表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蛇の目/美食家  作者: ふゆはる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/48

第二十五話/隣人②

 小南優子は、夜の街に立つことに、もう何の抵抗も感じなくなっていた。

 大久保公園の周辺。

 ネオンと人のざわめきが混ざり合うその一帯は、夜になると別の顔を見せる。

 観光客。

 呼び込み。

 同じように立つ女たち。

 そして——値踏みする視線。

 最初は、ほんの小遣い稼ぎのつもりだった。

 大学の友人に誘われて、軽い気持ちで足を踏み入れた。

 一晩で数万円。

 それだけで、当時の彼女には十分すぎる理由だった。

 罪悪感はあった。

 最初の一度目は、終わったあとに吐いた。

 二度目は、帰り道で泣いた。

 三度目には、何も感じなくなっていた。

 人間の順応は、恐ろしいほど早い。

 そして何より——

 金。

 それはあまりにも簡単に手に入った。

 労働でもなく、努力でもない。

 ただそこに立ち、選ばれるだけ。

 それが、彼女の中にあった“境界線”を、音もなく壊していった。

 気づいた時には、もう戻れなかった。

 優子の場合、客の多くは外国人観光客だった。

 英語が話せる。

 それは、この場所では明確な武器だった。

 片言の日本語しか話せない客に対して、流暢な英語で応じる。

 それだけで、安心感を与えられる。

 そして同時に、価格も上げられる。

「安心」と「希少性」。

 その二つを理解した時点で、彼女はもう“初心者”ではなかった。

 客は選ぶものになり、交渉は“作業”になった。

 笑顔も、声色も、すべてが計算されたもの。

 そこに“自分”はいなかった。

 リスクも理解しているつもりだった。

 性病。

 暴力。

 トラブル。

 周囲の話も聞いているし、自分なりに対策もしていた。

 だが。

 それらはすべて、“目に見える危険”だった。

 本当の代償は、別の形でやってくる。

 それに気づく機会は、これまでなかった。

 ——あの日までは。

「ヘイ」

 声をかけられたのは、いつもと同じような夜だった。

 優子は振り向く。

 そこにいたのは、日本人の男だった。

 三十代前半くらい。

 清潔感のある服装。

 観光客ではない。

 珍しい。

 だが、それだけだ。

 優子はすぐに“客かどうか”を判断する。

 目線。距離。話し方。

 男は、少しだけ周囲を気にするような仕草を見せたあと、口を開いた。

「ちょっと変わった話なんだけど」

 その時点で、優子の中に小さな警戒が生まれる。

 だが同時に——興味もあった。

「顔にモザイクを入れるから、動画を撮らせてほしい」

 一瞬、理解が遅れる。

 動画。

 つまり、アダルトビデオ。

 昔の彼女なら、その時点で笑っていた。

 冗談でしょ、と。

 あるいは軽くあしらって、その場を離れていた。

 だが今は違う。

 優子は男を観察する。

 焦っていない。

 押し付けてこない。

 どこか“慣れている”雰囲気。

「いくら?」

 自然と、その言葉が出た。

 男——渡辺は、少しだけ口元を緩める。

「一本、十五万」

 空気が、一瞬止まったように感じた。

 頭の中で、計算が走る。

 今の仕事。

 一晩の収入。

 時間と労力。

 ——割が違う。

「海外の配信サイトを使う。メンバーシップ制だから、流出のリスクはかなり低い」

 説明は簡潔だった。

 だが要点は押さえている。

「身元はバレない」

 その一言が、決定的だった。

 優子の中の警戒心が、少しずつ緩んでいく。

 完全ではない。

 だが、“検討する余地”が生まれる。

「すぐじゃなくていい。まずは連絡先だけ」

 渡辺はそう言って、スマートフォンを取り出す。

 表示されたのは——Telegram。

 匿名性の高いアプリ。

 それもまた、優子の警戒を下げる要素になった。

(……悪くない)

 そう判断するのに、時間はかからなかった。

 ただし、そのまま乗るほど甘くもない。

 優子はわざと少し考える素振りを見せる。

 間を取る。

 そして、条件を吊り上げる。

 交渉。

 それは彼女にとって、すでに日常の一部だった。

 数回のやり取り。

 駆け引き。

 引いて、押して。

 最終的に提示された額は——十八万円。

(……勝ち)

 内心でそう思った。

 相手は余裕がある。

 つまり、まだ引き出せる。

 そう判断していた。

 そして今日。

 約束の日。

 優子はいつもの場所に立っていた。

 大久保公園の前。

 見慣れた風景。

 だが今日は、少しだけ違って見えた。

 やがて、一台の車がゆっくりと近づいてくる。

 停車。

 窓が下がる。

「小南さん?」

 渡辺だった。

 優子は軽く頷き、助手席に乗り込む。

 車内は清潔だった。

 特に違和感はない。

 むしろ、安心感すらある。

「じゃあ、行こうか」

 エンジン音。

 車が動き出す。

 夜の街を抜けていく。

 優子は窓の外をぼんやりと見ていた。

 少しだけ高揚している。

 新しい“仕事”。

 しかも高額。

 悪くない。

 そう思っていた。

「これ、どうぞ」

 渡辺が差し出したのは、ペットボトルの飲み物だった。

 未開封。

 コンビニでよく見るもの。

 優子は一瞬だけ考える。

 だが。

(大丈夫でしょ)

 その判断は、あまりにも軽かった。

 キャップを開ける。

 一口。

 喉が乾いていたこともあり、そのまま数口飲む。

 甘い。

 少しだけ違和感。

 だが気にするほどではない。

 車は走り続ける。

 数分。

 十数分。

 ——そして。

 異変は、突然だった。

 重い。

 まぶたが。

 急に、鉛のように重くなる。

 視界が揺れる。

「あれ……」

 声が、うまく出ない。

 頭がぼやける。

 思考が、まとまらない。

(……なんで)

 原因を考えようとする。

 だが、それすら遅い。

 心臓の音がやけに大きく響く。

 体の力が抜けていく。

「ちょ……」

 言葉にならない。

 隣を見る。

 渡辺。

 彼は前を見たまま、ハンドルを握っている。

 その横顔は——

 何も変わっていない。

 焦りも、驚きもない。

 ただ、予定通りに運転しているだけの顔。

 その瞬間。

 理解が追いつくよりも先に——

 恐怖だけが、はっきりと形になる。

(……これ……)

 視界が、暗くなる。

 意識が沈む。

 音が遠ざかる。

 最後に見えたのは、フロントガラス越しのぼやけた光と——

 微動だにしない、渡辺の横顔だった。

 そして。

 小南優子の意識は、完全に途切れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ