第十話 全国の怪物たち(後半)
神奈川県。
守護水晶の周囲を、一人の男が静かに歩いていた。
男は地面へ細い糸を張り、石の位置をわずかに動かし、木の枝を折っては足元へ落としていく。
一見すると何も変わっていない。
だが、その全てに意味があった。
男は最後の糸を結び終えると、小さく息を吐く。
「完璧。」
満足そうな笑みが浮かぶ。
「踏んでも死ぬ。」
「避けても死ぬ。」
少し考え、さらに笑みを深めた。
「飛んでも死ぬ。」
誰かがこの場所へ足を踏み入れる瞬間を想像しているのか。
その表情は、子供がおもちゃを前にしたように楽しげだった。
◇
宮城県。
市街地ではBOOK所有者同士の戦いが激化していた。
轟音が響き渡る。
爆炎が建物を飲み込み、衝撃で窓ガラスが一斉に砕け散る。
巻き上がった土煙が視界を覆い尽くした。
「もう駄目だ……。」
誰かが震える声を漏らす。
「あれじゃ誰も助からない……。」
その時だった。
一人の男が煙の中から静かに歩いてくる。
黒いローブ。
無表情。
男は瓦礫の前で立ち止まると、ゆっくり地面へ手を置いた。
「戻ってこい。」
静かな一言。
次の瞬間。
ゴゴゴゴ……。
地面が震え始める。
土が盛り上がり、白い腕が一本現れた。
続いて二本。
三本。
やがて骨だけになった人影が、ゆっくりと土の中から立ち上がる。
その数は一体では終わらない。
十体。
二十体。
三十体。
死人たちは何も言わず、男の後ろへ整列した。
その光景を見た誰もが息を呑む。
「……嘘だろ。」
男は振り返ることなく歩き出した。
その後ろを、無数の死者が静かに続いていく。
◇
福岡県。
巨大な会議室には数十人が集められていた。
BOOK所有者も一般人も関係ない。
全員が壇上だけを見つめている。
一人の男が椅子へ深く腰掛けていた。
「……連れてこい。」
低い声が響く。
数秒後、一人の能力者が拘束されたまま引きずられてきた。
「離せ!」
「なんで能力が使えん!」
必死にもがく男を見下ろしながら、壇上の男は静かに立ち上がる。
そして肩へ手を置いた。
「悪う思うな。」
「力は、持っとう奴が使うもんばい。」
その瞬間だった。
男の身体から黒い光が溢れ出す。
悲鳴が響く。
光は粒子となり、壇上の男へ吸い込まれていった。
やがて全てを吸い終えると、男は静かに目を閉じる。
「……これで五冊目か。」
会議室は静まり返っていた。
誰も逆らわない。
逆らえば。
BOOKそのものを奪われる。
その恐怖だけで、福岡は一人の男に支配されていた。
◇
大阪府。
豪華な屋敷。
赤い絨毯の上を、一人の男がゆっくり歩いていた。
周囲には能力者たちが並び、その視線の先では数人の女性が肩を震わせている。
男は一人を見つめ、静かに指を差した。
「今日は、お前や。」
女性の顔が青ざめる。
必死に首を振るが、誰も助けようとはしない。
男は笑った。
「誰に逆らっとんねん。」
その一言だけで空気が凍る。
能力者たちは女性を立たせ、そのまま男の後ろへ歩かせた。
屋敷の奥。
閉まる扉。
残された者たちは俯いたまま動けない。
逆らえばどうなるか。
全員が知っていた。
この屋敷では。
男の言葉だけが絶対だった。
◇
沖縄県。
青い海がどこまでも広がっていた。
波音だけが静かに響く砂浜。
一人の青年が裸足で海へ近付く。
そっと手を差し伸べた。
「おいで。」
穏やかな声。
すると海面が大きく揺れ始める。
巨大な鯨が姿を現した。
青年はまるで旧友と話すように微笑む。
「異常ある?」
鯨はゆっくり鳴き声を返す。
青年は何度か頷き、小さく笑った。
「そうか。」
「ありがとう。」
その様子を見守っていた能力者たちは言葉を失う。
青年は振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。
「慌てることない。」
「海のみんなが教えてくれるから。」
沖縄では。
海そのものが味方だった。
◇
北海道。
札幌市内。
とある倉庫には数十人のBOOK所有者が集まっていた。
全員が同じ映像を見つめている。
埼玉県消滅。
砕けた守護水晶。
そして、その中心へ突き刺さる一本の矢。
誰も口を開かなかった。
重苦しい空気の中、一人の男が静かに立ち上がる。
ガイだった。
「早いな。」
低く響く声。
「開始五時間で、一県消えた。」
誰も反論できない。
それが現実だった。
ガイは割れた守護水晶の映像を見つめたまま続ける。
「最速で二十五県の守護水晶が割れたら、どうなると思う。」
沈黙。
答えられる者はいない。
「残った県は終わりだ。」
「神は五県しか生かさねぇ。」
ゆっくりと全員を見渡す。
「守ってるだけじゃ負ける。」
その言葉が倉庫中に重く響いた。
一人の男が恐る恐る手を挙げる。
「それって……。」
喉を鳴らしながら続けた。
「人を殺すってことですか。」
ガイは迷わなかった。
「そうだ。」
即答だった。
空気が凍り付く。
だがガイは構わず続ける。
「向こうは違うのか。」
「北海道を襲わない保証があるのか。」
誰も答えられない。
埼玉県は消えた。
誰かが先に動いた。
それが全てだった。
「家族を守りたい。」
「仲間を守りたい。」
「だったら戦うしかねぇ。」
その時、一人の男が震える声で尋ねた。
「でも……相手が埼玉を滅ぼしたような化け物だったら。」
言い終わる前だった。
ガイの姿が消える。
「え……?」
男が振り返る。
そこには、すでにガイが立っていた。
誰一人。
移動した瞬間を見ていない。
ガイは男の肩を軽く叩き、静かに言う。
「知らねぇ。」
「関係ない。」
「勝つだけだ。」
その一言に、誰も息を呑んだ。
少なくとも、この場にいる全員が理解する。
ガイもまた。
十分すぎるほどの怪物だった。
やがて、一人の男が拳を握る。
「俺は行きます。」
続いてまた一人。
さらにまた一人。
覚悟を決めた者たちが次々と前へ出る。
ガイはその光景を静かに見渡し、口元をわずかに緩めた。
「オレの意思に賛同する奴を集めろ。」
「覚悟がある奴だけでいい。」
そう言って背を向ける。
そして、最後に振り返った。
「明日。」
一拍置いて、静かに告げる。
「青森を落とす。」




