆっくりと開いた。
かさり、と乾いた音。
光が差し込む。
そして――男がいた。
目が合う。
逃げ場はない。
その顔には、笑みが浮かんでいた。
だがそれは先ほど聞いていた声の主――渡辺とは、どこか違って見えた。
同じはずなのに、違う。
何かが決定的に変わっている。
(……別人……?)
いや、違う。
そうではない。
“本性”だ。
優子の本能が、そう告げていた。
男が、ゆっくりと近づいてくる。
足音が、やけに大きく響く。
一歩。
また一歩。
逃げられない距離が、確実に縮まっていく。
そして、止まった。
すぐ目の前で。
顔を、覗き込まれる。
距離が近すぎる。
呼吸すら感じられそうな距離。
男は優子の体を観察するように見つめ、軽く首を傾げた。
「うーん」
思案するような声。
「君は彼女と違って、体が適応するにはもっと時間がかかるだろう」
言葉の意味が、うまく入ってこない。
理解する前に、次の言葉が続く。
「でも安心してくれ」
優しい声音。
だが、その中身はどこまでも空虚だった。
「大事に育てるから」
育てる。
その言葉が、異様に重く響く。
「それまで、自分の人生を振り返るもよし」
穏やかに。
「何か楽しいことを考えるもよし」
まるで親切な助言のように。
「時間だけは、たっぷりある」
最後の一言が、決定的だった。
時間。
それが、ここでは“救い”ではなく“刑罰”になる。
優子は、もう何も理解できなかった。
理解しようとする力が、残っていない。
ただ、音として言葉が通り過ぎていく。
耐えきれなかった。
目を閉じる。
現実を遮断するための、最後の手段。
(これは夢だ)
そう思い込もうとする。
(次に目を開けたら……)
自分の部屋。
見慣れた天井。
スマートフォンの通知。
どうでもいい日常。
そこに戻っているはずだ。
戻っていなければ、おかしい。
そうでなければ、世界がおかしい。
時間が流れる。
数秒。
あるいは数十秒。
その区別すらつかない。
ゆっくりと、目を開けた。
視界に入ってきたのは――
何も変わらない現実だった。
同じ天井。
同じ光。
同じ拘束。
そして、同じ痛み。
夢ではなかった。
その事実が、静かに、確実に突き刺さる。
手首に力が入る。
じわりと痛みが走る。
血が滲む。
その痛みだけが、現実を証明していた。
これは夢ではない。
逃げ場もない。
終わりもない。
優子は、ようやく理解した。
自分が今置かれている場所が、どこなのかを。
そして――
ここから先に待つものが、どれほどの絶望なのかを。




