第十七話/拉致
農場が完成して一ヶ月。
山間の空気はすでに秋の匂いを含み始めていた。
昼間でも風が冷たい日があり、木々の葉はわずかに色を変え始めている。
男はログハウスの前に立ち、しばらく空を見上げていた。
群馬の山の空は、どこまでも澄んでいる。
都市のような騒音も光もなく、ただ風と鳥の声だけがある。
「……静かだ」
独り言のように呟く。
そして振り返り、建屋を見る。
外観は目立たない。
古びた木材の色は周囲の森と溶け込み、遠目にはただの放置された山小屋にしか見えない。
だが中は違う。
男が時間をかけて整えた環境がそこにはあった。
建屋の内部はビニールシートで覆われ、湿度を保つための装置が並ぶ。
通販で取り寄せた太陽光パネルが屋根の上に設置され、電力も問題ない。
水は井戸。
電気は太陽。
人の目は届かない。
「完璧だ」
男は満足そうに頷いた。
だがこの場所はまだ未完成だった。
なぜなら——
肝心の“菌床”がないからだ。
男はポケットからスマートフォンを取り出し、ニュースを開いた。
そこには例の事件の続報が表示されていた。
群馬県山中で発見された三遺体。
警察は捜査を続けているが有力な手掛かりは無し。
男は記事を眺めながら笑った。
「……もう落ち着いたか」
報道は明らかに減っていた。
最初は連日ニュースで騒がれていた。
ワイドショーもコメンテーターも、勝手な推測を並べていた。
だが日本のニュースは長く続かない。
新しい事件が起きれば、すぐにそちらへ移る。
人は忘れる。
それを男はよく知っていた。
「そろそろいい頃だな」
スマートフォンをポケットに戻し、ログハウスの中へ入る。
壁に掛けられた地図。
そこには赤い印がいくつも付いていた。
東京。
特に新宿周辺。
男はその地図を眺めながら指を動かす。
「ここ……」
指が止まったのは、
新宿東宝ビル周辺。
トー横。
ニュースでも何度も見た場所だ。
夜の街。
若者。
家出少女。
立ちんぼ。
男はその言葉を思い浮かべながら、ゆっくり笑った。
「条件は揃っている」
女。
不健康。
そして——
消えても騒がれない。
「最高の狩場だ」
その日から男は東京へ通い始めた。
新宿。
巨大な街。
人、人、人。
群馬とはまるで違う世界。
ネオンが輝き、音楽が流れ、誰もが急ぎ足で歩いている。
男はその中に紛れていた。
地味な服。
黒いコート。
眼鏡。
どこにでもいる会社員のような姿。
誰も男を見ない。
それが男には心地よかった。
目的地は決まっていた。
新宿東宝ビル。
その中にあるコーヒーチェーン。
窓際の席。
そこからはトー横がよく見える。
人の流れ。
集まる若者。
夜になるほど増える女たち。
男はコーヒーを飲みながら、ただそれを眺めていた。
眼鏡のフレームに小さなカメラが仕込まれている。
録画は静かに続いている。
「……」
何時間も。
ただ観察する。
人の動き。
警備。
店員。
巡回。
すべてを記憶していく。
三日目の夜だった。
男の視線が止まった。
一人の女。
派手ではない。
だが妙に目に残る。
細い体。
少し疲れた顔。
夜になると現れ、男と話してどこかへ消える。
そしてまた戻ってくる。
男は小さく呟いた。
「……なるほど」
立ちんぼ。
間違いない。
しかも週末だけ。
金曜。
土曜。
日曜。
パターンはすぐに読めた。
男はその女をじっと見つめていた。
そして笑う。
「条件に合う」
外見。
体型。
雰囲気。
男にしか分からない基準。
すべてが一致していた。
その日、男は席を立った。
だが近づかない。
今日はやらない。
そう決めていたからだ。
カフェを出て、通りの向こうから女を観察する。
女は男たちと話し、しばらくすると一緒に歩き出す。
二時間ほどで戻ってくる。
それを何度も繰り返していた。
男はその様子を見ながら考える。
「……簡単すぎる」
警戒心がない。
それは狩る側にとって都合がいい。
だが問題が一つある。
拉致だ。
東京はカメラが多い。
どこを歩いても監視されている。
「連れ出す方法が必要だな」
男は歩きながら考える。
その時だった。
ふと、思考が止まる。
「……いや」
男の口元がゆっくり歪んだ。
「連れ出す必要はない」
その瞬間、方法が浮かんだ。
向こうから来させればいい。
それだけだ。
その次の週末。
男はトー横に立っていた。
女に声をかける。
「ちょっといい?」
女は男を見る。
「ホテル?」
「そう」
相場は知らない。
だが男は余裕のある声で言った。
「普通より出すよ」
女の目が少し変わった。
「……いくら?」
男は金額を提示した。
相場よりかなり上。
女は一瞬で頷いた。
「いいよ」
それが最初だった。
その後、男は何度も女を買った。
週末ごとに。
最初はホテル。
普通の客。
それを演じる。
女は徐々に警戒を解いていった。
「また来たの?」
ある日、女が笑った。
「気に入った?」
男も笑う。
「そうだね」
だが男の頭の中は違う。
触れている時も。
会話している時も。
浮かぶのは別のこと。
あの味。
あの記憶。
舌の奥に残る感覚。
男は思わず目を閉じた。
「……」
女が怪訝そうに見る。
「どうしたの?」
男はすぐに笑った。
「いや、なんでもない」
まだだ。
まだ早い。
自分に言い聞かせる。
そしてある日。
男は言った。
「連絡先交換しない?」
女は少し考えた。
「LINE?」
「いや」
男はスマートフォンを見せる。
「テレグラム」
「なにそれ」
「メッセージアプリ」
女は肩をすくめる。
「別にいいけど」
そうしてアカウントを交換した。
男の胸の奥で何かが鳴った。
罠が閉じる音だった。
数週間後。
男は完全に常連になっていた。
女は疑わない。
むしろ好意的だった。
「今週も来る?」
テレグラムのメッセージ。
男は返信する。
「土曜日」
それだけ。
そしてその土曜日。
男は山の農場にいた。
準備は整っている。
建屋。
湿度。
器具。
すべて。
足りないのは一つだけ。
「……もうすぐだ」
男は静かに呟く。
その週の月曜日から、落ち着かなかった。
何をしていても女の顔が浮かぶ。
食事をしても味がしない。
代わりに思い出す。
あの味。
何度も。
何度も。
何度も。
男は頭を押さえた。
「……あと少し」
カレンダーを見る。
土曜日まで、あと四日。
火曜日。
水曜日。
木曜日。
金曜日。
長すぎる。
時間が進まない。
夜、男は眠れなかった。
天井を見ながら呟く。
「早く……」
土曜日になれ。
その言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。
そして——
土曜日が来る。




