第九話 開戦
午前八時。
神が告げた開戦の時間。
大通公園には、張り詰めた空気が漂っていた。
テレビ塔の前。
北海道の守護水晶が静かに輝いている。
高さは十メートルを超える、青白い巨大な結晶。
その存在感だけで、人々を圧倒していた。
周囲には警察、自衛隊、そしてBOOK所有者たち。
誰もが武器を手にし、いつでも動けるよう身構えている。
しかし――
何も起きない。
敵の姿はない。
爆発もない。
ただ風だけが、公園を静かに吹き抜けていく。
「……始まったんだよな」
健太が小さく呟く。
陽翔も守護水晶から目を離せなかった。
確かに神は言った。
午前八時。
ゲーム開始。
それなのに。
あまりにも静かだった。
⸻
やがて、一人の政府職員が前へ出る。
マイクを握り、周囲を見渡した。
「北海道政府対策本部より通達します」
公園が静まり返る。
「本日より、守護水晶の防衛体制を開始します」
背後の大型モニターに資料が映し出された。
「戦闘向きのBOOK所有者は十人一組で警備を担当していただきます」
「三時間ごとの交代制です」
「警備終了後は自由時間となります」
モニターが切り替わる。
休憩施設。
宿泊施設。
医療施設。
保護施設。
次々と案内が表示されていく。
「現在、BOOK所有者とそのご家族が安全に生活できる環境を整えています」
昨日から一睡もせず準備したのだろう。
その慌ただしさが伝わってきた。
⸻
すると職員が、小さな箱を配り始めた。
「こちらもお受け取りください」
陽翔は箱を受け取る。
中には手のひらほどの、小さなBOOKが入っていた。
「これって……ニュースでやってた」
職員が頷く。
「通信用小型BOOKです」
「BOOK所有者と、そのご家族へ優先配布しています」
香恋が興味深そうに手に取った。
「スマホみたいなもの?」
「その認識で問題ありません」
「小型BOOK同士で通話ができます」
「通信障害の影響も受けません」
「へぇ……」
健太も感心したように見つめる。
「本で電話する時代か」
陽翔は小さく笑った。
昨日まで想像もしなかった世界だった。
「緊急時には、このBOOKを通じて一斉連絡を行います」
「他県BOOK所有者の侵入を確認した場合も同様です」
「異常発生時は、直ちに招集します」
さらに職員は続ける。
「支援系、回復系、生産系BOOK所有者は、保護施設の運営へご協力ください」
「北海道全体で生き残るため、皆様の力を貸してください」
不安そうだった人々の表情が、少しだけ変わる。
まだ希望はある。
そんな空気が、わずかに広がっていた。
⸻
陽翔たちは第一警備班へ配属された。
午前八時から十一時まで。
守護水晶周辺の警備を担当する。
陽翔。
健太。
香恋。
そして七人のBOOK所有者。
十人が一定の距離を保ちながら配置につく。
「暇だな」
健太が苦笑する。
「そうだね」
香恋も辺りを見回した。
九時。
異常なし。
十時。
異常なし。
空は青く。
街は静かだった。
それでも誰一人、気を抜く者はいない。
敵が来るなら。
突然だ。
⸻
午前十一時。
交代の合図が鳴る。
「第一警備班、任務終了です」
ようやく緊張が解ける。
健太が大きく息を吐いた。
「何もなかったな」
「平和すぎて逆に怖い」
香恋も小さく頷く。
「静かすぎるよね」
陽翔は守護水晶を見上げた。
戦争は始まった。
それなのに。
まるで嵐の前の静けさだった。
嫌な予感だけが。
胸の奥に残り続けていた。
警備を終えた陽翔たちは、政府が用意した保護施設へ向かった。
札幌市内の大型ホテル。
一棟まるごと、BOOK所有者とその家族のために開放されている。
入口にはBOOK所有者が警備に立ち、館内にも複数の能力者が待機していた。
「ここまでやるんだ……」
香恋が辺りを見回す。
館内には食堂、医務室、仮眠室、保育スペース。
さらに、物資を管理する倉庫まで用意されていた。
一般の調理師や看護師に加え、生産系や支援系BOOK所有者も慌ただしく動き回っている。
「すげぇな……」
健太が思わず声を漏らした。
陽翔も静かに周囲を見渡す。
結衣と美月を預けるなら。
少なくとも今は。
ここ以上に安全な場所はない。
そんな安心感が少しだけ胸に広がった。
⸻
その時だった。
館内のテレビが一斉に切り替わる。
ロビーの大型モニター。
廊下のテレビ。
食堂の画面。
すべてが同じ映像を映し出した。
神。
昨日と同じ笑顔。
いや。
昨日以上に楽しそうだった。
館内の空気が凍りつく。
『皆様』
『ゲームを楽しんでいますか?』
誰も答えない。
神は気にも留めず笑みを深めた。
『それでは』
『経過報告です』
嫌な予感がした。
胸騒ぎが止まらない。
そして。
神は楽しそうに告げる。
『最初の脱落県が決定しました』
『埼玉県です』
館内が静まり返る。
誰も言葉を発しない。
『埼玉県の守護水晶を破壊したのは』
『群馬県です』
『群馬県へ一点加算します』
⸻
映像が切り替わる。
埼玉県。
住宅街。
駅前。
商店街。
道路。
何も変わっていない。
建物も。
車も。
信号も。
昨日までと同じ景色。
だが。
人だけがいなかった。
一人も。
誰一人として。
「……全員、死んだのか」
健太が震える声で呟く。
誰も答えられない。
映像だけが静かに流れ続ける。
⸻
さらに画面がゆっくり拡大した。
砕け散った守護水晶。
その中心に。
一本の矢が突き刺さっている。
「……矢?」
誰かが呟く。
館内がざわついた。
「どういうことだ……」
陽翔も画面を見つめる。
その時。
クロが静かに口を開いた。
『街を見ろ』
「え?」
『戦闘の跡がない』
陽翔は改めて映像を見る。
道路も。
建物も。
そのままだ。
壊れているのは。
守護水晶だけ。
『……正面から攻めた形跡がない』
クロが低く呟く。
『守護水晶だけを狙い撃ったのか』
陽翔は思わず息を呑む。
「そんなこと……できるのか」
『出来たから埼玉は落ちた』
クロは短く言った。
『その事実だけ覚えておけ』
『化け物だ』
⸻
神は満足そうに笑う。
『それでは』
『引き続きゲームをお楽しみください』
映像が消えた。
館内は静まり返る。
誰一人として動けなかった。
クロが静かに告げる。
『頭に入れておけ』
『この戦争は力比べじゃない』
『能力一つで』
『県が滅ぶ』
陽翔は窓の外を見る。
遠くに見える。
北海道の守護水晶。
あれが砕かれた瞬間。
結衣も。
美月も。
自分も。
全員が死ぬ。
その現実だけが。
胸に重くのしかかっていた。




