第二十六話/絶望
沙也加の体は、すでに限界に近づいていた。
それは単なる衰弱ではなかった。
糖尿病による異常——それだけなら、まだ“病気”の範囲に収まっていたかもしれない。
だが今の彼女の状態は、それに人為的な歪みが重ねられている。
抗生物質の過剰投与。
体内の菌は、ほとんど機能していない。
腸は荒れ、正常な消化も吸収もできない。
そこにさらに——
電解質の崩壊。
カリウム値の上昇。
それは静かに、しかし確実に体を蝕んでいた。
最初に現れたのは、違和感だった。
腹部の鈍い痛み。
それがやがて、断続的な強い痛みに変わる。
腸がねじれるような感覚。
そして——
止まらない下痢。
水のようなそれは、何度も、何度も、彼女の体から水分を奪っていく。
体はすでに軽い。
そこからさらに削られる。
そして嘔吐。
突然、込み上げてくる吐き気。
抑えようとしても、どうにもならない。
体が勝手に反応する。
胃の中のものを、すべて外に出そうとする。
何も残っていないはずなのに、それでも吐く。
喉が焼けるように痛む。
涙が滲む。
呼吸が乱れる。
そのたびに、意識が遠のく。
——危険だった。
このままでは、吐瀉物で窒息する。
それを理解している人間が、この空間には一人だけいた。
矢野。
彼はそれを“問題”として認識した。
感情ではない。
ただの条件管理。
そして対処する。
栄養剤の経口投与は、ある日を境に止められた。
代わりに——点滴。
すべてを血管から流し込む方法へと切り替わる。
誤嚥のリスクを排除するための、合理的な判断。
それだけだった。
結果として——
沙也加は“話せる状態”になった。
喉を使える。
声を出せる。
だが、それに意味はなかった。
腹痛は常にある。
鈍い痛みが、絶えず内側から体を圧迫する。
頭は霞んでいる。
思考は重く、言葉は遅れる。
何かを叫ぼうとしても、その前に意識が途切れる。
助けを呼ぶという行為すら、成立しない。
声を出す“理由”が、保てない。
その中で——
一つだけ、確かなものがあった。
時間。
ここには時計はない。
外の景色も見えない。
だが、それでも分かる。
ビニール越しに差し込む光。
それが、赤くなる時間。
夕方。
その頃になると——
必ず、来る。
矢野が。
規則正しい。
狂気ではなく、習慣。
それが逆に、恐ろしかった。
今日も——
その時間が来た。
ビニールが、わずかに赤く染まる。
外の夕日が、何重にも重ねられた透明な膜を通して、歪んだ色を作り出している。
空間全体が、血のような色に染まる。
その中で。
カチャリ。
錠前の音。
沙也加の体が、わずかに強張る。
来た。
扉が開く。
ビニールが擦れる音。
そして、足音。
矢野が入ってくる。
いつもと同じ。
変わらない。
そのことが、逆に異様だった。
彼は沙也加の方を一瞥する。
だがすぐに視線を外し——
隣へ向かう。
ビニールの向こう。
もう一人の空間。
そこで、音が始まる。
ガサ、と何かを動かす音。
金属が触れ合う音。
そして——
短い、抵抗。
ドン、と何かがぶつかる。
引きずる音。
呼吸が乱れる。
もがいている。
だが。
それは長くは続かない。
すぐに弱くなる。
音が小さくなる。
やがて——静まる。
処置が終わったのだと、沙也加には分かる。
自分が経験したから。
同じ手順。
同じ流れ。
その再現。
やがて——
シャリ、とビニールが開く音。
仕切りが動く。
そして——
矢野が、戻ってくる。
笑っている。
静かな、満足したような笑み。
彼はゆっくりと歩み寄る。
距離が縮まる。
そして——
顔を近づける。
異様な近さ。
呼吸がかかるほどの距離。
沙也加の視界いっぱいに、彼の顔が広がる。
その時——
かすれた声が、漏れる。
「……なんで……」
喉が震える。
言葉が崩れる。
「……こんなこと……するの……」
それは、問いというよりも、確認に近かった。
矢野は、すぐには答えなかった。
数秒。
ゆっくりと視線を上げる。
天井を見る。
何かを思い出すように。
あるいは、言葉を選ぶように。
そして——
再び、沙也加を見る。
その目は、穏やかだった。
異様なほどに。
「……昔な」
静かに、話し始める。
そこからは——止まらなかった。
幼い頃の話。
母親のこと。
不在だった父親。
いや、正確には——暴力として存在していた父親。
殴る音。
罵声。
狭い部屋。
逃げ場のない日々。
孤独。
その中で、彼が見つけた“楽しみ”。
森。
木々の間を歩くこと。
野草を見つけること。
キノコを採ること。
食べられるもの、食べられないもの。
それを自分で判断すること。
口に入れること。
生き延びるための知識。
やがて——料理人を目指したこと。
だが挫折したこと。
理由は語らない。
ただ、“うまくいかなかった”とだけ言う。
そして——
幼い頃に好きだった女の子の話。
名前も、仕草も、細かく語る。
まるで昨日のことのように。
止まらない。
異常なほどに饒舌。
言葉が溢れている。
そこにはためらいがない。
罪悪感もない。
ただ——語ることそのものが目的のように。
沙也加は、それを聞いていた。
ぼんやりと。
霞む意識の中で。
だが。
一つだけ、はっきりと理解する。
(……ああ)
(……助からない)
その確信。
(……この人は……)
(……もう、終わってる)
助ける気がない。
説明ではない。
これは——“終わりの前の語り”だ。
そう理解した瞬間。
涙が、溢れた。
自然に。
止めようとする間もなく。
頬を伝う。
温かいはずなのに、どこか冷たい感覚。
矢野は、それを見ていた。
そして——
指で、すくう。
涙を。
そのまま、自分の口元へ運ぶ。
舐める。
ゆっくりと。
味わうように。
「……いい出来だ」
静かに言う。
「準備は整った」
その言葉は、あまりにも軽かった。
そして——
彼は立ち上がる。
隣の空間へと消える。
数分。
その間、何も音はしない。
ただ、赤い光が揺れている。
やがて——
戻ってくる。
その手には。
小型のドリル。
無機質な金属の光。
異様な存在感。
沙也加の呼吸が、乱れる。
だが体は動かない。
彼女の視界からは見えない場所で、何かが置かれる音。
準備。
整えられていく。
そして——
矢野が口を開く。
「今から君に、大事なものの母になるための処置をする」
穏やかな声。
説明するように。
「少し痛むかもしれないが……糖尿病の影響で感覚は鈍っているはずだ」
一歩、近づく。
「この処置で死ぬことはない。安心したまえ」
その言葉は、何の慰めにもならない。
「まずは——右足から」
間。
「暴れると危ない。できれば、耐えてほしい」
その瞬間。
沙也加の中で、何かが切れた。
(……無理)
(……もう……)
(……耐えられない)
その感覚が、全身を満たす。
そして——
声が出る。
これまでとは違う。
押し殺されたものではない。
絞り出されたものでもない。
完全な、絶叫。
喉が裂けるほどの声。
この空間に来てから、初めての。
すべてを振り絞った叫び。
それに応えるものは——
なかった。
ただ。
ドリルの回転音。
甲高く、乾いた音が空気を裂く。
そして——
隣から聞こえる、もがく音。
同じように。
同じ場所で。
同じように。
それだけが、重なっていた。




