第41話 試合開始
重久の合図が響いた、その瞬間――隼斗はすでに動いていた。
床を蹴る音すら置き去りにするような踏み込み。一息で間合いを詰め、龍馬の懐へと飛び込む。
「はっ!」
短い裂帛の気合とともに、右拳が一直線に放たれた。空気を裂き、鋭く唸りを上げながら、龍馬の顔面へと迫る。
――当たる。
そう思われた刹那。
龍馬の右手が、わずかに動いた。
次の瞬間には、隼斗の右手首が、まるで吸い寄せられるかのように掴まれていた。
「……なっ――」
驚愕する暇すらない。
龍馬はそのまま、片手一本で隼斗の体を軽々と持ち上げると、何の予備動作もなく、真後ろへと放り投げた。
宙に舞う視界。畳が一瞬で遠ざかり、次いで迫る。
だが隼斗は、空中で体を捻る。
「っと!」
両足でしっかりと着地した。衝撃を逃がしながら、低く構え直す。
「なかなか、やるじゃねえか」
軽く息を吐き、隼斗は口元を歪める。
「それにしても……。片手で俺を投げるとか、どんな力してやがる」
視線を向ける先。
龍馬は、背を向けていた。
試合開始時と変わらぬ、直立不動の姿勢のまま。まるで、何事もなかったかのように。
「……ははっ」
隼斗の笑みが、より深くなる。
「俺に背中向けたままとは、ずいぶん余裕じゃねえか」
足に力を込める。
「だがな、背後は隙だらけだぜ!」
次の瞬間、隼斗の体が弾けた。
踏み込みと同時に、左足がしなる。狙うは、龍馬の左側頭部――死角からの一撃。
だが。
龍馬は振り向かない。
ただ静かに、左腕を持ち上げる。
――鈍い衝突音。
隼斗の蹴りは、正確に受け止められていた。
「ちっ――!」
間髪入れず、隼斗は次の動きへ移る。軸足を切り替え、今度は右足を振り抜く。
標的は、反対側――右の側頭部。
風を裂く蹴撃が、鋭く迫る。
その直前。
龍馬の左手が、再び動いた。
視線すら向けぬまま、正確無比に――隼斗の足首を掴み取る。
「なっ……!」
そして次の瞬間には。
再び、空が逆転した。
龍馬はそのまま、隼斗の体を前方へと放り投げる。先ほどと同じく、まるで重さを感じていないかのような一動作だった。
宙を舞いながら、隼斗は歯を食いしばる。
(こいつ……!)
だが、動揺は動きに出さない。
空中で身を捻り、体勢を整える。
「――っ!」
再び、両足で着地する。
畳を踏みしめたその瞬間、隼斗の目には先ほどとは違う光が宿っていた。
ただの余裕ではない。
ただの強さでもない。
――底が見えない。
そんな相手を前にして、なお。
隼斗の口元は、楽しげに歪んでいた。




