第三話 契約
男の拳が振り上がる。
少女は動けない。
距離は。
あと十メートル。
届かない。
誰もがそう思った。
その瞬間。
黒いBOOKが。
陽翔の隣へ静かに浮かんだ。
銀色の瞳が。
まっすぐ陽翔を見る。
『助けたいか。』
陽翔は走る。
返事はしない。
『そのままでは届かん。』
男の拳が。
ゆっくり少女へ近付く。
陽翔は歯を食いしばった。
まだ届かない。
『選べ。』
『その娘を助けるか。』
『何もできずに終わるか。』
結衣。
美月。
頭をよぎる。
それでも。
目の前で泣いている少女を見た。
「……助けたい。」
黒いBOOKは。
小さく笑った。
『そうだろうな。』
『なら。』
『BOOK OPENと言え。』
「BOOK OPEN。」
その瞬間。
黒いBOOKが眩く輝いた。
ページが。
ひとりでに開く。
バラバラバラバラ――。
凄まじい勢いで。
ページがめくれていく。
陽翔は目を見開いた。
「なんだ……これ。」
最後の一ページで。
ピタリと止まる。
そこに浮かび上がった文字。
【我に名を与えよ】
「名前……?」
『契約に必要だ。』
クロは短く答えた。
男の拳は。
もう少女へ届こうとしていた。
考える時間はない。
「クロ!!」
『……は?』
「黒いからクロ!!」
『お前……!』
『もっとあるだろ!!』
「今それどころじゃない!!
黒いBOOKが震えた。
呆れたように目を閉じる。
そして。
小さく笑った。
『……いいだろう。』
ページの文字が。
静かに書き換わる。
【契約成立】
ドクン――。
陽翔の心臓が。
大きく脈打つ。
次の瞬間。
漆黒の光が。
世界を飲み込んだ。
風が止まる。
悲鳴が止まる。
舞い落ちるBOOKも。
男も。
少女も。
すべてが止まった。
音のない世界。
動いているのは。
陽翔だけ。
そして。
クロだけだった。
「……止まった?」
陽翔が周囲を見回す。
クロは静かに浮かんだまま答える。
『正確には違う。』
『契約が終わるまでの、ほんの一瞬だ。』
『安心しろ。』
『すぐに世界は動き出す。』
陽翔は息を呑む。
ページが。
ゆっくりと一枚めくれた。
【SランクBOOK】
《PHANTOM》
「Sランク……。」
聞いたこともない。
それでも。
その文字を見た瞬間。
“特別”だと理解した。
さらに。
ページがめくれる。
【能力】
《模倣》
「模倣……?」
『説明は後だ。』
クロは男へ視線を向ける。
『時間がない。』
『見ただろ。』
『あの男の能力を。』
陽翔は頷く。
「見た。」
『なら使える。』
「どうすればいい。」
クロは静かに告げた。
『言え。』
『TRACE。』
陽翔は小さく息を吸う。
そして。
「TRACE。」
ページが。
ひとりでにめくれた。
【対象確認】
【模倣可能】
《オーバードライブ》
身体能力を一時的に強化する加速系能力。
ドクン。
心臓が大きく脈打つ。
全身が熱い。
血液が駆け巡る。
筋肉が反応する。
視界が変わる。
止まっていた世界が。
再び動き出した。
男の拳。
少女。
迫る距離。
全てがはっきり見える。
ドォォォォォン!!
陽翔の拳が。
男の拳を受け止めた。
衝撃で。
アスファルトが砕ける。
「……っ!?」
男の目が見開かれる。
陽翔は拳を押さえたまま。
少女を見る。
「大丈夫か。」
少女は震えながら頷く。
「……逃げて。」
その言葉で。
少女は走り出した。
その瞬間。
「うるせぇぇぇ!!」
男が叫ぶ。
次の瞬間。
陽翔の身体が吹き飛んだ。
「っ……!」
アスファルトを転がる。
痛みが走る。
それでも。
陽翔はすぐに立ち上がった。
男は笑っていた。
「ははははは!!」
「すげぇ……!」
「俺には力がある!」
その顔には。
もう理性がほとんど残っていなかった。
クロが静かに言う。
『まだ戻せる。』
陽翔は男を見る。
「どうやって。」
クロは答えた。
『殴れ。』
「……え?」
『目を覚まさせろ。』
陽翔は思わず苦笑する。
「単純だな。」
クロは答えない。
ただ。
銀色の瞳で男を見る。
男が踏み込む。
《オーバードライブ》。
陽翔も踏み込む。
世界が遅く見える。
迫る拳。
陽翔は紙一重でかわす。
そのまま懐へ入り込む。
「しっかりしろ!!」
ゴッッ!!
渾身の右ストレート。
男の身体が宙を舞う。
数メートル吹き飛び。
地面を転がった。
静寂。
男はゆっくり身体を起こす。
「いてぇ……。」
その声は。
もうさっきまでとは違っていた。
周囲を見る。
壊れた道路。
怯える人々。
そして。
自分の拳。
男の顔から。
血の気が引いていく。
「俺が……。」
「俺がやったのか……。」
その場へ。
力なく崩れ落ちた。
『戻ったな。』
クロが呟く。
陽翔は倒れた男の前へ歩く。
「大丈夫ですか?」
男はゆっくり顔を上げた。
「……俺は……。」
自分の手を見る。
「何を……。」
「もう大丈夫です。」
その言葉だけをかける。
男は俯く。
「……助けてくれたのか。」
「うーん。」
陽翔は首を振る。
「止めただけです。」
その答えに。
クロの銀色の瞳が細くなる。
『……。』
陽翔は周囲を見る。
怯えた人々。
壊れた道路。
泣いている少女。
全部。
さっきまでの日常とは違っていた。
「……本当に。」
陽翔は小さく呟く。
「変わったんだな。」
クロは何も答えない。
ただ。
陽翔を見る。
『お前。』
「ん?」
『力を手に入れても。」
少し間を置く。
『何も変わらないんだな。』
陽翔は首を傾げる。
「あ……。」
「そういえば。」
自分の手を見る。
「力を手に入れたって感覚、あんまりなかった。」
『……。』
クロは黙る。
そして。
『……やはり。』
小さく呟いた。
陽翔は聞き返す。
「何か言った?」
『いや。』
クロは視線を逸らす。
『行くぞ。』
「どこに?」
『帰るんだろ。』
「そうだった。帰ろう!」
『……変なやつめ。』
クロはそう呟いた。
だが。
その声には。
ほんの少しだけ。
興味が混じっていた。
陽翔は歩く。
家族の待つ場所へ。




