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1. 手を振るだけの役

 幕が下りても、俺の身体には客席のざわめきが残っている。終演後の閉じた楽屋で、侍従長ハーラルトが俺の顔を確かめた。王役の衣装はまだ着たままだ。白粉と汗の匂いに眉も動かさず、長い顔がすぐそばまで寄ってくる。


「明日一日、バルコニーで手を振るだけだ。口は開くな」


 鏡台へ振り返ると、化粧の残る焦茶の跳ね髪に冠の跡がある。後ろへ撫でた白髪を屈め、侍従長が金貨の袋を並べた。二袋。蝋燭の火が、袋の口で小さく揺れる。


「一日だけで、それだけ? 笑って振ればいいんだな? 俺の手に、そんな値がつくのか?」


「君は殿下と瓜二つでございます。お願いするのは、第三王子エメリヒ殿下の代わりでございます。似せるお芝居すら要りません。とにかく、何もおっしゃらずに」


「代わりって、なんで殿下ご本人が出ない?」


「殿下は、人前では、最初の一語で……」


 言いかけて、侍従長の口が閉じる。金貨を置いた手は、袋から離れない。


「……お顔だけ、貸してください。金貨は殿下の私財から出します。引き受けていただければ、私がお供いたします」


 袋を懐へ寄せると、王役の衣装が金貨の重みで引かれた。まだ手も振っていないのに、肩だけはもう立派な役についた気がする。


 第三王子エメリヒ殿下は、人前に出ると声が出なくなる。


 旅役者の俺が影武者(かげむしゃ)か。客席の奥まで声を飛ばすのが商売なのに、黙るほうへ値がつくとは。外套を合わせて肩を開くと、鏡の中の客席を探す琥珀の目が侍従長へ戻る。


「頭はどこまで下げる? こんなもんか? 客に顔が見えなきゃ、顔を貸した意味もないだろ?」


 腰を折る俺の衣装を、侍従長が押さえた。裾が引っ張られ、俺の礼は途中でつっかえる。


「下げすぎです! 殿下はお客様に金貨をお願いするお役ではございません! 殿下の覚え書きを読みます。礼は浅く、西の小窓が斜め上に見える位置へお立ちください」


「小窓? 客席の上に、誰か座るのか? そこへも顔を向けるのか?」


「殿下ご自身が、居室の上の屋根裏の小窓から札を出されます。札は発言を止める印です。声を求められても、礼だけで応じなさい。札に書かれた形をなぞって覚えなさい」


 差し出された紙に、五つの黒い形が並ぶ。形なら、台詞と同じで身体に入る。俺は指で一つずつなぞった。覗き込む侍従長の顔が、線を追うたびに少しずつ近づいてくる。


「……覚えが、ずいぶんお早うございます。読み上げるより先に、もう形が入るのですか?」


「台詞は一晩で入れるのが商売だ。明日の客の分も、今夜のうちに入れとく。黙る役だって、覚えるところは同じだろ」


       ◇


 翌日、春半ばの光の中を、侍従長について中央バルコニーへ出る。磨かれた床に広場の旗が映った。城の両翼が張り出して、でかい客席を囲んでいる。石の手すりの向こうで、数えきれない顔がこちらを見上げる。旗の影が足元を流れても、逃げ込む袖の暗がりはない。


 東側では第一王子グントラムが民へ手を上げる。油で撫でた金髪に光が滑り、広い肩の向こうで歓声が弾けた。手すりの下で、民衆が声を張って話す。


「国王様は国境の巡察だってよ。今日は長子様が名代だ。第二王子様も、使者を迎えに城門へ行かれたそうだ」


 広場の端で、民衆の誰かが笑った。その声も、俺の足元まで届く。


「おい、腰抜けの三の殿下まで出てるぞ。手を振るくらいならできるのかね?」


 重い衣装の下で、膝が震えた。楽屋なら床の節を見て立てる。ここでは、靴までつるつる光って、踏ん張る場所を教えてくれない。振り返った侍従長の、濃茶の疲れた目が俺を前へ押す。


「殿下、昨夜覚えられた位置へ。礼は浅くでございます」


「……承知した」


 習った位置へ身体を収める。兄王子が俺へ笑いかける。


「弟よ。たまには挨拶の一つもしてみよ」


 労わるような声だった。けれど、広場じゅうに届く高さだ。兄の言葉は俺へ向いているのに、返事を待つ顔は広場じゅうにある。


 屋根裏の小窓から、本物が紙を掲げている。


 『何も言うな』の札。


 西翼の内壁、斜め上。庇と側板が紙面を下から隠し、東の兄には裏しか見えない。昨夜なぞった五つの形だ。紙の端は、風に揺れる旗より細かく震えている。侍従長が俺の側へ寄った。


「殿下、お控えください。このままお戻りください」


 俺にしか届かない低さだ。袖の暗がりで出番を待つときのように、左手が外套を握る。札の形は、瞼の裏にも揃っている。分かっている。黙っていればいい。そう決めたそばから、下の民衆が声を飛ばす。


「殿下、こっちも見てくださいよ! せっかくなら、お顔だけでも覚えて帰ってください!」


 ざわめきが途切れた。待つ顔が、前へ前へと揃う。奥の屋台の布まで見える。幕がないだけで、声を待つ顔は舞台と同じだ。礼をして戻ればいいだけなのに、靴の先がその段取りへ向いてくれない。


 無理だ。客が待っている。


 昨夜の芝居〈王の帰り道〉、終幕で客席へ投げた台詞が腹の底へ戻ってくる。王役の肩を開き、屋根裏の紙を視界の端に残して、声を放った。


「余の声が届く者よ、顔を上げよ。今日は余も、そなたらの顔を覚えて帰る」


 広場が静まり返り、それから、割れるような歓声。


 笑みを映す兄の碧の目が動かない。俺の肩を労わるはずの手も、宙に残っている。やがて兄は手を下ろし、笑みの形を整えた。


「弟よ、今日はずいぶん張り切るではないか。無理はするな。皆、弟にも温かい声をかけてやってくれ」


 兄の手より先に、広場の奥で民衆が叫ぶ。


「弟殿下の声がここまで届いた! うちの子まで顔を上げたぞ!」


 足の裏から、歓声が這い上がってくる。舞台の床板が鳴るときと同じ震えだ。俺の名は、あれだけの声のどこにもない。外套の裾が風を受けた。侍従長が袖を引く。


「殿下、お戻りを。……今は、お願いですから、そのまま歩いてください」


       ◇


 夜、侍従長と西翼の居室へ戻り、扉を閉めて書棚奥の梯子を上がった。埃と蝋燭の熱が顔に当たる。奥の小窓の下で、伸びた焦茶の前髪が揺れた。鏡が勝手に振り向いたようだ。同じ鼻梁、同じ顎。日焼けのない俺が、背を丸めて立っている。


 侍従長が木栓の口を示す。


「伝声管(でんせいかん)でございます。机のそばは階下の執務室へ、梯子寄りの柱は謁見の間隣の控え室へ通じます」


 栓は閉じたままだ。エメリヒが制止札を握りしめ、裏返った声を張る。


「僕はあんな立派なことは言わない! やり直し!」


 俺は外套を抱えた。窓の下の白い手と、たこのある俺の左手が、同じ形に曲がっている。


「やり直しがきくのは稽古だけだ、殿下。本番は一回しかない」


「なんで勝手にあんな声を出すんだよぉ! 僕の顔で、王様みたいにやめてよ! 肩まで広げるなよ、僕の肩はあんなに偉そうじゃない!」


 白い右手が札を畳む。俺は外套を握り直し、上がった声を押し返す。


「肩は俺のだ! あの広場で黙る役は、俺にはできない。あんたの客まで待たせる気か?」


「大きいだけの声なら要らない! 届けば何でもいいわけじゃない! 札を見たなら、ちゃんと止まれよ!」


「届かなきゃ、何を言っても同じだろ!」


「同じじゃない! ……大きい声で決めるな。僕の言葉まで、勝手に決めるなよ」


 言い返す口の中に、まだ歓声の味が残っている。なのに、畳まれた札の角ばかり目についた。俺は外套を抱え直す。


「なら、殿下の言葉をくれ。覚える。俺の声に、あんたの言葉を乗せればいい。法も作法も俺には分からない。そこはあんたが知ってるだろ? 黙れって札の代わりに、次は言葉をくれないか?」


 伏せがちな琥珀の目が上がりかけ、札へ落ちた。白い手が紙の折り目を押さえる。捨てるでもなく、開くでもない。外套を放そうとして、俺の腕も止まる。


 小窓の下から動かず、王子が金貨の袋を床へ滑らせる。板を擦る音が、やけに大きい。侍従長は袋を拾い上げた。


「延長は十日以内ごとに一袋、前払いでございます。君、どうか次は、殿下の言葉だけをお話しください。私からも、お願いします」


 王子は小窓の下で膝を揃え、畳んだ札を握ったまま黙っている。胃を押さえる侍従長の手が、袋の上で止まった。侍従長が、かすれた声で言う。


「……明日も、頼む」


 台本はない。客は全員、俺を王子だと思っている。

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