第四話 帰る場所
陽翔は歩き出した。
家へ。
結衣と。
美月の待つ場所へ。
さっきまで拳を握っていた右手が。
まだ少しだけ熱を帯びている。
「……。」
初めて能力を使った。
人を殴った。
今でも信じられない。
『……。』
クロは何も言わない。
陽翔の隣を。
静かに浮かんでいるだけだった。
札幌の街は。
もう朝とは別の場所になっていた。
遠くでサイレンが鳴り続ける。
救急車。
パトカー。
消防車。
赤い光だけが街を走っていた。
歩道には。
空から落ちたBOOKを抱えたまま座り込む人。
泣いている子ども。
家族を探して名前を叫ぶ人。
誰もが不安そうな顔をしている。
神が現れてから。
まだ数時間。
それだけで。
世界は音を立てて壊れ始めていた。
陽翔は歩く。
立ち止まらない。
今は。
他人を助けるよりも。
結衣と美月の無事を確かめたかった。
スマホを取り出す。
圏外。
「頼むから……。」
無事でいてくれ。
その願いだけを胸に。
陽翔は歩く速度を少しだけ速めた。
マンションが見えてきた。
陽翔の足が。
少しだけ速くなる。
見慣れた建物。
いつもなら。
何も感じない。
それなのに。
今日は。
やけに遠く感じた。
「……無事だよな。」
誰に言うでもなく。
小さく呟く。
『心配か?』
クロが隣で聞く。
「当たり前だろ。」
『そうか。』
それだけだった。
クロはそれ以上。
何も言わなかった。
陽翔はマンションへ入る。
エレベーターの扉が開く。
陽翔は乗り込んだ。
階数ボタンを押す。
扉が閉まる。
「……。」
静かな箱の中。
自分の呼吸だけが聞こえる。
今日一日で。
何度も死ぬかもしれないと思った。
それでも。
今までとは違う。
戦っている時より。
今の方が緊張している。
もし。
結衣と美月に何かあったら。
そう考えるだけで。
胸が苦しくなった。
チン。
扉が開く。
廊下へ出る。
見慣れた廊下。
見慣れた玄関。
そこまで来て。
陽翔は足を止めた。
あと少し。
扉を開ければ。
二人に会える。
それなのに。
手が動かなかった。
「……。」
一度。
深く息を吸う。
大丈夫。
きっと大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。
そして。
鍵を回す。
陽翔の胸が。
大きく脈打つ。
ガチャ。
扉を開けた。
「陽翔!」
結衣だった。
その顔を見た瞬間。
張り詰めていたものが。
一気にほどけた。
「結衣……。」
「遅いよ。」
結衣は少しだけ。
目を潤ませていた。
「電話も繋がらないし。」
「ごめん。」
陽翔は苦笑する。
「俺もずっと電話してた。」
「圏外だったね。」
「うん。」
短い会話。
それだけなのに。
陽翔は。
ようやく帰ってきた気がした。
その時。
「パパー!」
後ろから。
小さな声が聞こえた。
美月だった。
「美月!」
美月が走ってくる。
陽翔はしゃがみ込む。
その小さな身体を。
強く抱きしめた。
「パパ!」
「ただいま。」
「おかえり!」
その言葉を聞いた瞬間。
陽翔は。
目を閉じた。
「……よかった。」
小さく。
それだけを呟いた。
「え?」
結衣が聞く。
「なんでもない。」
陽翔は笑った。
美月の頭を撫でる。
温かい。
ちゃんとここにいる。
それだけで。
十分だった。
陽翔は二人を見つめる。
世界は変わった。
神が現れ。
BOOKが降り。
能力まで生まれた。
それでも。
この場所だけは。
変わっていなかった。
「中入ろ。」
結衣が言う。
「うん。」
陽翔は頷く。
玄関の扉が閉まる。
外の騒音が。
少しだけ遠くなった。
「休んでて。」
結衣が言う。
「お茶飲む?。」
「うん。」
陽翔はリビングへ向かう。
ソファ。
テーブル。
テレビ。
朝と何も変わっていない。
それなのに。
数時間前までとは。
世界そのものが違っていた。
陽翔がソファへ腰を下ろす。
美月が隣へよじ登ってくる。
「パパ、どこいってたの?」
「おしごとだよ。」
「おしごと?」
「うん。」
美月は少し考える。
「たいへんだった?」
陽翔は苦笑した。
「……ちょっとだけ。」
「そっか。」
美月はそれ以上聞かなかった。
陽翔は。
そんな美月の頭を撫でる。
結衣がお茶を持ってくる。
「はい。」
「ありがとう。」
結衣も向かいへ座った。
少しの沈黙。
そして。
結衣が口を開く。
「それで?」
「何があったの?」
陽翔は少し考える。
どこから話せばいいのか。
BOOKが降ってきたこと。
能力を手に入れた人がいたこと。
そして。
自分も。
能力を使ったこと。
全部話した。
結衣は黙って聞いていた。
時々。
驚いたように目を見開く。
けれど。
最後まで口を挟まなかった。
陽翔が話し終える。
「……っていう感じ。」
結衣はしばらく黙っていた。
そして。
「信じられない。」
「だよな。」
結衣は陽翔を見る。
「テレビで言ってた通りなんだね。」
「うん。」
陽翔は頷く。
その時。
ふわり。
陽翔の隣に。
黒いBOOKが浮かんだ。
銀色の瞳が。
結衣を見る。
「……その本。」
結衣が呟いた。
陽翔が振り返る。
「ん?」
「その黒い本。」
結衣は。
クロを指差した。
陽翔は目を見開く。
「……見えるの?」
「え?」
結衣が首を傾げる。
「見えるけど。」
陽翔はクロを見る。
クロも。
結衣を見ていた。
いつものように。
偉そうな顔をしている。
だが。
何も言わない。
「……。」
「……。」
しばらく。
三人の間に沈黙が流れる。
美月だけが。
何も知らずにテレビを見ている。
やがて。
クロが。
小さく口を開いた。
『……そうか。』
結衣の目が。
大きく見開かれる。
「……今。」
「喋った?」
陽翔が苦笑する。
「うん。」
「喋るよ。」
「いやいやいや。」
結衣が慌てる。
「本が喋るの!?」
『喋る。』
「なんで!?」
『オレに聞くな。』
「いや、あなた以外誰に聞くのよ!」
『……。』
クロが黙る。
陽翔は思わず笑った。
「仲良くなれそうだな。」
「どこが!?」
『断る。』
「なんでよ!」
「ははっ。」
久しぶりに。
陽翔は心から笑った。
数時間前まで。
世界は普通だった。
それが今では。
喋る黒い本と。
それを普通に見る妻。
ありえない状況なのに。
不思議と。
少しだけ安心できた。
美月^_^不思議そうに2人を見た。
「パパ?」
「ん?」
「だれとおはなししてるの?」
陽翔と結衣。
二人の動きが止まる。
陽翔は。
隣に浮かぶクロを見る。
美月の視線は。
そのままクロを通り過ぎていた。
「……。」
見えていない。
陽翔は少し驚いた。
結衣も同じことに気付いたらしい。
「美月。」
「なーに?」
「ここに何か見える?」
陽翔がクロのいる場所を指差す。
美月は首を傾げる。
「なにもないよ〜」
「そっか。」
陽翔は小さく頷いた。
クロも。
何も言わない。
美月は少し考えて。
また結衣の服を引っ張った。
「ママ。」
「なーに?」
「パパ、だれとおはなししてるの?」
「ふふっ。」
結衣が笑う。
「本の妖精さんとだよー!」
『おい。』
クロが反応する。
『誰が妖精だ。』
美月が目を丸くする。
「え?妖精さんどこ〜!」
結衣が笑いを堪える。
「どこだろうね〜?」
「こっちかな〜!」
美月は部屋を見回す。
「いないなぁ〜!」
『……。』
クロが黙る。
テーブルの下。
カーテンの裏。
テレビの横。
一生懸命探している。
「どこー?」
『……。』
「妖精さん?」
結衣が思わず吹き出した。
「そうね。」
「パパのところにいるのかも。」
「ほんと!?」
美月の顔が明るくなる。
「会いたい!」
『おい。いい加減にしろ。』
「ようせいさん!」
美月は嬉しそうに笑う。
クロは。
少しだけページを震わせた。
陽翔は。
そんな二人を見ながら笑った。
今日。
何度も怖い思いをした。
世界が変わった。
これから何が起こるのかも分からない。
明日。
この街がどうなっているのかも分からない。
それでも。
今だけは。
この場所にいる。
結衣がいる。
美月がいる。
そして。
黒いBOOKまでいる。
「……。」
陽翔はソファに深く身体を預ける。
ようやく。
肩の力が抜けた。
結衣が隣に座る。
「疲れた?」
「うん。」
「今日は大変だったね。」
「……そうだな。」
陽翔は窓の外を見る。
遠くで。
まだサイレンが鳴っている。
世界は。
確実に変わっている。
けれど。
陽翔はもう迷わなかった。
何が起きても。
守るものは決まっている。
結衣。
美月。
ここが。
自分の帰る場所だ。
黒いBOOKが。
静かに陽翔を見る。
『……帰る場所、か。』
陽翔は振り返る。
「何か言った?」
『いや。』
クロは。
それ以上何も言わなかった。
ただ。
家族の姿を。
静かに見つめていた。
そして。
夜が。
ゆっくりと札幌の街を包んでいった。




