幕が上がる日
Lento 1st Live『After the Applause』当日の朝、隼人は普段より少し早い時間に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日を眺めながら数秒だけ布団に残っていたが、胸の奥には既に小さな緊張があり、二度寝できるような気分ではなかった。
約4か月かけて準備してきた初めての単独公演が、今日ようやく本番を迎える。会場には5,000人が入り、有料配信でも多くの人が見る予定だが、起床して最初にやることは特別な儀式でも発声練習でもなく、顔を洗って朝食を食べることだった。
リビングへ下りると、美智子は既に朝食の準備を終えていた。父も新聞を読みながら食卓に座っており、息子が初めて単独ライブを開催する日の朝とは思えないほど、家の中にはいつも通りの時間が流れている。
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「思ってたよりは。緊張して寝られないかと思ったけど、普通に6時間以上寝たよ」
「それなら大丈夫ね。帰りが遅くなるなら連絡だけして。お父さんと私は配信で見るから、こっちのことは気にしなくていいわよ」
美智子はそれだけ確認すると、焼いたパンと卵を隼人の前へ置いた。会場へ行くわけではなく今回も自宅から有料配信を見る予定で、父も特別扱いする様子を見せず、新聞を畳んでコーヒーへ手を伸ばしている。
「父さん、今日は『夜明けの途中』も歌うから。前に一番好きって言ってたやつ」
「そうか。それなら最初から見ないとな。前より上手くなってるかもしれんが、変に格好つけて歌い方を変えるなよ」
「注文が細かいな。制作スタッフより厳しいじゃん」
父の言葉に笑いながら朝食を済ませると、不思議なほど気持ちが落ち着いてきた。大きな仕事の日でも家へ帰ればいつもの家族がいるという事実は、隼人にとって何より分かりやすい安全装置になっていた。
出発するため玄関で靴を履いていると、美智子が見送りに出てきた。前回のアニメイベントの日と同じように、彼女はライブの成功や観客の人数について何かを言うこともなく、穏やかな表情で息子を見ている。
「楽しんできなさい」
「うん。行ってくる」
短いやり取りを交わして玄関を出る。隼人は駅へ向かいながら、前回も同じ言葉をもらったことを思い出していた。
成功させてこいではなく、楽しんできなさい。
今日の自分には、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
会場へ到着したのは開演よりかなり早い時間だった。一般客の入場口とは別の経路から建物へ入り、スタッフに案内されながら控室へ向かう途中では、既に多くの人が最終確認のため忙しく動いている。
サポートメンバーは音響確認を始めており、ステージ上では照明と大型スクリーンの最終調整が進められていた。隼人は自分で演奏を担当しないため、必要なのは歌唱位置やマイク、モニター音量などの確認が中心になる。
控室へ荷物を置いたあと、ステージへ移動して最初の音出しに参加する。無人の客席へ向かって数曲の一部分を歌い、場所による聞こえ方の違いを確かめていると、高橋が客席側から何度か指示を送り、音響スタッフが細かな調整を加えていった。
「Lentoさん、モニターはどうですか? 昨日よりボーカルを少し上げています」
「今くらいで大丈夫です。ゲストと一緒に歌う時だけ、相手の声をもう少し大きく返してもらえると助かります。特にMioさんとは声量差が出るので」
自分の希望を伝えたあとは、専門的な部分をスタッフへ任せる。以前なら細部まで自分で把握したくなったかもしれないが、今回は数か月かけて一緒に準備してきた人たちを信頼できていた。
確認が終わって舞台袖へ戻る途中、隼人は客席を振り返った。昨日まで空だった客席には、座席番号を確認するための案内が整えられ、あとは開場を待つだけになっている。
その光景を見ても、不思議と逃げ出したいような緊張はなかった。胸は高鳴っているが、それは失敗への恐怖というより、早く客席が埋まったところを見てみたいという期待に近かった。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎると、ゲストの最終確認も始まった。星乃ミナと白瀬こよりは遠隔出演のため専用スタジオから接続し、Mioは隼人と同じ会場へ入っている。
Mioが控室を訪ねてきた時、隼人は喉を休ませながら今日の進行表を確認していた。彼女は扉から顔を出すと、机の上に広げられた資料を見て少し笑い、そのまま向かいの椅子へ腰を下ろした。
「思ったより普通ですね。もっと緊張して、ずっと発声練習してるのかと思ってました」
「そんなことしたら本番前に喉が疲れますよ。それに今さら慌てても、できることはそんなに増えないでしょう」
「前回よりは楽しそうですね。あの時はステージに出る直前まで、本当に出ていいのか考えてる顔してましたから」
言われてみれば、その通りだった。『透明な手紙』のイベントではステージへ立つこと自体が大きな選択だったため、最後まで迷いが残っていた。しかし今回は自分で条件を決め、自分の意思で単独公演を引き受けている。
「今日は迷ってないですよ。準備してる途中も楽しかったですし、ここまで来たら歌うだけです。Mioさんこそ、前回より緊張してないんじゃないですか?」
「私は1曲だけですからね。10曲近く歌う人に心配されたくありません。それより、最後の『言えないままで』で変なアレンジを本番だけ入れないでくださいよ」
軽口を交わしながら確認を済ませるうちに、控室の外から聞こえる音が少しずつ増えてきた。開場時間を迎え、観客が建物へ入り始めたらしい。
隼人は会話を止め、しばらくその気配へ耳を傾けた。
壁を隔てているため一人ひとりの声までは聞こえない。それでも廊下を行き交うスタッフの足音や、遠くから響く客席のざわめきによって、空だった会場が少しずつ人で満たされていくことだけは分かった。
「……来ましたね」
「ですね。じゃあ私は自分の控室に戻ります。本番で会いましょう、Lentoさん」
「はい。今日は楽しみましょう」
Mioを見送ったあと、隼人は椅子へ深く座り直した。以前なら「成功させなければ」と考えていた場面だが、今日はその言葉が頭に浮かばない。
準備できることは、もう準備した。
あとは歌えばいい。
◇ ◇ ◇
開演30分前になると、客席は埋まっていた。機材席や演出上使用できない座席を除いた実入場者数は5,000人と報告され、販売可能だった席は全て埋まったことになる。
さらに有料配信の待機人数も増え続けており、制作側の当初予想を大きく上回っていた。ただし隼人は具体的な数字を本番直前に聞かないことにして、スマートフォンも控室へ置いたまま舞台袖へ向かった。
スタッフから渡されたマイクを受け取り、衣装の最終確認を済ませる。今回も顔が客席から判別できない照明設計になっているが、前回のように全身を完全な影へ隠すわけではなく、衣装や身体の輪郭までは見えるよう調整されている。
客席側の照明が少しずつ落ち始めた。
舞台袖からでも、観客が一斉に静かになっていく気配が分かる。完全な暗転を迎える直前まで残っていた話し声も消え、やがて会場全体が開始の瞬間を待つ静寂へ包まれた。
大型スクリーンへ、紗月が今回のライブのために描き下ろした1枚のイラストが浮かび上がる。夜明け前の薄暗い街を一人の少年が歩いている絵で、その色合いは高校時代に『夜明けの途中』へ描いてもらった最初の作品を思わせるものだった。
ただし、同じ絵ではない。
昔の少年より少しだけ背が高くなり、その先には夜ではなく、薄い朝の光が見えている。
観客がその意味へ気づくための数秒を置いたあと、スクリーン中央へ白い文字が現れた。
【Lento 1st Live】
【After the Applause】
会場を埋める歓声が一気に大きくなった。
隼人は舞台袖で一度だけ深く息を吸い、そのままステージへ足を踏み出した。
◇ ◇ ◇
姿が見えた瞬間、歓声はさらに大きくなった。前回のイベントではMioと離れた位置から登場したため、Lentoだけがステージ中央へ立つのは今日が初めてになる。
隼人は中央まで歩くと、客席へ向かって軽く頭を下げた。顔は照明の影に隠れているが、5,000人の人間が自分へ視線を向けていることは嫌でも分かる。
「こんばんは。Lentoです」
たったそれだけで、再び大きな歓声が返ってきた。
長い挨拶を用意していたわけではない。自分がどんな思いでここまで来たのかは、これから歌う曲を順番に聞いてもらえばいいと思っている。
「今日は来てくれて、ありがとうございます。配信で見てくれている人も、ありがとうございます。初めての単独ライブなので、俺も最後まで楽しみます。皆さんも好きに楽しんでください」
隼人がそう告げると、会場の照明がゆっくり変わった。背後のスクリーンには、先ほどの描き下ろしイラストから高校時代の『夜明けの途中』で使われた絵へと映像がつながっていく。
最初の音が会場へ流れた。
デビュー曲、『夜明けの途中』。
15歳へ戻り、2年間の練習を重ね、高校3年生になって初めて世へ出した曲だった。〈12〉という決して高くない出目から選び、自分が本当にもう一度音楽を始められるのか確かめるような気持ちで歌った曲でもある。
当時の録音より、今の方が技術は明らかに上がっている。それでも隼人は必要以上に歌い方を変えず、最初に公開した時の素直さを残したまま声を重ねていった。
客席は驚くほど静かだった。
歓声を上げるべき場所では声が上がるのに、歌が始まれば多くの観客が聞くことへ集中してくれる。隼人はその反応を感じながら、次第に5,000人という数字を意識しなくなっていった。
1曲目を歌い終えると、会場から大きな拍手が返ってきた。
その音を聞いた瞬間、隼人は少しだけ笑った。
「この曲から聞いてくれてる人、どれくらいいるんだろう。かなり昔に感じますけど、俺にとってはLentoとして最初に出した曲です」
客席のあちこちから声が上がり、想像していた以上に多くの反応が返ってくる。もちろん最近知った人もいるだろうが、最初の頃から聞き続けてくれている人がこの会場にもいるらしい。
「次も、その頃の曲です。『青のコンパス』」
曲名を告げると、照明が夜明けの淡い色から鮮やかな青へ変わった。スクリーンには高校時代のイラストと、今回のために紗月が描き足した新しい風景が重なって映し出される。
隼人はステージ中央から動きながら歌い、時折客席へ視線を向けた。顔を見せないため照明には制約があるものの、観客の側まで暗闇にする必要はないため、前方の席にいる人たちの表情までは見ることができる。
笑っている人もいれば、目を閉じて聞いている人もいる。
自分の歌を聞く方法は、それぞれ違っていい。
その当たり前のことを、隼人はステージの上で改めて感じていた。
◇ ◇ ◇
第1部最後の『余白の先へ』が始まる頃には、最初に感じていた緊張はほとんど消えていた。高校時代最後の3曲目として公開したこの曲は、進路や未来を決めきれない時期に作ったもので、大学へ進学する直前の自分の気持ちとも重なっている。
スクリーンには、これまでの2曲で使われた高校時代のイラストが少しずつ遠ざかり、最後には白い余白だけが残る。そこへ新しい線が伸びていく演出は、紗月自身が提案したものだった。
歌いながらそれを背後に感じ、隼人は高校3年生だった頃を思い出していた。
あの頃は、今度こそ音楽だけの人生にはしないと何度も自分へ言い聞かせていた。大学へ進み、普通の友人関係を作り、家族との時間を残しながら音楽を続ける。それが本当に可能なのか、まだ確信は持てていなかった。
今なら答えを知っている。
できた。
少なくとも、ここまでは。
最後の一節を歌い終えると、白かったスクリーンへ一本の道が描かれ、その先に大学へ進んでからのLentoを象徴する光が現れた。
曲が終わり、拍手が広がる。
隼人は息を整えながら客席を見渡した。まだ第1部を終えただけなのに、身体の奥には心地よい熱が残っている。
「このあと俺だけじゃなくて、今まで一緒に音楽を作ってきた人たちにも来てもらっています」
ゲストの存在は既に告知されているため、その言葉だけで客席から期待の声が上がった。特にミナとこよりの名前を呼ぶ声が聞こえ、隼人は少し笑いながら次の準備を待つ。
「単独ライブなのにゲストを呼びすぎじゃないかって言われるかもしれませんけど、俺の音楽を振り返るなら、あの人たちを抜く方が不自然なんですよ。自分で歌う曲だけが、俺の音楽活動じゃなかったので」
話している間に、背後の映像が切り替わっていく。
無数の光が線で結ばれた新しい映像が現れた。
『リンクライト』。
大学へ進み、Lentoとして活動する範囲が一気に広がり始めた時期の曲だった。
イントロが流れた瞬間、客席から大きな歓声が上がる。隼人はその声を聞きながら、マイクを握り直した。
まだライブは半分にも届いていない。
この先にはミナがいて、こよりがいて、Mioがいる。『帰らない季節』も、『夜を連れて』も、そして最後に歌う『拍手のあとで』も残っていた。
それなのに、隼人の頭には既にひとつだけ、はっきりした感想が浮かんでいた。
楽しい。
以前なら、その感情の直後に余計なことを考えていた。もっと大きな会場ならどうなるのか、次も同じ人数を集められるのか、この成功をどう次へつなげるのかと、まだ終わってもいない今日を未来の材料へ変えていた。
今は違う。
次のライブがあるかどうかなど、今日考える必要はない。
5,000人の観客が目の前にいて、自分がこれまで作ってきた曲を聞いてくれている。その時間を楽しむだけで、今夜は十分だった。
隼人は客席へ向かって一歩進み、『リンクライト』の最初の言葉を歌い始めた。




