第十八話/水森沙也加
女の名は 水森沙也加。
年齢は二十三。
地方から東京に出てきて三年目だった。
最初は普通の生活をしていた。
アルバイトをしながら、都会の暮らしを楽しむ。そんな、ごくありふれた若者の生活だった。
だが、いつからか生活の中心は別のものへと変わっていた。
“推し”。
地下アイドル。
配信者。
ライブ。
チェキ。
遠征。
グッズ。
最初は軽い気持ちだった。
だが気づけば——
生活のほとんどがそこに吸い込まれていた。
「あと一回ライブ行きたい」
「このグッズは限定だから」
「チェキ券もう一枚だけ」
そうやって気付けば金が消える。
最初は貯金を使った。
次はクレジットカード。
そして、ある日。
彼女はトー横に立っていた。
新宿東宝ビルの横。
ネオンに照らされた広場。
若者たちが集まり、スマホを見て、笑い、騒ぐ場所。
そして夜になると——
別の人間も集まる。
男。
女。
金。
沙也加は最初、その光景を遠くから見ていた。
「……」
胸の奥がざわつく。
嫌悪感もあった。
恐怖もあった。
だが同時に、現実的な計算も浮かんでいた。
二時間。
数万円。
推しの遠征費が一回で出る。
「……」
何日も迷った。
何度もトー横を通った。
そしてある夜。
ついに声をかけられた。
「ホテル?」
三十代くらいの男だった。
沙也加はしばらく黙っていた。
だが結局、頷いた。
「……二万」
男は少し考えてから言った。
「いいよ」
それが始まりだった。
最初の頃、罪悪感は確かにあった。
ホテルのシャワーを浴びながら、何度も思った。
「私、何してるんだろ」
だが帰り道、財布の中の札束を見る。
すると——
その罪悪感は少しずつ薄れていった。
お金は現実を変える。
ライブに行ける。
推しに会える。
チェキが撮れる。
その喜びが、罪悪感を上書きしていく。
そして、もう一つ。
沙也加は気付いた。
自分は性の快楽を嫌いではない。
むしろ、嫌いではなかった。
それが彼女の警戒心をさらに鈍らせた。
週末ごとに知らない男に抱かれる。
最初は緊張していた。
だが回数を重ねるうちに慣れていった。
やがて——
警戒心そのものが消えていった。
そんな頃だった。
矢野と名乗る男が現れたのは。
最初の印象は、普通だった。
三十代後半くらい。
地味な服装。
眼鏡。
会社員のような雰囲気。
だが違ったのは——
金払いだった。
「いくら?」
沙也加が言うと、
矢野は静かに言った。
「相場っていくら?」
「二万くらい」
矢野は一瞬考えたあと、こう言った。
「五万でどう?」
沙也加は思わず聞き返した。
「……え?」
「五万」
あまりにもあっさり言う。
「いい?」
その日から、矢野は常連になった。
金曜。
土曜。
日曜。
週末だけ現れる男。
会話は多くない。
だが、穏やかだった。
そして必ず相場より多く払う。
最初は警戒していた。
「なんでそんな払うの?」
ホテルで沙也加が聞いた。
矢野は少し笑った。
「君が気に入ったから」
「それだけ?」
「それだけ」
嘘っぽくもない。
淡々とした言い方だった。
数週間が過ぎる頃には、沙也加の警戒心は完全に消えていた。
ある日、矢野が言った。
「トー横、目立つよね」
「まあね」
「人も多いし」
「そう」
矢野はスマホを取り出した。
「連絡先交換しない?」
「LINE?」
「いや」
画面を見せる。
「テレグラム」
「なにそれ?」
「メッセージアプリ」
沙也加は首を傾げた。
「聞いたことない」
「海外でよく使われてる」
「へぇ」
矢野は笑った。
「トー横に立たなくても呼べるよ」
その言葉に、沙也加の心が動いた。
「……それいいかも」
「でしょ?」
矢野は使い方を丁寧に教えた。
アカウント作成。
メッセージ。
通話。
「へぇ、便利」
沙也加は素直に感心した。
「これなら常連だけ呼べるね」
矢野は頷いた。
「そうだね」
その時、沙也加の頭に別の考えが浮かんでいた。
(もしかして……)
パパ候補。
いつか援助してくれる男。
それが見つかるまでの繋ぎ。
そう思って始めた立ちんぼ。
だが矢野は、その候補になりつつあった。
そしてある週。
土曜日の朝。
テレグラムの通知が鳴った。
矢野
『土曜日どう?』
沙也加はすぐ返信した。
『大丈夫』
しばらくして返信が来る。
『今日はトー横じゃなくて別の場所にしない?』
『どこ?』
『銀座』
沙也加は少し驚いた。
『銀座?』
『地下駐車場』
場所が送られてくる。
西銀座駐車場
『そこで待ち合わせ』
沙也加は少し考えた。
だがすぐに返信した。
『いいよ』
疑いはなかった。
むしろ——
少し嬉しかった。
当日。
銀座。
街は土曜の人混みで溢れていた。
ブランド店。
百貨店。
観光客。
沙也加はスマホを見ながら歩く。
「まだ時間あるな」
待ち合わせは夜。
少し早く着いてしまった。
その時、ふと三越が目に入った。
甘い匂いが漂う。
デパ地下。
(そうだ)
沙也加は自分でも少し驚きながら思った。
(シュークリーム買お)
理由はよく分からない。
ただ、矢野と食べたらいいかもしれないと思った。
ショーケースの前で店員が微笑む。
「いくつになさいますか?」
沙也加は少し迷って言った。
「二つ」
箱を受け取る。
なんだか少し楽しい気分だった。
待ち合わせ五分前。
沙也加は西銀座駐車場のB4に降りた。
静かな地下空間。
車の音が響く。
その時——
スマホが鳴った。
テレグラム
矢野からだった。
『B4銀座三越前』
沙也加は返信する。
『今いるよ』
送信して数十秒。
一台の車が静かに近づいてきた。
黒い高級車。
ゆっくり止まる。
助手席の窓が下がる。
「こんばんは」
矢野だった。
沙也加は笑った。
「こんばんは」
「乗って」
ドアが開く。
沙也加は迷いなく乗り込んだ。
「これ」
箱を差し出す。
「シュークリーム」
矢野が少し驚いた顔をする。
「買ってくれたの?」
「うん」
「ありがとう」
車は静かに動き出す。
その時、沙也加はふと思った。
(あれ……)
夜のトー横で見る矢野と印象が違う。
腕時計。
高級ブランド。
靴。
車。
どれも高価そうだ。
(この人……)
沙也加の胸の奥に、期待が生まれる。
立ちんぼ生活が終わるかもしれない。
そんな考え。
矢野が紙袋を差し出す。
「これ」
「なに?」
「カフェ」
沙也加は受け取る。
「ありがとう」
一口飲む。
甘い。
車は地下を抜け、地上へ出た。
会話は自然だった。
いつものトー横の客とは違う。
どこか普通のデートみたいだった。
「今日はどこ行くの?」
沙也加が聞く。
矢野は少し考える。
「ドライブ」
「え、遠い?」
「少し」
沙也加は笑う。
「まあいいか」
そしてしばらくして。
ふと、違和感を覚えた。
(……あれ)
まぶたが重い。
頭がぼんやりする。
(なんで……)
沙也加は窓の外を見る。
景色が揺れている。
「……矢野さん」
声が弱い。
「ん?」
「なんか……眠い」
矢野はハンドルを握ったまま答える。
「疲れてるんじゃない?」
「かな……」
だが違う。
これは普通じゃない。
体が言うことを聞かない。
その瞬間。
沙也加の頭に、恐ろしい考えが浮かんだ。
(……まさか)
だがもう遅かった。
視界が暗くなる。
「……や……」
言葉にならない。
そして——
意識が途切れた。
数分後。
矢野は助手席を見た。
沙也加は完全に眠っている。
矢野の口元が静かに歪む。
車は高速へ向かっていた。
群馬方面。
信号待ち。
矢野は手を伸ばし、沙也加のバッグを開ける。
スマートフォン。
取り出す。
カバーを外す。
SIMカードを抜く。
信号が青になる直前。
窓を開け——
SIMを道路に投げ捨てた。
カチッ。
窓が閉まる。
アクセルを踏む。
車は夜の道路を加速していく。
群馬へ。
そしてその助手席で。
水森沙也加は、まだ眠り続けていた。




