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蛇の目/美食家  作者: ふゆはる


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第二十三話/隣人

 沙也加が拉致されてから、二週間が経っていた。

 時間は、ここでは意味を持たない。

 外界と切り離されたこの場所では、朝も夜も区別がつかない。

 小さなログハウス――本来なら木の温もりがあるはずのその空間は、完全に異質なものへと変わっていた。

 壁も、床も、天井も。

 すべてが分厚い透明のビニールで覆われている。

 内側から無理やり貼り付けられたそれは、ところどころに空気の歪みを含み、光を鈍く反射していた。

 木材の木目はかろうじて透けて見えるが、その自然な質感は完全に殺されている。

 代わりに支配しているのは、“隔離”の気配だった。

 ビニール越しに漂う、甘ったるい薬品臭。

 アルコールと、消毒液と、どこか腐敗に似た匂いが混ざり合っている。

 室内は狭い。

 本来は一人用の簡素な山小屋だろう。

 だが今は、その中央に薄いマットと簡易ベッド、点滴スタンド、そしていくつかの医療器具が置かれているだけの“処置室”になっていた。

 窓はある。

 だがそこにもビニールが幾重にも重ねられ、外の景色はほとんど見えない。

 わずかに光の変化が透けるだけで、それが昼なのか夜なのかも判断できなかった。

 静かだ。

 風の音すら、ほとんど入ってこない。

 まるで世界から切り取られた、小さな袋の中に閉じ込められているようだった。

 その中央で、沙也加は横たわっている。

 体は、すでに別物だった。

 二週間前の自分とは、明らかに違う。

 頬はこけ、腕は細く、皮膚の下の骨の輪郭がはっきりと浮き出ている。

 腹部は不自然に平坦で、呼吸のたびにわずかに上下するだけ。

 喉は常に渇いている。

 だが水を飲んでも、満たされる感覚はない。

 口の中には、いつも人工的な甘さが残っている。

 栄養剤。

 それが、彼女に与えられる“食事”だった。

 決まった間隔で口に流し込まれる液体。

 そして腕から落ち続ける点滴。

 生きるためではない。

 生かされている、という感覚も、もうない。

 ただ、“状態を維持されている”。

 そんな感覚だけが、ぼんやりと残っていた。

 思考は遅い。

 何かを考えようとすると、途中で霧の中に沈む。

 言葉が繋がらない。

「ここはどこか」

「どうしてこうなったのか」

「逃げないといけない」

 そうしたはずの思考は、すぐに途切れる。

 代わりに残るのは、感覚だけ。

 だるい。

 寒い。

 喉が渇く。

 トイレに行きたい。

 それの繰り返し。

 最初の頃は、抵抗した。

 暴れ、叫び、扉を叩いた。

 だがこの狭い空間では、そのすべてが虚しかった。

 ビニールに覆われた壁は音を吸収し、外へは何も届かない。

 そして何より——

 体がついてこない。

 糖尿病の症状。

 異常な喉の渇き。

 止まらない多尿。

 体重の急激な減少。

 動くたびに、体力が削られていく。

 やがて彼女は理解した。

 抗うこと自体が、自分を早く壊す行為だと。

 だから今は、ただ横になっている。

 目は半開きのまま、天井のビニール越しにぼやけた光を見ている。

 その時——

 ビニールが擦れる音がした。

 シャリ……と、柔らかく、しかし不快な音。

 扉が開く。

 ビニールで覆われたその扉は、開くたびに内側の空気をわずかに揺らす。

 入ってくるのは、矢野。

 いつもと同じ。

 特別な格好はしていない。

 だが手には必ず何かしらの器具を持っている。

 今日は小さなケースと、注射器。

 彼は無言で沙也加に近づく。

 視線は、まるで“観察対象”を見るようだった。

 感情は薄い。

 だが、興味はある。

 それが伝わってくる。

「……順調だな」

 軽く呟く。

 沙也加は反応しない。

 できない。

 矢野は彼女の腕を取り、点滴の状態を確認する。

 針の刺さった皮膚、浮き出た血管、乾いた肌。

 それらを一つ一つ確認し、満足そうに頷く。

「いい反応だ」

 独り言のように言う。

 その言葉の意味はわからない。

 ただ、自分が“何かに使われている”という事実だけが、ぼんやりと存在していた。

 矢野はケースを開き、中から薬剤を取り出す。

 透明な液体。

 それを注射器に吸い上げ、点滴ラインに接続する。

 ゆっくりと押し込む。

 体の中に、冷たいものが流れ込んでくる。

 その感覚だけが、妙に鮮明だった。

「……あと少しだな」

 ぽつりと呟く。

 その時——

 ガタン。

 鈍い音が、すぐ隣から響いた。

 沙也加の目が、わずかに動く。

 矢野の手も一瞬止まる。

 そして——

 口元が、わずかに歪む。

「来たか」

 小さな声。

 彼は立ち上がる。

 沙也加を一瞥し、扉へ向かう。

 だが開ける前に、振り返る。

「隣、使う」

 それだけ言う。

 説明ではない。

 ただの事実の提示。

 そして扉が開き、彼は出ていった。

 再び、ビニールが擦れる音。

 そして閉まる音。

 静寂。

 ——だが、違う。

 今までの静けさとは違う。

 すぐ隣。

 壁一枚向こう。

 いや、正確にはビニール越しの空間。

 そこから音がする。

 引きずる音。

 ドサッ、と何かが落とされる音。

 そして——

 呼吸。

 荒く、浅い呼吸。

 生きている。

 誰かがいる。

 沙也加の意識の奥で、何かがわずかに浮上する。

 視線が、ゆっくりと横へ向く。

 ビニールの壁。

 その向こう側。

 ぼんやりと、人影が見える。

 光が歪んでいるせいで輪郭ははっきりしない。

 だが確かに——

 人だ。

 横たわっている。

 手が動く。

 弱々しく、わずかに。

 指先が、ビニールに触れる。

 シャリ、と音がする。

 その動きは、ぎこちなく、力がない。

 沙也加は、じっとそれを見る。

 頭はまだ重い。

 思考は遅い。

 だが、それでも理解する。

 “自分と同じだ”

 その人影が、わずかに顔をこちらへ向ける。

 ビニール越しに、目が合った——気がした。

 焦点の合っていない目。

 乾いた唇。

 何かを言おうとしている。

 だが声は届かない。

 ビニールが、すべてを遮断している。

 それでも。

 口が動く。

 かすかに。

「……たす……」

 音にはならない。

 だが、形だけはわかる。

 助けて。

 その言葉。

 沙也加の胸の奥で、何かがわずかに揺れる。

 それが恐怖なのか、共鳴なのか、あるいは——

 まだわからない。

 ただ一つだけ確かなのは。

 ここにはもう、“一人ではない”ということだった。

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