第二話 家族
黒いBOOKの銀色の瞳が開く。
『幸運に思え。』
陽翔は足を止める。
『お前と契約してやる。』
「……え?」
陽翔は黒いBOOKを見つめた。
「嫌だよ。」
『…………。』
「怪しすぎるだろ。」
数秒の沈黙。
『……は?』
クロの声が低くなる。
『お前、この状況が分かっているのか?』
「分かるわけないだろ!」
「いきなり喋る本なんて怪しすぎるんだよ!」
『…………。』
クロは呆れたように息を吐く。
『勝手にしろ。』
ふわり。
黒いBOOKが宙へ浮かぶ。
「うわっ。」
陽翔が目を丸くする。
『帰るんだろ。』
BOOKは当然のように陽翔の後ろへ回った。
「いやいや。」
「付いてくるなよ。」
『………。』
「おい。無視するな!」
陽翔は厨房を出た。
静まり返った店内。
さっきまで聞こえていた。
スタッフの声。
食器の音。
笑い声。
それらは。
もう消えていた。
陽翔は入口の前で立ち止まる。
鍵を手に取る。
その瞬間。
ふと。
胸の奥に不安が広がった。
また。
ここに戻って来られるのだろうか。
明日になれば。
何事もなかったように。
いつもの日常に戻れるのだろうか。
分からない。
何も分からない。
それでも。
今は帰らなければならない。
結衣と。
美月の元へ。
カチャ。
鍵を閉める。
小さな音が。
やけに大きく響いた。
陽翔は一度だけ店を見る。
「……また来るからな。」
誰に言うでもなく。
小さく呟いた。
そして。
店を出る。
外へ出た瞬間。
陽翔は足を止めた。
札幌の街は。
もう。
いつもの姿ではなかった。
空から。
まだBOOKが降り続けている。
赤。
青。
白。
黒。
金。
色とりどりの本が。
空を舞っていた。
そして。
人々は気付き始めていた。
BOOKには。
違いがあることに。
「Dランクだ!」
誰かが叫ぶ。
一人の男が。
落ちてきたBOOKを拾っていた。
「Dランク……。」
周囲の人間が集まる。
「能力は?」
「開ければ分かるだろ!」
人々の視線が。
その一冊へ集まる。
能力はまだ分からない。
それでも。
ランクだけは理解できた。
価値がある。
手に入れるべきものだ。
なぜか。
誰もがそう感じていた。
だから。
人々は動き始める。
「俺が先に見つけた!」
「離せ!」
「これは俺のだ!」
怒声。
悲鳴。
混乱。
まだ。
神が現れてから。
一時間も経っていない。
それなのに。
世界は。
少しずつ変わり始めていた。
陽翔は歩き出す。
ただ。
家へ向かう。
結衣と。
美月が待つ家へ。
その背後で。
黒いBOOKが。
静かに浮かんでいた。
陽翔は歩き続ける。
まだ。
頭の中では整理できていなかった。
神。
BOOK。
能力。
ゲーム。
全部が現実だと言われても。
簡単に受け入れられるはずがない。
だが。
その考えは。
すぐに壊された。
道路の向こう側。
一人の男が。
青いBOOKを手にしていた。
周囲の人間が距離を取る。
男は震える手で。
本へ触れる。
「BOOK OPEN。」
次の瞬間。
青い光が男を包んだ。
風が巻き起こる。
周囲の人間が息を呑む。
数秒後。
光が消える。
見た目は。
何も変わっていない。
だが。
男はゆっくり拳を握った。
「……すごい。」
小さく呟く。
そして。
地面を蹴った。
ドンッ。
男の身体が一瞬で前へ進む。
「え……。」
周囲から声が漏れる。
普通ではない。
明らかに人間の動きではなかった。
男は笑う。
「すげぇ……。」
「こんな力が……。」
自分の身体を確認するように。
何度も手を握る。
興奮していた。
その力に。
酔っていた。
「俺なら……。」
男が周囲を見る。
「何でもできるんじゃないか?」
その表情を見て。
陽翔は背筋が寒くなる。
力を手に入れた人間が。
必ずしも正しく使うとは限らない。
男の表情だけが変わっていた。
呼吸が荒い。
瞳孔が開く。
身体が震える。
興奮している。
異常なほどに。
男は笑った。
そして走る。
止まらない。
車を飛び越え。
標識を蹴り折り。
アスファルトを砕く。
「すげぇぇ!!」
その笑顔は。
もう普通ではなかった。
男は気付いていない。
自分が壊れ始めていることに。
その時。
「きゃっ!」
少女が転んだ。
高校生くらいだろうか。
逃げようとして。
立ち上がれない。
周囲は動けない。
男が少女を見る。
そして笑った。
地面を蹴る。
ドンッ!!
少女の顔が青ざめる。
間に合わない。
誰もがそう思った。
だが。
陽翔の身体は。
もう走り出していた。
「間に合ってくれ!」
家へ帰るつもりだった。
早く帰りたかった。
結衣と美月のところへ。
それなのに。
目の前で助けを求める人を。
陽翔は見捨てられなかった。
陽翔は全力で駆け出した。
その足元で。
黒いBOOKが笑う。
『ようやくだ。』
銀色の目が細くなる。
『やっぱり。』
『お前はそういう奴だ。』
男の拳が振り上がる。
少女は動けない。
距離は。
十メートル。
届かない。
誰もがそう思った。
その瞬間。
黒いBOOKが。
陽翔の横へ浮かぶ。
銀色の瞳が。
静かに細くなる。
陽翔は前だけを見る。
『お前は。』
『自分の命より他人を優先するのか。』
男の拳が迫る。
少女の顔が青ざめる。
クロは静かに告げる。
『選べ。』
『このまま無力なまま立ち向かうか。』
一瞬。
沈黙。
『それとも。』
銀色の瞳が光る。
『俺の力を使うか。』
陽翔は黒いBOOKを見る。
「……助けられるのか?」
『ああ。』
『だが。』
『俺と契約することになる。』
陽翔は迷う。
結衣。
美月。
頭に浮かぶ。
それでも。
目の前の少女を見る。
「……分かった。」
陽翔は手を伸ばす。
「助けたい。」
その瞬間。
黒いBOOKの銀色の目が。
わずかに細くなる。
『やはり……。』
『お前はあいつと同じだ。』




