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蛇の目/美食家  作者: ふゆはる


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第十九話/絶望

 意識が浮かび上がる。

 暗い水の底から、ゆっくりと水面へ引き上げられるような感覚だった。

 重い。

 体が、鉛のように重い。

 瞼を開けようとするが、うまくいかない。

 視界はぼやけ、光が滲んでいる。

「……ぅ……」

 かすれた声が漏れた。

 その瞬間、喉に違和感が走る。

 ——何かが、入っている。

 反射的に吐き出そうとするが、うまくいかない。

 口の奥に異物が押し込まれている感覚。

「……っ、ん……っ」

 息が浅くなる。

 ようやく瞼が開く。

 白。

 天井は白い。

 だが病院のような清潔さではない。

 どこか湿った、鈍い白。

 鼻を突くのは、微かな薬品の匂いと——

 土のような、生臭い匂い。

 視線を動かす。

 ぼやけた視界の中、ゆっくりと輪郭が浮かび上がってくる。

 ビニール。

 壁一面が、半透明のビニールシートで覆われている。

 天井も、床も。

 まるで簡易的に作られた温室のような空間。

「……なに……」

 声を出そうとして、再び喉の違和感に気付く。

 口の中に、チューブ。

 透明な管が、無理やり咥えさせられている。

 そこから何かが流れ込んでくる感覚。

 胃の奥に、じわじわと液体が落ちていく。

 視線を下げる。

 腕。

 動かない。

 ——拘束されている。

 ベッド。

 簡易的な鉄製のフレーム。

 その上に自分は横たえられ、手首と足首がしっかりと固定されている。

 革製のベルト。

 逃げられない。

「……っ!」

 体を捩る。

 だがほとんど動かない。

 その時、腕に鋭い違和感が走った。

 針。

 点滴。

 透明なチューブが腕から伸び、スタンドに繋がっている。

 その中を、透明な液体がゆっくりと流れている。

 滴る。

 一定のリズムで。

 ぽた、ぽた、と。

「……っ、……!」

 呼吸が乱れる。

 状況が理解できない。

 どこだ。

 何が起きている。

 どうして——

 その時。

「起きたかね?」

 声。

 静かで、落ち着いた声。

 聞き覚えがある。

 沙也加の心臓が強く跳ねた。

 足音が響く。

 コツ、コツ、と。

 ゆっくりと近づいてくる。

 逃げようと体を動かす。

 だが拘束はびくともしない。

 視界の上方に、影が差す。

 男が立っている。

「……」

 矢野だった。

 夜のトー横で見ていた顔。

 だが今は違う。

 どこか、冷たい。

 人間の体温を感じさせない表情。

 無機質な目。

「……っ!!」

 沙也加は叫ぼうとする。

 だが声にならない。

 チューブが喉を塞ぎ、言葉を奪う。

 矢野はそれを静かに見下ろしていた。

「安心したまえ」

 穏やかな口調。

 まるで本当に安心させるような声。

 だがその内容は、あまりにも異質だった。

 矢野は手に何かを持っていた。

 細長い。

 透明な筒。

 針。

 それをゆっくりと、沙也加の目の前に掲げる。

「君のバッグからこれを見つけたよ」

 インスリン注射器。

 その瞬間。

 沙也加の思考が一気に現実へ引き戻された。

(……バレた)

 自分が何者か。

 何を抱えているか。

 ——一型糖尿病。

 幼い頃から付き合ってきた病気。

 毎日のインスリン。

 血糖値の管理。

 それがなければ生きていけない体。

 矢野はその注射器を指で転がしながら言った。

「君は凄くいい」

 ゆっくりと、言葉を選ぶように。

「僕にとって理想だよ」

「……っ!!」

 沙也加は激しくもがく。

 ベッドが軋む。

 拘束具が鳴る。

 だが外れない。

 矢野はその様子を見て、わずかに口元を歪めた。

「心配いらない」

 穏やかな声。

 だがその目は笑っていない。

「君は今から、ゆっくりと僕の理想の体に作り替えていく」

 その言葉の意味が理解できない。

 いや、理解したくない。

「……っ……!」

 涙が滲む。

 呼吸が荒くなる。

 矢野は続けた。

「そうして——」

 一歩、近づく。

 顔が近い。

 距離が近すぎる。

 逃げ場がない。

「大事な物の母になるんだ」

 その言葉は、あまりにも静かに落ちた。

 だが意味は、恐ろしく重かった。

 沙也加の体が震える。

 本能が叫んでいる。

 危険。

 理解不能な危険。

 矢野はゆっくりと点滴スタンドを指差した。

「点滴はね、僕のオリジナルブレンドだ」

 どこか誇らしげに言う。

「ブドウ糖、カリウム、抗生物質」

 指折り数えるように。

「通常なら害があるものじゃない」

 微笑む。

「だから安心したまえ」

 安心。

 その言葉が、これほど空虚に響くことはなかった。

 沙也加の体に流れ込んでいるもの。

 それが何を意味するのか。

 理解が追いつく。

(……ブドウ糖)

 血糖値。

 上がる。

 インスリンがなければ——

 矢野はさらに続ける。

「食事は申し訳ないが、口からは無理だ」

 沙也加の口のチューブを軽く叩く。

「だから、栄養をたっぷりと盛り込んだものをここから与える」

「……っ……」

 胃の奥に流れ込む感覚。

 それが急に恐ろしくなる。

 矢野は一度言葉を切った。

 わずかな沈黙。

 そして——

 静かに言った。

「但し」

 その一言で、空気が変わる。

「君にとっては、この点滴は毒になる」

 断定。

 迷いのない声。

 沙也加の目が見開かれる。

「それでもすぐには死なない」

 ゆっくりと。

 丁寧に説明するように。

「ただ、糖尿病の合併症を発症して」

 少し首を傾げる。

「静かに息を引き取る」

 淡々とした口調。

 まるで事実を述べているだけのように。

「苦しむことは無い」

 そして最後に、優しく言った。

「安心することだ」

 ——安心。

 その言葉が落ちた瞬間。

 沙也加の中で、何かが完全に崩れた。

 涙が溢れる。

 止まらない。

 声にならない叫び。

 体を捩る。

 逃げようとする。

 だが動かない。

 どこにも行けない。

 ここは——

 檻だ。

 そして目の前の男は——

 人間ではない。

 矢野はその様子を静かに見つめていた。

 観察するように。

 記録するように。

 やがて満足したように頷くと、踵を返した。

 足音が遠ざかる。

 コツ、コツ、と。

 やがて消える。

 残されたのは——

 湿った空気と、

 機械的に滴る点滴の音。

 ぽた、ぽた、ぽた——

 その一滴一滴が、

 確実に彼女の命を削っていく音だった。

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