パンの常識が変わる時①
昨日の夕食は、それまでの常識を覆すほど衝撃的だったのだ。ならば当然、今日の朝食にも期待してしまう。
そんな中、最初に異変に気付いたのはミルフィスだった。
「あら……これは、パンの香りかしら?」
ふわりと漂ってきたのは、小麦が焼き上がる香ばしい匂い。この街でもパン屋の前を通るとこの匂いが漂ってくる。
しかし、この世界におけるパンとは、柔らかいとはほど遠い。
水と塩と小麦粉で練ってそのまま焼いているため非常に硬く、スープに浸さなければまともに食べられない。
それが、この世界の常識だった。
だが――
「お待たせいたしました。本日の朝食をお持ちいたしました」
執事長ディケムが恭しく一礼し、朝食が運ばれてくる。
昨日の夕食のように一品ずつではなく、今朝はまとめてテーブルへ並べられていった。
家族全員が右手を胸に当て目を瞑り、食前の祈りをする。
しばらくして、目が開かれると、ディケムさんが料理の説明に移った。
「本日の朝食はレタスとトマトのサラダ、カボチャのポタージュ、ロールパン、オムレツでございます」
6人が座っているテーブルに大きなバスケットが置かれる。
そこに焼きたてのロールパンが香ばしい匂いを放っていた。
「「いただきます」」
オウカとカナメは手を合わせる。
4人は目を閉じ、右手を胸に添える。
食前の祈りを終えたミルフィスは、真っ先にそのパンへ視線を向けた。
恐る恐る、一つ手に取る。
「え!?」
その瞬間、彼女は思わず声を漏らした。
いつもの硬いパンと同じ感覚で掴んだせいで、指先が沈み込み、パンが少し潰れてしまったのだ。
――柔らかい。
それだけで、彼女には信じられなかった。
ミルフィスは慌ててパンを見つめ、試しにそっと引きちぎってみた。
「……ちぎれた?」
まるで当然のように裂けたパン。
硬いパンなら両手で力いっぱい引っ張らなければならない。
それが片手でも簡単に裂けたのである。
思わず家族へ目を向けると、父も母も兄も、皆同じように目を丸くしていた。
誰もが、この未知のパンに戸惑っている。
だがミルフィスは、すぐに気付いた。
これはスープに付ける必要はない。そう思ったミルフィスはちぎったパンをそのまま口に運んだ。
焼けた表面はパリッと香ばしく、中はもっちりとしてほのかに甘い。
「すごい……これ、本当にパンなの?」
いまだに信じられないでいた。
そして、それは西の国だけでなく、東の国の者も同じだった。
「……パンが美味しい!」
カナメはロールパンにかぶりついている。
カナメは以前、パンが嫌いだった。硬いし非力なカナメはちぎるのも一苦労。おまけに美味しくない。
オウカがミルフィスの家に遊びに行くときはもちろんついていくが、パンだけは食べたくなかった。
でも、今は違う。
カナメは目をキラキラさせながらパンを食べる。
柔らかく、ほのかに甘く感じるパンは、一瞬でカナメを虜にしたのだった。
昨日、ミルフィスが冗談半分で口にした言葉。
それが、たった一日で現実となって目の前に並べられている。
――しかも、変わったのはパンだけではない。
「このスープ、“カボチャのポタージュ”と言っていたわね。カボチャをそのまま溶かし込んでいるのかしら……とても滑らかだわ」
セラフィナは、黄金色のスープを一口含み、感心したように目を細める。
「この“オムレツ”って料理、すごいね。中がとろっとしてる! しかもパンに乗せて食べると、もっと美味しい!」
「うむ、妾が毎日食っているだし巻き卵もふわふわしておるが、こいつもなかなかいけるのう」
「だし巻き卵? そんな料理もあるのか、羨ましいな君は」
オルフェウスは目を輝かせながら夢中で頬張っていた。
そんなみんなを横目に、アルバートは唯一見慣れた料理であるサラダへと手を伸ばす。
どうせこれは、いつもの味だろう。
そう思いながら口へ運び――次の瞬間、彼の目が見開かれた。
「なっ……こ、これも違うというのか!?」
普段のサラダは塩だけで味付けされている。
だが今日かかっていたのは、見たこともない液体だった。
爽やかな酸味。
後から追いかける程よい塩味。
さらに油のまろやかさが野菜の味を引き立てている。
ただ野菜を食べるだけの料理だったはずが、まるで別物へと変貌していた。
アルバートは、手にした焼きたてのパンをまじまじと見つめた。
「まさか……本当に変えてくるとは……」
パンとは硬いもの。
スープなしでは食べられないもの。
――そんな、 この世界の常識が消えた瞬間だった。
***
さて、オーグランドさんにやってもらうもう一つの仕事に取り掛かろう。
俺は冷蔵庫からドドのガラを取り出す。
「このドドのガラを使ってブイヨンというものを作ります」
「なんだそのブイヨンとは?」
オーグランドさんの頭にハテナマークが出る。
「ブイヨンていうのは出汁の一つです。先ほど作ったフォン・ド・ギャウルのドドの骨で作ったものだと思ってください」
「なるほど、ドドの骨から取った出汁という訳か」
まず、ドドのガラを流水で軽く洗って血合いや内臓の残りを取り除く。臭みを抑えるためだ。
次に沸かしておいたお湯で3分ほど下茹でをし、その後水で洗ってアクや汚れを落とす。
「そしたら、この大きな鍋にガラと野菜を全部入れて沸かすだけです」
「ふむ、意外と工程が分かりやすいんだな。先ほどは炒めたり、骨をオーブンに入れたりしたが」
入れるものは、玉ねぎ、にんじん、セロリ、ニンニク、香草、コショウ
沸騰直前までは強火で沸かしても構わないが沸いたら弱火にする。
「グラグラ煮立てるとスープが濁ってしまうので、表面が静かに揺れる程度がちょうどいいですね」
「あ、見て、アクが出てきたよ」
横で見ていたオーグリアが指差してみせた。
「もちろん、アクもとります。そして、このまま3時間くらい煮込みます」
「さ、3時間、こちらも長いな……」
オーグランドは時計をちらりと確認する。
現在は午前8時
「昼食には何とか間に合いそうだな」
「そういうことです。昼食のスープはこいつで作ります」
フォン・ド・ギャウル、そしてブイヨンを作った俺たちは朝食を取ることにした。
「いやあ、今日は勉強になったべさ。おら、感動しちまっただよ」
コボッタさんは先ほどのパンの作り方を紙にメモしている。ぜひともものにして、美味しいパンをこの街に広めてもらいたいものだ。
「俺は昨日兄貴が作ったスープを作ってみます」
「ところで、このパンはどうするんだ?」
「そうですね。とりあえずフレンチトーストにしようと思います。あ、そうだコボッタさん」
「ん? なんだべか?」
紙にレシピを書き込んでいるコボッタさんが顔をあげた
「今から、以前焼いた硬いパンを使った料理を作るんですけど、食べていきます?」
「え!? い、いいんだべか?」
コボッタさんはちらりとオーグランドさんを見る。オーグランドさんは軽くうなずくと
「構わんだろう。これも街に良きパンを広めるための勉強だからな」
もちろん賛成してくれた。そうだ。この際だからリーンパンも教えておこう。
下働きの子に指示を出して材料を準備するように伝えておいた。
俺は冷蔵庫からギャウルの乳、生クリームから作ったバター、卵を取り出し、ボウルに卵、ギャウルの乳、砂糖を混ぜ合わせる。
「この液にパンを浸す。本当はもう少し長く漬けたいところだけど……まあ仕方ないな」
ちょうどその頃、伯爵たちの朝食が終わり、従者たちが入れ替わる時間となっていた。厨房には数人の従者が顔を出し始めている。
「後は、この浸したパンをバターで焼くだけだ」
平鍋にバターを落とすと、じゅわりと心地よい音が広がる。
かつて石のように硬かったパンは、卵液を吸い込み、驚くほど柔らかく、とろけるような食感へと変わっていた。
表面に軽く焼き色がついたところで――完成だ。
「なるほどな。よし、これは俺に任せて、お前らは先に食べててくれ」
オーグランドさんは平鍋を二つ構え、2枚同時に焼いていく。
丁度いい。フレンチトーストを焼いている間にコボッタさんと共に昼食で使うパンを教えておこう。
リッチパンは食べやすくとても柔らかいがその分コストもかかる。その為今回は手軽に作れてコストも抑えられるリーンパンを教えていくつもりだ。
まずは小麦粉、塩、水、そしてヴァイスベリーで作った酵母を入れよく混ぜてパン生地を作る。
「ふむ、その酵母ってやつを入れる以外はおらたちと同じだな。おらたちはこの後すぐに焼くだよ」
なるほど、だから焼いたパンの中身が詰まってて硬いパンになってしまうというわけだな。
「柔らかくするには捏ねた後に常温で置いておくのが大切です。そうすることによって発酵し、パンの中に空気が生まれます」
「兄貴が前日に捏ねて冷蔵庫に入れてたやつっすね。今回は外に出しておくんすか?」
「ああ、長時間の場合は冷蔵庫、すぐ作りたい場合は外に出して発酵させるんだ。このまま1時間くらい置いておきます」
丁度、俺たちの分のフレンチトーストも焼きあがったようだ。もちろんコボッタさんの分もある。
今日の俺たちの朝食はキュルティバトールとフレンチトーストにベーコンを添えて。
「「いただきます」」
そう言って手を合わせると、向かいに座るガロとオーグリアが興味深そうにこちらを見る。
「あ、それ、昨日もやっていたっすね」
「もしかしてそれって食べる前の祈りみたいなやつ?」
「そうなのです。これは食べる前にいつも言っている言葉なのです」
俺のいただきますの動作にガロとオーグリアは興味津々だ。
西の国でもいただきますの動作があり、右手を胸に当て目を閉じるというものだ。昨日ミルフィスがやっていたあれだろう。
ガロとオーグリア、さらにコボッタさんも右手を胸へ当てた。
短い沈黙のあと、3人はそっと目を開く。
そして――。
「うお! 美味えっす兄貴」
「甘くてふわふわなのです」
「すごい! 硬かったパンがふわふわね」
「ふおおお! こいつは美味いべさ!」
4人とも夢中でフレンチトーストを食べている。
「わあ、このスープ美味しい!」
「本当だ。パンもふわふわで甘い!」
従者たちも、その味にすっかり満足しているようだった。
「こいつはすげえぞ。パンも無駄にならねえし、絶対人気が出るべさ」
コボッタさんの目が燃えている。やはり彼はパン屋。パンを無駄にするのは許せないのだろう。
きっと彼なら、この街のパンを良くしてくれるはずだろう。




