第二十九話/闇の受胎
沙也加は、矢野の手元で進む作業を、ほとんど焦点の合わない視界で見つめていた。
いや、“見ている”というよりも、視界に映っているだけだった。脳がそれを理解することを拒否している。理解してしまえば、それが現実だと確定してしまうからだ。
金属の擦れる音。
湿った何かを押し込む鈍い感触。
そして、自分の体の内側から湧き上がる、遅れてくる痛み。
それらが断片的に、まるで壊れた映像のように繰り返される。
矢野は、そんな沙也加の状態など意に介さない様子で、楽しげに語り続けていた。
「これはね、種菌と菌床培地と言ってね」
その声は、妙に明るかった。
子供に理科の実験を説明する教師のような、軽やかさすら含んでいる。
「おがくず、米ぬか、ふすま、トウモロコシの芯――そういうものを練って作るんだ。栄養価が高くてね、菌の成長には最適なんだよ」
ぐちゃり、と音がした。
沙也加は自分の体のどこかに、それが押し込まれたことを理解した。
理解した瞬間、遅れて痛みが波のように押し寄せる。
喉がひくついた。
声にならない悲鳴が、肺の奥で空回りする。
矢野は続ける。
「これを今、君の体に開けた穴に埋め込む」
“穴”。
その言葉だけが、異様にはっきりと耳に残った。
自分の体に開けられたものが、ただの傷ではなく、**意図された“穴”**なのだと、強制的に認識させられる。
ドリルの振動が、まだ骨の奥に残っている気がした。
「約一ヶ月から一ヶ月半もすると、漸く収穫となる」
一ヶ月。
その時間の長さが、現実味を持って迫ってくる。
今日一日を生き延びることすら想像できないのに、
この地獄が“あと一ヶ月以上続く”という事実。
時間が、刃物のように彼女の精神を切り裂いた。
「君はその頃には合併症で亡くなっているかも知れないが」
さらりと告げられる死。
しかしそれは救いではなかった。
「安心したまえ。君はこのキノコにとって母なる大地になり、繰り返し収穫できる状態になる」
意味が、すぐには理解できなかった。
だが、数秒遅れて、その言葉の輪郭が浮かび上がる。
――死んでも終わらない。
体は、利用され続ける。
“人間”としてではなく、
ただの“培地”として。
その瞬間、沙也加の中で何かが壊れた。
笑いそうになった。
泣きそうにもなった。
どちらでもない、形にならない感情が、喉元までせり上がる。
気が狂いそうだった。
いや、もう狂っているのかもしれない。
体のあちこちに開けられた穴。
そこに詰め込まれる異物。
止まらない痛み。
だがそれ以上に耐えがたいのは、
この男の声だった。
矢野の“楽しそうな声”。
それが、現実を何よりも強く肯定してくる。
逃げ場がない。
痛みからも、状況からも、
そしてこの男からも。
その事実が、ゆっくりと、確実に精神を侵食していく。
沙也加は、かろうじて残っていた理性を振り絞った。
声を出さなければならない。
何かを言わなければ、完全に壊れてしまう。
唇が震える。
乾いた喉から、かすれた音が漏れた。
「……こ……ろして……」
それは願いだった。
懇願だった。
そして、最後の“人間としての選択”だった。
矢野は一瞬、手を止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
その口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「ダメダメ」
軽い口調だった。
あまりにも軽く、あまりにもあっさりと。
「そんな事したら、君の体を栽培用にした意味が無くなる」
意味。
その言葉が、冷たく突き刺さる。
沙也加にとっての命は、
この男にとっては“用途”でしかない。
「君の体内では血糖値とカリウム値が上昇し、体内の常在菌は抗生物質によって死滅している」
淡々とした説明。
まるで実験結果を読み上げるように。
「言わば君の体は、このキノコにとって最適な環境になっているんだよ」
“最適”。
その言葉が、やけに鮮明に響いた。
自分の体が、何かにとっての理想的な環境になっている。
それは祝福ではなく、
完全な否定だった。
「その環境下で育てたニオウシメジは格別な味になるんだよ」
食べる。
この男は、それを食べるのだ。
自分の体から育ったものを。
理解した瞬間、吐き気が込み上げた。
だが吐くことすらできない。
矢野は天井を見上げ、一度だけゆっくりと息を吐いた。
満足げな仕草だった。
そして再び、沙也加へと顔を近づける。
距離が、異様に近い。
その目が、真っ直ぐに沙也加を捉える。
「本当に君には感謝するよ」
囁くような声。
だがその内容は、どこまでも歪んでいる。
「君は最高の母になる」
その言葉は、祝福の形をしていた。
だが実際には、完全な呪いだった。
その時だった。
隣の部屋から、微かな音が聞こえた。
かすかな、しかし確かに存在する“もがく音”。
誰かがいる。
誰かが、聞いている。
そして――理解している。
自分と同じ運命にあることを。
その音は、必死に何かを訴えているようだった。
だが言葉にはならない。
ただ、絶望だけが伝わってくる。
(この男は……何なの……)
思考が、ゆっくりと形を持つ。
(人間じゃない)
その結論は、恐ろしいほど自然に導き出された。
だが、その理解はあまりにも遅かった。
遅すぎた。
(トー横になんて……立つんじゃなかった)
ほんの些細な選択。
ほんの一歩の違い。
その結果が、ここだった。
後悔が、胸の奥で静かに広がる。
だが、それすらもやがて薄れていく。
痛みと恐怖が、それを上書きしていくからだ。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
暗闇が、優しく、しかし確実に迫ってくる。
それは救いではない。
ただの終わりでもない。
もっと曖昧で、もっと残酷な――
“継続する絶望”の入口だった。
沙也加の意識は、音もなくその闇へと沈み、
そして、二度と光の側へ戻ることはなかった。




