第二十五話/隣人②
小南優子は、夜の街に立つことに、もう何の抵抗も感じなくなっていた。
大久保公園の周辺。
ネオンと人のざわめきが混ざり合うその一帯は、夜になると別の顔を見せる。
観光客。
呼び込み。
同じように立つ女たち。
そして——値踏みする視線。
最初は、ほんの小遣い稼ぎのつもりだった。
大学の友人に誘われて、軽い気持ちで足を踏み入れた。
一晩で数万円。
それだけで、当時の彼女には十分すぎる理由だった。
罪悪感はあった。
最初の一度目は、終わったあとに吐いた。
二度目は、帰り道で泣いた。
三度目には、何も感じなくなっていた。
人間の順応は、恐ろしいほど早い。
そして何より——
金。
それはあまりにも簡単に手に入った。
労働でもなく、努力でもない。
ただそこに立ち、選ばれるだけ。
それが、彼女の中にあった“境界線”を、音もなく壊していった。
気づいた時には、もう戻れなかった。
優子の場合、客の多くは外国人観光客だった。
英語が話せる。
それは、この場所では明確な武器だった。
片言の日本語しか話せない客に対して、流暢な英語で応じる。
それだけで、安心感を与えられる。
そして同時に、価格も上げられる。
「安心」と「希少性」。
その二つを理解した時点で、彼女はもう“初心者”ではなかった。
客は選ぶものになり、交渉は“作業”になった。
笑顔も、声色も、すべてが計算されたもの。
そこに“自分”はいなかった。
リスクも理解しているつもりだった。
性病。
暴力。
トラブル。
周囲の話も聞いているし、自分なりに対策もしていた。
だが。
それらはすべて、“目に見える危険”だった。
本当の代償は、別の形でやってくる。
それに気づく機会は、これまでなかった。
——あの日までは。
「ヘイ」
声をかけられたのは、いつもと同じような夜だった。
優子は振り向く。
そこにいたのは、日本人の男だった。
三十代前半くらい。
清潔感のある服装。
観光客ではない。
珍しい。
だが、それだけだ。
優子はすぐに“客かどうか”を判断する。
目線。距離。話し方。
男は、少しだけ周囲を気にするような仕草を見せたあと、口を開いた。
「ちょっと変わった話なんだけど」
その時点で、優子の中に小さな警戒が生まれる。
だが同時に——興味もあった。
「顔にモザイクを入れるから、動画を撮らせてほしい」
一瞬、理解が遅れる。
動画。
つまり、アダルトビデオ。
昔の彼女なら、その時点で笑っていた。
冗談でしょ、と。
あるいは軽くあしらって、その場を離れていた。
だが今は違う。
優子は男を観察する。
焦っていない。
押し付けてこない。
どこか“慣れている”雰囲気。
「いくら?」
自然と、その言葉が出た。
男——渡辺は、少しだけ口元を緩める。
「一本、十五万」
空気が、一瞬止まったように感じた。
頭の中で、計算が走る。
今の仕事。
一晩の収入。
時間と労力。
——割が違う。
「海外の配信サイトを使う。メンバーシップ制だから、流出のリスクはかなり低い」
説明は簡潔だった。
だが要点は押さえている。
「身元はバレない」
その一言が、決定的だった。
優子の中の警戒心が、少しずつ緩んでいく。
完全ではない。
だが、“検討する余地”が生まれる。
「すぐじゃなくていい。まずは連絡先だけ」
渡辺はそう言って、スマートフォンを取り出す。
表示されたのは——Telegram。
匿名性の高いアプリ。
それもまた、優子の警戒を下げる要素になった。
(……悪くない)
そう判断するのに、時間はかからなかった。
ただし、そのまま乗るほど甘くもない。
優子はわざと少し考える素振りを見せる。
間を取る。
そして、条件を吊り上げる。
交渉。
それは彼女にとって、すでに日常の一部だった。
数回のやり取り。
駆け引き。
引いて、押して。
最終的に提示された額は——十八万円。
(……勝ち)
内心でそう思った。
相手は余裕がある。
つまり、まだ引き出せる。
そう判断していた。
そして今日。
約束の日。
優子はいつもの場所に立っていた。
大久保公園の前。
見慣れた風景。
だが今日は、少しだけ違って見えた。
やがて、一台の車がゆっくりと近づいてくる。
停車。
窓が下がる。
「小南さん?」
渡辺だった。
優子は軽く頷き、助手席に乗り込む。
車内は清潔だった。
特に違和感はない。
むしろ、安心感すらある。
「じゃあ、行こうか」
エンジン音。
車が動き出す。
夜の街を抜けていく。
優子は窓の外をぼんやりと見ていた。
少しだけ高揚している。
新しい“仕事”。
しかも高額。
悪くない。
そう思っていた。
「これ、どうぞ」
渡辺が差し出したのは、ペットボトルの飲み物だった。
未開封。
コンビニでよく見るもの。
優子は一瞬だけ考える。
だが。
(大丈夫でしょ)
その判断は、あまりにも軽かった。
キャップを開ける。
一口。
喉が乾いていたこともあり、そのまま数口飲む。
甘い。
少しだけ違和感。
だが気にするほどではない。
車は走り続ける。
数分。
十数分。
——そして。
異変は、突然だった。
重い。
まぶたが。
急に、鉛のように重くなる。
視界が揺れる。
「あれ……」
声が、うまく出ない。
頭がぼやける。
思考が、まとまらない。
(……なんで)
原因を考えようとする。
だが、それすら遅い。
心臓の音がやけに大きく響く。
体の力が抜けていく。
「ちょ……」
言葉にならない。
隣を見る。
渡辺。
彼は前を見たまま、ハンドルを握っている。
その横顔は——
何も変わっていない。
焦りも、驚きもない。
ただ、予定通りに運転しているだけの顔。
その瞬間。
理解が追いつくよりも先に——
恐怖だけが、はっきりと形になる。
(……これ……)
視界が、暗くなる。
意識が沈む。
音が遠ざかる。
最後に見えたのは、フロントガラス越しのぼやけた光と——
微動だにしない、渡辺の横顔だった。
そして。
小南優子の意識は、完全に途切れた。




