もう一度、ステージへ
『拍手のあとで』を公開してから約1か月が経ち、隼人の生活は以前と変わらない落ち着きを取り戻していた。大学では講義と課題に追われ、週末には友人と出かけ、空いた時間に音楽を作る。8,000人近い観客の前で歌った経験は確かに特別なものだったが、それによって毎日の過ごし方を変えるつもりはなかった。
もっとも、周囲まで同じように考えてくれるとは限らない。アニメイベントで初めてステージへ立ったLentoの姿は想像以上に話題となり、イベント終了後にはライブ出演や音楽番組への誘いが以前より増えていた。顔を公開しないという条件を理解したうえで企画を持ち込む企業もあり、隼人は大学から帰宅するたび、仕事用のメールを確認する時間が少しずつ長くなっていた。
そんなある日の夕方、隼人は見慣れない件名のメールを見つけた。差出人は『透明な手紙』のイベントで世話になった制作担当者で、本文にはイベントの成功に対する感謝とともに、改めて相談したい企画があると記されている。
添付されていた企画書の表紙を開いたところで、隼人は思わず笑ってしまった。そこにはLento単独公演という文字とともに、約5,000人を収容できる会場の候補がいくつか並んでいた。
「……いや、話が早すぎるだろ」
イベントへ出演したのは、ついこの間のことだ。しかも『言えないままで』を1曲披露しただけであり、今後もライブ活動を続けるとは一度も宣言していない。それなのに企画書には、会場の設備から匿名性を守るための演出案まで、かなり具体的な内容が記載されていた。
隼人はすぐに返事をせず、企画書を最後まで読んでみることにした。単純に断るつもりなら数行のメールで済む話だが、今回は少しだけ気になることがあった。提案された公演は、定期的なライブ活動の開始ではなく、最初から一夜限りの特別公演として計画されていたからだ。
◇ ◇ ◇
翌日の夕方、隼人は制作担当者とのオンライン会議に参加した。画面の向こうにはアニメイベントで顔を合わせた担当者と、ライブ制作を専門とするスタッフが座っており、隼人は挨拶を済ませると、最初に今回の企画が生まれた理由を尋ねた。
「イベントの反響が大きかったのは理解しています。ただ、俺は今後も定期的にライブをする予定はありません。それでも単独公演を提案してくださった理由を聞いてもいいですか?」
担当者は手元の資料を確認しながら、イベント終了後に届いた感想や有料配信の視聴状況について説明した。特に反応が大きかったのは、初めて姿を見せたことそのものより、顔を公開しなくてもライブとして成立していた点だったという。
「Lentoさんの場合、顔を見せないことが演出上の制約になると考えていたんですが、実際には楽曲の世界観を表現する手段として機能していました。そこで、匿名性を維持したまま単独公演ができないかと考えたんです」
隼人は画面に表示された会場の資料へ目を向けた。客席からの視線を遮る照明設備に加え、出演者専用の移動経路や控室の配置まで検討されている。前回のイベントで得られた経験を利用すれば、今回も匿名性を守ることは十分可能らしかった。
「なるほど。ちなみに、5,000人という規模には何か理由があるんですか? 俺の活動内容からすると、もう少し小さい会場でも構わないと思うんですけど」
「今回は配信も予定していますし、会場そのものは必ずしも満席にする必要はありません。ただ、音響設備と照明設備、それから舞台裏の導線を考えると、こちらの規模が適していると判断しました」
その説明には納得できたものの、隼人はまだ出演を決めるつもりはなかった。ライブを開催すること自体は魅力的でも、その準備によって大学生活が圧迫されるのであれば、最初に決めた方針から外れてしまう。
隼人は企画書を閉じると、今回の公演を検討するために必要な条件を伝えた。開催するなら公演は1回限りとし、追加公演や翌年の開催を前提とした契約にはしないこと。顔や本名を公開せず、大学生活に影響しない範囲で準備を進められること。そして、楽曲の構成やゲストの選定については自分の意向を優先できることだった。
「もちろん、ライブが成功したあとに追加公演を勧められる可能性があるのは分かっています。ただ、その時に断ることも含めて、最初から理解しておいてほしいんです」
担当者は少し驚いた表情を見せたが、隼人の条件を否定することはなかった。むしろ、今回の企画が定期的なライブ活動へつながる保証はないと承知したうえで提案しているらしく、必要な条件を契約書へ明記する方向で話が進んだ。
会議を終えた隼人は、しばらく机の上に置いた企画書を眺めていた。まだ正式に引き受けたわけではないが、以前なら断っていたはずの話を、今回は具体的に検討している。その変化を自分でも少し不思議に感じながら、隼人は大学の課題を終わらせるためにノートパソコンを開き直した。
◇ ◇ ◇
週末、隼人は久しぶりに拓海と会った。高校時代からの友人であり、前の人生では同じバンドで音楽を続けていた相手でもある。今の拓海は隼人がLentoとして活動していることを知っているが、本人が必要以上に話題にしないため、普段は大学や友人関係について話すことの方が多かった。
昼食を食べながら近況を話していると、拓海が突然、先日のアニメイベントについて尋ねてきた。配信を見ていたらしく、『言えないままで』の最後の演出が特に気に入ったという。
「お前、あんなにステージが似合うのに、よく今までライブ断ってたよな。昔から人前で歌うのが好きだったのは知ってたけど、あの規模でも普通に楽しそうだったぞ」
「そりゃ楽しかったよ。ただ、ステージが好きだからって毎週立ちたいわけじゃないし、今の生活を変えるつもりもないからな」
隼人は飲み物を口へ運びながら答えたが、拓海はその言葉に何かを感じ取ったらしい。少し身を乗り出すと、面白そうな表情で隼人の顔を覗き込んできた。
「その言い方だと、次のライブの話でも来てるんじゃないか? 今のお前なら、単独公演の誘いくらい普通にありそうだけど」
「……お前、変なところだけ鋭いよな。実は5,000人くらいの会場で、1回だけライブをやらないかって話が来てる」
拓海は一瞬だけ動きを止めたあと、勢いよく隼人の肩を叩いた。周囲の客がこちらを見るほどの大声を出しかけたため、隼人は慌てて声を抑えるよう注意する。
「いや、待てって! それ普通にすごい話だろ! 高校の時にバンドを断ってたやつが、今度は5,000人の単独ライブをやるかもしれないって、どういう人生送ってんだよ!」
「まだ決まってないし、俺としては大学の予定を優先したいんだよ。ライブのために単位を落としたら、さすがに笑えないだろ」
隼人が真面目な顔で答えると、拓海は呆れたように笑った。それでも無理に出演を勧めることはせず、隼人が本当にやりたいと思っているのかを確認してきた。
その問いに、隼人は少しだけ考えた。前回のイベントは『透明な手紙』という作品のために出演したが、今回はLentoとして自分の曲を歌うことになる。高校時代に投稿した3曲から現在までの楽曲を、自分の意思で選び、自分のステージで披露する機会だった。
「……やってみたい気持ちはある。前回はMioさんと1曲だけだったけど、今度は自分の曲を最初から最後まで歌えるわけだからな」
「だったら、やってみればいいじゃん。お前が嫌がってるなら止めるけど、今の話を聞いてる限り、やりたいのに面倒だから迷ってるようにしか聞こえないぞ」
図星だったため、隼人は思わず苦笑した。前の人生では夢のために無理をしすぎたが、今度は反対に、無理を避けようとするあまり挑戦すること自体を面倒に感じている部分があるのかもしれない。
もっとも、拓海にそう言われたからといって、すぐに出演を決めるつもりはなかった。今回は自分だけで完結する話ではなく、準備に関わるスタッフやゲストの時間も必要になるため、まずは現実的に開催できるかどうかを確かめることにした。
◇ ◇ ◇
その日の夜、隼人は自室で過去の楽曲を順番に聞き直していた。高校3年生の時に公開した『夜明けの途中』から始まり、『青のコンパス』や『余白の先へ』を経て、大学へ入ってから制作した曲へ進んでいく。
最初の3曲を聞いていると、高校生活の記憶が自然に蘇ってきた。大学受験を優先しながら制作を続けたことや、佐倉紗月と何度もイラストの相談をしたこと、初めて再生回数が100万回を越えた時に感じた驚きまで、今でも鮮明に覚えている。
続いて『リンクライト』を聞くと、VTuberという存在へ興味を持ち始めた頃のことを思い出した。そこから星乃ミナへ提供した『また明日』や、Nagiのために作った『雨の匂いが消えるまで』へつながり、自分だけで歌うことが音楽活動のすべてではないと気づいた時期が続いている。
その一方で、『帰らない季節』や『夜を連れて』のように、Lento自身の名前で大きく広がった曲もある。特に『夜を連れて』は【運命のダイス】を使わずに作った楽曲であり、現在の自分にとって大きな転機となった1曲だった。
隼人は再生を止めると、机の上に新しいノートを広げた。単独ライブを開催するのであれば、単に人気曲を再生回数の多い順番で並べるだけでは面白くない。自分がこれまで何を考えて曲を作り、どのように音楽との向き合い方を変えてきたのかを、ステージ全体で表現したかった。
そこで最初に考えたのは、高校時代の3曲をまとめて披露する構成だった。『夜明けの途中』から始まり、『青のコンパス』を経て、『余白の先へ』で最初の区切りを迎える。高校生活そのものを再現するつもりはないが、Lentoとして活動を始めた頃の流れを、そのまま客席へ届けられる。
次に大学へ入ってからの楽曲を配置し、最後は『夜を連れて』や『拍手のあとで』へつなげていく。具体的な曲順はまだ決められないものの、ステージ全体を1つの物語として考えると、これまでの活動が思っていた以上に豊かなものだったと実感できた。
「……これ、俺1人で全部やるより面白くできそうだな」
隼人はノートへいくつかの名前を書き込んだ。星乃ミナには『また明日』があり、白瀬こよりには『はじめまして、未来』がある。そしてMioとは、つい先日『言えないままで』を一緒に歌ったばかりだった。
もちろん、全員を呼ぶ必要はない。出演者が増えれば準備も複雑になり、それぞれの活動へ影響する可能性もある。それでも、これまで誰かのために作ってきた曲を、自分のステージで一緒に披露できたなら、単独公演という言葉から想像するものとは少し違うライブになるはずだった。
◇ ◇ ◇
数日後、隼人は制作担当者へ再び連絡を取り、提示されていた条件を前提に単独公演を進めたいと伝えた。開催時期は大学の予定を考慮して約4か月後とし、公演は1回限り、会場は約5,000席を想定する。現地へ来られない人のために有料配信も実施するが、追加公演や定期開催については約束しないという内容だった。
担当者からは、企画を正式に進められることへの感謝とともに、出演するゲストについて相談したいという返事が届いた。隼人は自分で考えていた構成を簡単に説明し、まずは星乃ミナと白瀬こより、そしてMioの3人へ出演の意思を確認することになった。
最初に連絡したのは、以前から何度も仕事をしている星乃ミナだった。事務所を通して正式な相談を送ると、翌日にはオンライン会議の予定が組まれ、隼人は久しぶりに彼女と直接話すことになった。
『Lentoさん、単独ライブって本当ですか? 私、最初に聞いた時は何かの間違いだと思いましたよ』
「最近そればっかり言われるんですよね。そんなにライブをやらなそうな人間に見えてました?」
『見えてましたよ! だってイベントのお誘いが来ても、ずっと断ってたじゃないですか。それなのに急に5,000人の会場って、間が飛びすぎでしょう』
ミナは画面越しでも分かるほど楽しそうに笑っていた。隼人が今回の公演は1回限りであり、今後の定期的なライブ活動を始めるわけではないと説明すると、彼女は少し納得したように頷いた。
『それならLentoさんらしいですね。それで、私に何をさせたいんですか? まさか、また歌い方を全部変えろとか言いませんよね』
「今回は『また明日』を一緒に披露できないかと思ってます。基本的にはミナさんが歌って、俺はピアノと少しだけコーラスに入る形ですね」
隼人が説明すると、ミナは一瞬だけ黙り込み、やがて悪戯っぽい笑みを浮かべた。以前から冗談として話題になっていた『Lento被害者の会』を思い出したらしい。
『……それ、出演を引き受けたら本番までに何十回も修正されるやつですよね? 私、もう経験者なんですけど』
「今回は元々ミナさんの曲ですから、そこまで変更しませんよ。むしろ俺が合わせる側ですし、歌い方も今のミナさんに任せたいと思ってます」
『その言葉、録音しておいていいですか? あとで絶対に証拠として使いますからね』
隼人が笑って了承すると、ミナも出演を前向きに検討すると答えた。正式な契約は事務所を通して進める必要があるものの、本人としてはぜひ参加したいという返事だった。
通話を終えた隼人は、続いて白瀬こよりへ連絡を送った。彼女に依頼したいのは、もちろん『はじめまして、未来』だった。初めて曲を提供した頃は登録者が3,000人にも届いていなかったが、今では多くの視聴者に支えられながら活動を続けている。
今回のライブでこよりが歌うのであれば、隼人はギターを担当するつもりだった。彼女の曲を自分が歌う必要はなく、あくまで彼女自身の声を客席へ届けるための演奏に徹したいと考えていた。
最後にMioへ連絡すると、彼女からは意外なほど早く返信が届いた。先日のアニメイベントを終えてから、まだそれほど時間が経っていないにもかかわらず、再び同じステージへ立つ機会が来たことを面白がっているらしい。
【また『言えないままで』を一緒に歌うんですか?】
【その予定です。今度は俺のライブなので、前回とは少し演出を変えたいと思ってます。】
【了解です。ちなみに、今回は客席が5,000人なんですよね?】
【そうですね。】
【前回より少ないから緊張しないとか言わないでくださいね。】
隼人は返信を読みながら笑い、さすがにそこまで楽観的ではないと返した。Mioからは、会社の予定と調整できればぜひ参加したいという返事が届き、これでゲスト候補の3人全員へ最初の相談を終えることができた。
◇ ◇ ◇
その週の終わり、隼人は制作担当者から送られてきた新しい企画書を開いた。出演者や楽曲構成についてはまだ調整が必要だったが、会場と開催時期については大まかな見通しが立ち、正式な公演名を決める段階まで進んでいた。
隼人はしばらく考えたあと、制作ノートの最後に書いていた言葉を見返した。初めてステージへ立った夜に感じたことを、そのまま曲にした『拍手のあとで』。今回の単独公演も、あの曲と同じ考え方で作りたいと思った。
大きなステージへ立つことが目的ではなく、そこで歌う時間を楽しみ、終わったあとは自分の生活へ戻っていく。その考えを公演名にも残したくなり、隼人は担当者へ短いメールを送った。
【公演名は『After the Applause』でお願いします。】
しばらくして担当者から了承の返事が届き、正式な企画書の表紙が更新された。そこにはLentoとして初めて開催する単独公演の名前が、シンプルな文字で記載されていた。
【Lento 1st Live『After the Applause』】
隼人はその文字を眺めながら、以前とは違う種類の緊張を感じていた。今回はアニメ作品のイベントへ参加するのではなく、自分の名前だけで客席を埋めることになる。これまでの楽曲を直接聞いてもらう機会であると同時に、自分がどんな音楽活動を続けてきたのかを、初めてステージ全体で表現することになるのだ。
それでも、準備のために大学を休むつもりはなく、家族や友人との時間を削り続けるつもりもなかった。必要な準備は早めに進め、スタッフやゲストへ任せられる部分は任せる。自分だけが頑張らなければ成功しないようなライブには、最初からしたくなかった。
隼人は企画書を閉じると、机の横に置いていた大学の資料を手に取った。翌日には提出しなければならない課題が残っており、今夜はそちらを先に終わらせる必要がある。
5,000人の前で歌うことになっても、明日の締め切りが消えるわけではない。
その当たり前の事実に少し笑いながら、隼人はノートパソコンへ向き直った。




