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蛇の目/美食家  作者: ふゆはる


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第二十四話/足掻くもの

 ビニール越しのその人影は、最初はただ“そこにある”だけの存在だった。

 だが次の瞬間——

 それは、突然動いた。

 ガンッ。

 鈍く、硬い音が空間に響く。

 人影が、何かにぶつかったのだと分かる。

 次いで、激しい動き。

 ビニールが大きく歪み、光が乱れる。

 バサッ、シャリッ——と、覆われた壁面が擦れる音が連続する。

 隣人が暴れている。

 その事実が、遅れて沙也加の中に落ちてきた。

 腕を振り回しているのか、足を蹴りつけているのか。

 はっきりとは見えない。

 だが、必死さだけは伝わってくる。

 何かを壊そうとしている。

 ここから出ようとしている。

 その衝動だけが、歪んだ輪郭の中に鮮明にあった。

 ガン、ガン、ガン——

 同じ場所を何度も叩いている。

 呼吸が荒い。

 声も、確かに出ている。

 だがそれは、ビニールと壁に吸われて、こちらには届かない。

 形だけが伝わる。

 叫んでいる。

 助けを求めている。

 否定している。

「こんなはずじゃない」と。

 沙也加は、それをただ見ていた。

 体は動かない。

 動かそうとも思わない。

 ただ、目だけが、ゆっくりとその動きを追っている。

 ——違う。

 ふと、そんな感覚が浮かぶ。

 二週間前の自分。

 あれと同じだ。

 叩き、叫び、拒絶する。

 まだ“現実を否定している段階”。

 だが。

 それがどれほど無意味かを、沙也加はすでに知っている。

 隣人の動きは、しばらく続いた。

 だが、長くは続かなかった。

 ガン、という音が次第に弱くなる。

 間隔が空く。

 動きが鈍る。

 呼吸がさらに荒くなり、やがてそれすら不規則になる。

 そして——

 止まる。

 ぴたりと。

 音が消える。

 動きが消える。

 ただ、荒い呼吸だけが、かすかに残る。

 その呼吸も、徐々に落ち着いていく。

 諦め。

 あるいは理解。

 そのどちらかに至ったのだと、沙也加にはわかった。

 同じだからだ。

 同じ過程を通ってきたから。

 抵抗は、意味を持たない。

 この空間は、それを許さないようにできている。

 体が壊れるだけだ。

 それに気づいた時、人は静かになる。

 隣人は、今まさにそこに到達した。

 完全な静寂。

 先ほどまでの暴力的な動きが嘘のように、空間は再び閉じる。

 だが。

 それは“元の静けさ”ではない。

 何かが変わっている。

 確実に。

 沙也加の目が、わずかに動く。

 ビニール越しの人影。

 それが、ゆっくりとこちらを向く。

 動きは小さい。

 だが確実に、“意識している”動きだった。

 気づいたのだ。

 こちらの存在に。

 沙也加は、瞬きをする。

 その動作さえ、どこか遅れている。

 頭の中は、相変わらず濃い霧に覆われている。

 だが、その奥で——

 ゆっくりと、思考が形を取り始める。

(……いる)

 単純な認識。

(……人)

 それが、自分以外の存在であること。

(……同じ)

 そこまで辿り着くのに、時間がかかる。

 だが、一度繋がると、それは崩れない。

 隣人もまた、同じ状態にある。

 閉じ込められ、弱らされ、管理されている。

 その事実が、静かに確定していく。

 向こうも、同じようにこちらを見ている。

 焦点の合わない目。

 だが、その奥には確かに“認識”がある。

 こちらがいる、と。

 沙也加の喉が、わずかに動く。

 何かを言おうとしたのかもしれない。

 だが声は出ない。

 出す意味も、うまく見つからない。

 言葉が、組み立てられない。

 代わりに、ただ見ている。

 隣人も、見ている。

 ビニール越しに。

 歪んだ光の中で。

 二つの存在が、ただ互いを認識している。

 それだけ。

 だが、その“それだけ”が、ここでは異様な意味を持つ。

 孤独ではない。

 だが、共有できるわけでもない。

 触れられない。

 声も届かない。

 ただ、いることだけが分かる。

 沙也加の中で、ゆっくりと考えが巡る。

(……どうして)

(……この人も)

 断片的な問い。

 答えは出ない。

 だが、仮定だけは浮かぶ。

(……同じ)

(……連れてこられた)

(……同じように)

 その思考は、途中で途切れながらも、確実に同じ結論へ向かう。

 “自分と同じ境遇にいる”

 それ以上でも、それ以下でもない。

 隣人の指が、再びわずかに動く。

 ビニールに触れる。

 シャリ、と小さな音。

 その動きは、先ほどのような暴力的なものではない。

 むしろ、確認するような。

 そこに“壁がある”ことを、改めて確かめるような。

 そして——

 ゆっくりと、その手が下がる。

 諦めたのだ。

 完全に。

 沙也加は、その様子を見ていた。

 どこか、既視感のような感覚。

 自分が通ってきた道。

 今、目の前で再現されている。

 その事実が、妙に現実味を持って迫ってくる。

(……同じことを考えてる)

 ふと、そんな思いが浮かぶ。

 根拠はない。

 だが、確信に近い。

(……ここから出られない)

(……どうしようもない)

(……終わり)

 その結論に至るまでの流れが、手に取るように分かる。

 自分がそうだったから。

 隣人もまた、同じようにその結論に辿り着いたはずだ。

 視線が、再び交差する。

 ビニール越しに。

 何も言わない。

 言えない。

 だが、その沈黙の中に、奇妙な共有があった。

 理解。

 絶望。

 そして——

 わずかな、確認。

 “ここにいるのは、自分だけじゃない”

 それだけが、残った。

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