2. 屋根裏の台本
同じ夜、屋根裏の口論が途切れると、エメリヒが机へ紙を引き寄せた。人払いは済んでいて、ここにいるのは俺と王子、それから延長と明日の用事を整えるハーラルトだけだ。埃の匂いの中で、蝋燭の光が紙の端に揺れている。
「……じゃあ次の台本は僕が書く」
差し出された紙を受ける。細い字が行儀よく並び、声になるのを待っている。字の列を目で追っても、どの形にも声がついてこない。俺の台詞は、そこで止まった。
「字はほとんど読めない。耳でなら、覚えられる」
読めない字から逃げるように、紙を白い裏へ返す。王子の開きかけた口が、ぱくりと閉じる。俺の手も、その白さの上で止まった。侍従長がそっと紙の端を押さえる。
「……殿下は十年、白い頁の前でお声を止められてこられました。白い裏は、お避けください。今夜は読む方がここにおりますから」
表へ戻すと、エメリヒが机へ一歩寄った。小窓の下より、梯子がひとつ近い。王子は紙を俺の向きへ置き直し、机の下の膝を寄せる。
「お前、顔の貸し借りより先に言え! 字を見て黙るなら、僕と同じじゃないか! 僕が書いたものを、どうやって言うつもりなんだよ?」
「黙ってないだろ! 殿下が読めば俺が覚える。耳まで似てるか、試してくれよ。紙が駄目でも、殿下の声なら拾える」
羽根筆の先が、紙の上で止まる。同じ顔の口元が何か言いかけ、きゅっと結ばれた。エメリヒは俺をにらんだまま、声を少し下げる。
「……似てたら、困るのはお前だぞ。僕の言い方まで覚えたら、文句も移るからな」
「困るのには慣れてる。役者は、困ってからが本番だ。文句は殿下に返すから、台詞のほうを先にくれ」
羽根筆が紙を走る。エメリヒの声は高く、訂正はもっと速い。
「明日の使者の家は、父上の母方だ。父方じゃない。兄上はそこを逆に覚えてる。称号は家名より先、返事は低く切れ」
名と称号を聞き、音の順に返した。俺の文末へ、王子の声がかぶさってくる。
「声は届いても文末が違う! そんなに伸ばすな。広場の端の客を呼ぶんじゃない! 僕の台詞の終わりに、勝手に客席を足すな!」
「はは、注文が多い。殿下、もう一度読んでくれ。今度は文末を、殿下の言うとおりに切る。もう文句なら暗唱できるが、これも明日の台詞に入れるのか?」
書き足す紙の端を押さえ、王子が顔を上げた。白い手が、俺に渡す紙を離さない。
「ここは屋根裏だ! 明日の相手の名前と弱みを全部言う。覚えろ」
「分かった。役の耳で覚える。殿下、早口は構わないが、訂正する前に最後まで言わせてくれ。俺の台詞が終わるまで、そこで聞いててくれよ」
王子の唇が少し曲がる。笑ったのか拗ねたのか、蝋燭の陰では分からない。読み終えた紙を机の端へ揃えると、エメリヒは直した紙もその下へ重ねた。端がずれると、またきちんと揃え直す。
侍従長と梯子を下り、居室から別の扉で衣装小間へ移る。王子の服を脱ぐと、肩が急に軽くなった。外廊下側の戸を叩く音に、侍従長が振り返る。
「私の通行札で、裏門から侍従に案内させました。衣装の受け渡しでございます。殿下の居室は、こちらからは見えません」
戸口に侍従長を残し、座長ボードヴィンが入ってくる。乱れた栗色の癖毛が、抱えた包みの上へ落ちた。戸が閉じると、座長はその包みを俺へ押しつける。
「ヤネク、衣装を忘れていく気かい? 王宮で演技を教えるからって、おれの縫い目まで置いていくなよ」
「まだ使う。ここで稽古を続ける。あんたの縫い目がないと、立派な衣装に肩まで縛られるんだ。教える前に、俺が立ち方を忘れちまう」
座長が包みの結び目をほどきながら、鼻で笑う。
「はは、王宮も客席かい? ずいぶん肩の凝る客席を見つけたもんだね」
「客席よりでかい。床がつるつるで、立つだけで一苦労だ。足まで行儀よくしろって、床に言われてる気がする」
太い腕が馬上衣装の裾を広げた。一座の馬で重心を移すとき、膝を縛らない布の余りだ。殺陣の衣装にも、踏み込める幅が残してある。
縫い目から顔を上げた座長の、黒い笑い皺の目が俺の肩を見る。
「今度も体で覚える役かい? 一座の荷車のおまえの寝台は空けておく。継承の祝いの行事が終わるまでは王都だが、終わった翌朝には発つぞ。衣装と一緒に帰る支度もしておきな」
「今はここに残る。巡演の支度は忘れない。……寝台、勝手に荷物で埋めないでくれよ。俺の場所まで畳んで積むなよ」
「埋めるもんか。衣装の置き場と、おまえの居場所を一緒にするなよ。おまえの寝台は、おまえが戻るまでおまえのだ」
畳む布に、一座の汗の匂いが残っている。広場で浴びた声は、三の殿下、弟殿下と呼んでいた。王宮の香の中で、俺の名だけがいつもの声で響く。軽いはずの包みを、すぐには寝台へ下ろせない。ようやく包みを寝台へ置き、座長が退くのを見送る。
王子の衣装へ戻り、侍従長と執務室へ入った。磨かれた床に、裾を引く音だけが広がる。グントラムが卓に寄り、用件を運ぶ侍従は戸口に控えている。兄は俺へ椅子を勧める。
「疲れたろう、弟よ。明日の使者は父上の父方の家だ。俺が話の糸口を教えておこう。覚えておけば安心だ。初めの挨拶さえできれば、あとは俺が助けてやれる」
屋根裏で聞いた音の順を、腹の底から取り出す。あの早口が、耳に残っている。ここでは文末を低く切る。
「兄上、使者の家は父上の母方に連なる。父方ではない。その称号も家筋を示している」
兄の口が止まった。椅子に触れた手を残したまま、笑みを作り直す。
「弟よ、言い切ってよいのか? 俺は君を助けようとしている。客の前で困っては、お互いにつらいだろう? 確かめるなら、今のうちだぞ」
「侍従長、家筋を確かめ願う。私の言葉でも、兄上の言葉でも、記録に照らしてから使者を迎えよう」
侍従長が系図を開いた。紙の端を握ったまま、堅い声で読み上げる。
「殿下の仰せのとおり、母方でございます。明日の挨拶にも、こちらの記載を用いましょう」
兄と侍従が退いたあと、侍従長が扉を閉め、壁の管を開く。屋根裏の机のそばから、エメリヒの囁きが降りてきた。さっきまで高かった声が、管の口に小さく収まる。退出した兄にも座長にも、声は届かない。
「家筋だけで得意になるな。……でも、兄上の顔は見たかった。こっちも覚えろ。昼に先触れの控えを読んだ。親書は免税を続けられるかの照会だよ」
侍従長が文箱から、封のままの原本を取り出した。掌に載せたまま、俺の手元へ傾ける。
「結びをほどかず、形だけをお確かめください」
二重の結びに、指をそっと沿わせた。色も通し方も、城の包みとは違う。俺は硬い紐の重なる形を、文字の代わりに手へ残す。
「殿下、最後まで読んでくれ。返事を決めるのは殿下だ。俺はこの結びと、届ける言葉を覚える。勝手に足さないから、言い方も聞かせてくれ」
囁きを音の順に重ね、木栓を戻した。戸口に来訪の知らせがあり、兄がヴォルデマールを連れて戻ってくる。
「弟よ、明日の謁見では親書を読み上げよ。今日の調子なら、君にも任せられる。使者にも喜ばれよう。俺から弟を紹介できるのは嬉しいことだ」
兄の勧めで、侍従長が文箱ごと原本を渡す。第二王子が華奢な身体を寄せ、細い手で封へ触れた。ヴォルデマールが早口で続ける。
「僕が封まで整えておきますよ。ほんの小さな準備ですから、弟君は読むことに専念してください。面倒なことは僕に任せて」
俺は衣装の袖の中で手を開く。覚えた結びの形だけが、空いた掌に残っている。
「兄上、使者を待たせぬようにしよう。親書は謁見で開く慣いだ。封のままで保つよう願う」
戸口へ退く侍従が、廊下の暗がりで声を落とす。
「家筋まで殿下が正された。変わられた……第一王子殿下のお言葉を、三の殿下がお止めになるとは」
読めない紙の上に、運ばれていく封の影が落ちる。




