第十二話/新井由美②
新井由美、25歳。
その日も、彼女の一日は忙しく、だが充実していた。
千葉での出張を終え、資料の最終確認を新幹線の車内で済ませ、上司へ報告メールを送る。
返信はすぐに来た。
――助かった。次も頼む。
その一文が、彼女の胸を少し誇らしくさせる。
大学を卒業して三年。
営業職として入社した当初は雑務ばかりだったが、
今では小規模ながら案件を任される立場になっていた。
仕事は順調。
結婚の約束こそしていないが、
安定して交際している彼氏もいる。
未来は、少なくとも彼女の視界の中では、穏やかに続いていくはずだった。
電車を降り、改札を抜ける。
夜風が少し冷たい。
時計は二十二時五十分を指している。
スーツの右ポケットでスマートフォンが小さく震えた。
噂をすれば、だ。
画面には彼の名前。
由美は微笑みながら通話ボタンを押す。
「お疲れさま。」
彼の声が優しい。
週末の食事の約束をする。
駅前のイタリアンに行こうという話になる。
「楽しみにしてるね。」
それが、彼女の最後の穏やかな約束だった。
通話を終え、足早に帰路へ向かう。
最寄り駅から自宅までは徒歩十五分。
いつもの最短コース。
公園を抜けるルート。
街灯は少なく、夜は暗い。
だが何度も通った道だ。
危険を感じたことはない。
二十三時前。
人気はない。
足を速める。
そのとき。
向こうから誰かが歩いてくる。
暗がりの中、若い男性の輪郭。
すれ違うだけだと判断し、視線を落とし、足を止めない。
すれ違った、その刹那。
「新井由美さんですね?」
心臓が跳ねる。
振り返る。
首筋に冷たい感触。
次の瞬間、全身を電流のような衝撃が走った。
声にならない。
視界が白く弾ける。
膝から崩れ落ちる。
意識が闇に沈んだ。
――
目が覚めた。
まず感じたのは、空気の重さだった。
濃密な湿気。
生暖かい匂い。
土とカビが混ざったような臭気。
頬に張り付く湿気。
何が起きたのか理解できないまま、身を起こそうとする。
だが、動かない。
手首。
足首。
拘束されている。
視界は暗い。
わずかな光の中、輪郭が浮かび上がる。
机と椅子。
椅子に、男が座っている。
「目が覚めたかい?」
穏やかな声。
反射的に頷いてしまう。
「ここは……どこ?」
喉が震える。
男はゆっくり立ち上がる。
無言で近づいてくる。
距離が縮まる。
「しーっ。」
唇の前で人差し指が揺れる。
その瞬間、理解した。
拉致された。
どこか分からない場所。
拘束。
由美の頭の中で、生存本能が高速で働く。
叫ぶべきか。
従うべきか。
抵抗するべきか。
大人しくしていれば、命は助かるかもしれない。
男は耳元で囁く。
「ここは廃墟だ。数キロ内に人間は僕と君だけだ。」
胸の奥が凍る。
助けは来ない。
男が足首を掴む。
床を引きずられる。
由美はその瞬間、あることを悟った。
これは性目的ではない。
そう直感した。
数分後。
転がされる。
視界の先。
乾いた皮膚。
骨ばった輪郭。
ミイラ化した頭部。
時間が止まる。
そして次の瞬間、絶叫が漏れた。
悲鳴と嗚咽が混ざる。
男の影が頭上に落ちる。
「由美さん、君は一型糖尿病だね?」
意味が分からない。
恐怖の中、声を絞り出す。
「……なんで、そんなこと知ってるのよ?」
震えが止まらない。
男は静かに答える。
「それが君を選んだ理由なんだ。」
言葉は穏やか。
だが内容は狂気だ。
「それは、とても大事だ。」
「それがGood。とても良い。」
理解できない。
「口、開けて。」
首を振る。
次の瞬間、鼻を強くつままれる。
呼吸ができない。
反射的に口を開く。
そこへ、シリコンチューブが押し込まれる。
喉の奥に異物感。
涙が溢れる。
何かが流れ込む。
甘い。
濃密な甘味。
粘度のある液体。
「食べて大丈夫。毒じゃないから。」
男の声が遠くで響く。
だが由美には分かる。
一型糖尿病の自分にとって、それは毒と同じだ。
血糖値が急上昇する。
体の奥がざわつく。
チューブが固定される。
逃げられない。
甘い液体が、ゆっくりと体内へ送り込まれる。
視界の端で、ミイラ化した頭部がこちらを見ている。
未来の姿。
その可能性が脳裏をよぎる。
由美の呼吸が荒くなる。
涙と嗚咽。
男はそれを観察する。
感情のない目で。
湿った空気が、さらに重くなる。
ここから先、彼女の人生は、
時間ではなく“工程”で刻まれていく。
そしてその第一段階が、
今、静かに始まっていた。




