西の国へ②
次の瞬間――。
まぶたを開けると、俺はすでに門の前から離れた場所に立っていた。
「……は?」
状況を理解するより早く、背後から何かがぶつかってくる。
「おう兄ちゃん、そんなとこに突っ立ってっと邪魔になんぞ」
振り返ると、悪魔のような角を持つ男が、面倒くさそうに顎をしゃくっていた。
「あ、す、すみません」
言われるがまま、慌てて足を動かす。
視線の先には、すでに先へ進んでいるオウカたちの背中が見えていた。
ふと背後を振り返ると、そこには先ほど潜ってきた門と同じものが静かに佇んでいた。
(あの門を潜って……違う場所へ来たってことか!?)
よくゲームで見るワープゲート。その存在を、まさか現実として体験することになるとは思わなかった。
「エイタ、早くするのじゃ」
「……あ、ああ、分かったよ」
俺は駆け足でオウカ達の元へと追いつく。
向こうで受け取った木札を係に差し出し、受付を通り抜ける。
そのまま少し歩くと、外の光が差し込んでくる。
――あの先が、西の国か。
「着いたぞ、ここが西の国じゃ」
「おお、ここが」
サクラノ村では見渡す限り水を張った田んぼが広がり、風が吹けば稲がさざめくばかりだった。だが今、俺たちの目の前に広がっているのは、どこまでも続く雄大な小麦畑だ。
その光景は、これまで暮らしてきた土地とは明らかに違う「別世界」を思わせる。
肌を撫でる空気も、わずかに冷たく乾いている。湿り気を帯びたあの田園の匂いとは違う、どこか軽やかな風。
――ああ、ここは本当に、別の国なんだ。
そう直感させるには、十分すぎるほどの景色がそこにあった。
「エイタ、こっちじゃこっち」
振り向くとオウカが手を振っており、近くには厩舎と馬車があった。
「この乗り馬車で館に向かうぞ」
「乗り馬車? なんだそりゃ」
「乗り馬車は、行きたい場所を言うと、そこまで乗せてくれるのです。もちろんお金はかかるのですが」
なるほど、現実世界でいうタクシーのようなものか。確かに、ここから見渡すだけでも相当な広さがある。歩きで移動していては、時間も体力もいくらあっても足りないだろう。
オウカが乗り馬車の受付で話をし金を払おうとした時だった
「おや、オウカ様ではありませんか、お久しぶりでございます」
声のした方を振り返ると、そこには「いかにも執事」といった風貌の老紳士が立っていた。
燕尾服を寸分の乱れなく着こなし、背筋は真っ直ぐに伸びている。だが、その頭には悪魔を思わせる漆黒の角が生えており、異様な威圧感を放っていた。
どうやら彼は、今まさに馬車を走らせようとしていたらしい。
「む、お主はディケムではないか」
「ん? なんだ、知り合いか?」
オウカの視線の先に立つ老紳士を見て、俺は首を傾げた。
「うむ。こやつは妾の友の父君に仕えておる執事じゃ」
すると老紳士は目を細め、こちらへ恭しく一礼する。
「これはこれは、オウカ様。ヨウコ様にカナメ様まで……。おや、そちらのお方は?」
「うむ。最近、妾の従者となったエイタじゃ」
オウカはいつもの調子で、かなり雑に俺を紹介した。
すると老紳士――ディケムは、少しも表情を崩さぬまま優雅に頭を下げる。
「お初にお目にかかります。私、ブラッドヴェイン伯爵家にて執事長を務めております、ディケムと申します」
その所作は、一切の無駄がない。
背筋は真っ直ぐに伸び、指先の動きに至るまで洗練されている。
一目見ただけで分かる。
この男は、長年にわたり名門に仕えてきた本物の執事だ。
「丁度良かったのじゃ。これから館の方へ戻るのであろう? 妾たちも乗せていくのじゃ」
「おいおい、オウカ。勝手に決めるなって……」
俺が慌てて口を挟むが、ディケムは気にした様子もなく穏やかに微笑んだ。
「ええ、もちろんでございます。多少狭くはございますが、どうぞこちらへ」
俺たちは促されるまま、馬車へ乗り込んだ。
馬車は、広大な小麦畑の広がる街道をゆっくりと進んでいく。
車内は驚くほど快適で、ほとんど揺れを感じない。龍門へ向かう途中で乗せてもらったネコタさんの馬車は、荷物の運搬を目的とした商業用だったが、こちらは人を乗せるための移動用らしい。座席には柔らかなクッションまで備え付けられており、その違いは一目瞭然だった。
「皆さま、本日はお嬢様にお会いになるため、お越しくださったのですね」
「うむ、そうじゃのう。こうして、酒も持ってきておる」
オウカは、手にしている酒瓶をポンポンと叩く。
まさか、向こうでそのお嬢様と一緒に飲むつもりなのだろうか。
そんなことを考えながら気晴らしに外へ視線を向けると、そこには先ほどの小麦畑とは異なる景色が広がっていた。
低く整えられた木々が、一定の間隔で規則正しく植えられている。その枝には、ブドウのような形をした赤紫色の果実がたわわに実っていた。
「おお、なんだあの果物は?」
ブドウのようでいて、しかし少し違う。ほんのり赤みを帯び、粒もわずかに大きい。
「ふむ、あれはブラドベリーじゃ。この国の特産品でな、ワインにも使われておる」
なるほど、現実世界で言うところのブドウに近いものか。
「お、ちょうどいいところにおるのう……少し止めるのじゃ」
オウカはディケムに合図し、ゆるやかに停車させると、自ら外へと降り立った。
道端でブラドベリーを収穫していた農民へと歩み寄ると、何やら言葉を交わし、銭を渡しているようだった。やがて彼女は戻ってくると、瑞々しいブラドベリーの房を一つ手にしていた。
「買ってきたぞ。食ってみるといい」
俺はそれを見た瞬間、息を呑んだ。
ブラドベリー――そう呼ばれるその果実は、巨峰ほどの粒の大きさを持ちながら、まるで異質な存在感を放っていた。問題はその色だ。
血を吸い上げて凝固させたかのような、赤に極めて近い紫。まるで“血の珠”とでも形容すべき、不気味な美しさを宿している。
「こいつは皮のまま食えるんじゃ」
オウカはそう言うと房から一粒もぎ取り、そのまま口へと放り込んだ。
……確かに、皮を剥けば汁が飛び散り、服を汚すのは目に見えている。ならば、丸ごといくのが合理的か。
俺も覚悟を決め、一粒を指でつまんで口へ運んだ。
見た目こそ禍々しいが――
「……んん、これは……美味いな」
思わず声が漏れた。
舌に広がるのは、甘みと酸味。その二つが絶妙に釣り合いながら、さらに皮由来のほのかな渋みが奥行きを与えている。
これはただ食べるだけの果実ではない。
ジュースにすれば濃厚な旨味が際立ち、ソースにすれば肉料理を格上げするだろう。あるいは菓子やジャムに加工しても、その潜在能力は計り知れない。
「……うまうま」
カナメは両手を忙しなく動かしブラドベリーをむしり取っては口へ運ぶ作業を、機械のように繰り返していた。
その様子を横目に、ふとヨウコへ視線を向ける。
ヨウコはというと、原本と思しき料理本を両手に抱えたまま、窓の外をぼんやりと眺めていた。まるで意識だけがどこか遠くへ飛んでしまっているかのような、上の空の表情である。
「どうした、ヨウコも食わないのか」
「……」
「……ヨウコ?」
「……はっ!? は、はいなのです!」
びくりと肩を跳ねさせ、慌ててこちらへ顔を向けるヨウコ。
どうにも様子がおかしい。馬車に乗り込んだあたりから、ずっとこんな調子だ。何かに思考を奪われているのか、上の空で落ち着きがない。
それに、彼女の腕の中には料理本が3冊。
――本来なら、一昨日クダンさんに2巻目の原本を渡したはずだ。つまり今手元にあるのは3巻目の原本のみのはずなのだが、それとは別に、印刷された1巻と2巻も抱えている。
西の国にいる幼馴染にでも持っていくつもりなのだろうか。
「どうしたんだ? さっきからずっとボーっとしてるみたいだけど」
「な、ななな、何でもないのですっ!」
……やけに顔が赤い。熱でもあるのか?
そういえば、俺が足首を怪我した時、こいつには家事を全部押し付ける形になってしまっていたな。
まさか、そのせいで無理をして風邪でも引いたんじゃ……いや、あり得るぞ!?
いかんいかん、こういう時は栄養補給だ。ビタミンを摂れ、ビタミンを。
「ほら、これ食え。いいから食っとけ」
ヨウコは首を傾げながらブラドベリーをいくつか口にする。
残りはカナメが全て食べてしまったようだ。
ディケムさんが言うには屋敷のある街まで、まだまだ時間はあるらしい。
着くまでの間は、広大な外の景色でも楽しんでおこう。




