厨房の熱気と王女様の食事
厨房の一角に足を踏み入れた瞬間、ぶわっと温かい湯気と香ばしい匂いに包まれた。
「うわぁ……すごい……!」
思わず声が漏れてしまう。
そこは、私が今までいた静かな洗濯場とはまるで別の世界だった。
大きな鉄鍋がいくつも並び、豪快に炎が上がっている。白いコック帽をかぶった料理人たちが、まるで戦場のように忙しなく声を掛け合いながらフライパンを振るっていた。
「おい、そこのソース煮詰めるな!」
「スープ上がったぞ、配膳急いで!」
すごい活気だ。まさにプロの厨房って感じ。
美味しそうなロースト肉の匂いや、焼きたてのパンの甘い香りが鼻をくすぐり、思わずお腹が鳴りそうになるのを必死で耐える。
いけないいけない、私は見学に来たんじゃない。お仕事をしに来たのだ。
「ええと……」
ポケットから、さっきロイさんから預かった札を取り出す。
銀色に磨かれた小さな金属プレートには、綺麗な文字で『リーゼロッテ殿下』と刻まれている。
周りのメイドさんたちを見習って、完成した料理が並べられている大きな配膳カウンターへと恐る恐る近づいた。
「あの、すみません……!」
カウンターの奥で手際よく皿を拭いていた、恰幅のいい料理人の男性に声をかける。
「ん? 新人かい? どこの受け取りだ」
「あ、これです!」
札を両手で差し出すと、男性は札を一瞥して、驚いたように目を丸くした。
「……リーゼ様のか。珍しいな、いつもは専属の侍女が取りに来るんだが」
「今日だけ派遣で任されまして……サユと申します」
「そうかい。……まあ、用意はできてるよ。ちょっと待ちな」
料理人さんは厨房の奥から、銀色に輝く立派なワゴンを押してきた。
二段になったワゴンには、色んな料理がずらりと並べられている。
「本日の朝食だ。柔らかく煮込んだ白身魚のクリーム煮と、野菜のコンソメスープ、白パン。……それから、お供の犬用の温野菜と茹で肉だ」
「犬用!?」
思わず声が出てしまった。
だって、完全に見た目が人間用の豪華な食事なのだ。
(……私のご飯より豪華では??)
一瞬、本気で落ち込んでしまった。
下働きメイドの冷え切った硬いパンとは、銀河系レベルで格差がある。
さすが王女様の朝食……いや、王女様の『愛犬』の朝食だ。
マロン用のご飯まで手抜きなしで用意されているあたり、王室の手厚さを実感する。
けれど――ふと、料理人さんが少し困ったように眉を下げた。
「……でもなぁ。ここ数日、ほとんど手をつけてもらえねぇんだよ」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。怪我をされて部屋に閉じこもってから、一口か二口齧るのがやっとでね。厨房としても心配なんだが……口に合わないのか、それともショックのせいなのか……」
寂しそうに零す料理人さんの言葉に、胸がちくりと痛んだ。
(……私のせいでもあるんだよね)
あの日、木から落ちてきたリーゼ様を受け止めたこと。
怪我をさせてしまったこと。
そして、それが側妃様に『誘拐未遂事件』として大騒ぎされてしまったこと。
幼いリーゼ様が部屋に引きこもって怯えている理由は、痛いほどよく分かる。
家族の本心が見えてしまうくらい繊細な子なのだ。城中がピリピリして、自分のせいで誰かが犯人扱いされているなんて知ったら、ご飯なんて喉を通るわけがない。
(なんとかして、少しでも元気になってほしいな……)
ワゴンに載せられたスープを見つめる。
美しく透き通ったコンソメスープ。プロの技で完璧に作られているけれど、今の弱った胃腸や沈んだ気持ちには、少しあっさりしすぎているかもしれない。
「あの……料理長さん、でしょうか?」
「ん? 俺は副料理長だが、どうした?」
「あの、もしよろしければ……スープの横に、少しだけ蜂蜜と柑橘の果汁を添えていただくことってできますか?」
「は? コンソメに蜂蜜と柑橘だと?」
副料理長さんが怪訝な顔をする。
当然だ。宮廷料理のマナーや定石からすれば、意味の分からない注文だろう。
「あ、スープに直接入れるんじゃなくて、小さな器に添えていただくだけでいいんです! 食欲がない時って、少し酸味や自然な甘みがあると喉を通りやすくなったりするので……。あと、パンにつけても美味しいかなって」
「……」
副料理長さんは腕を組み、まじまじと私を見つめた。
やってしまっただろうか。下働きの新米メイドが生意気に口を挟むなんて、怒られても文句は言えない。
慌てて頭を下げようとした、その時。
「……ふん。言われてみりゃ、姫様は普段、甘い果物が好きだったな」
副料理長さんはふっと口元を緩めると、近くの棚から小さな陶器の小瓶を取り出した。
「いい度胸だ、新入り。料理をただ運ぶだけじゃなく、食べる相手の顔を想像できるやつは嫌いじゃないぜ」
「えっ……!」
「ほらよ。厨房特製の柑橘ジャムと、蜂蜜を少し小皿に盛ってやった。ワゴンに乗せていきな」
「あ、ありがとうございます……!」
良かった! 話のわかる優しい料理人さんで本当に助かった。
「冷めないうちに届けてやりな。リーゼ様を頼んだぞ」
「はい!」
私は深々とお辞儀をして、銀色のワゴンを押し始めた。
目指すは、城の奥深くにあるリーゼ様の居室。
あの時、木陰で一緒にビスケットを食べた小さな女の子の元へ。
(待っててね、リーゼ様。美味しい朝ごはんと一緒に、会いに行きます!)
私は気合を入れ直し、滑らかに車輪を転がしながら、廊下へと踏み出した。




