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リプレイ・ミュージック ―35歳、もう一度だけ夢を見る―  作者: にゅん


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拍手のあとで

 『言えないままで』を歌い終えた隼人とMioは、会場を満たす拍手の中でもう一度客席へ頭を下げた。最後のピアノが消えてから数秒遅れて押し寄せた歓声は、ステージの床を通して身体へ伝わってくるほど大きく、録音や配信では決して味わえない熱を残していた。


 照明がゆっくり落ち始めると、2人は最後まで距離を保ったまま、それぞれ左右の袖へ戻っていく。曲の中では互いを見ないという演出を最後まで守ったため、ステージを降りてから初めて顔を合わせることになった。


「……終わりましたね。途中から客席の人数を考える余裕もなくなって、最後の方はちゃんと歌えていたのか自分でも怪しいです」


 Mioは胸元へ手を当てながら大きく息を吐き、スタッフから渡されたペットボトルを受け取った。表情には安堵が浮かんでいるものの、興奮が残っているのか、蓋を開ける指先はわずかに震えている。


「ちゃんと歌えてましたよ。俺も最初は8,000人近くいるって意識してたんですけど、途中から曲の方しか考えてなかったです」


「それは横から見ていて分かりました。Lentoさん、途中から明らかに楽しそうだったでしょう? リハーサルの時より声も少し変わってました」


 指摘されて、隼人は素直に笑った。


 否定する理由はなかった。最初の一節を歌った時には客席の広さや人数を意識していたが、Mioの声が入ってからは、その感覚が少しずつ薄れていった。広い会場へ自分の声が伸び、反対側からMioの声が重なり、8,000人近い観客がそれを静かに聞いている。その時間そのものを、いつの間にか楽しんでいた。


「ステージは昔から好きなんですよ。嫌いだからライブを断ってたわけじゃないです」


「それなら余計に不思議ですよ。今日みたいに楽しめるなら、もっと前から出てもよかったんじゃないですか?」


 Mioは責めるような口調ではなく、純粋に疑問を感じているらしい。隼人は少し考え、前の人生について触れない範囲で答えを探した。


「好きなものだからこそ、いつでもやらなくていいと思ってるんです。毎回求められるまま出てたら、そのうち楽しいから立つんじゃなくて、立たなきゃいけないから立つようになるかもしれないでしょう?」


「……そういう答えがすぐ出てくるから、本当に大学生なのか疑いたくなるんですよ。今日実物を見て、若いのは分かったはずなのに」


「そこは本人確認済みでしょう。年齢まで教えるつもりはありませんけど、少なくともネットで言われてる40代説は否定していいですよ」


 隼人が笑うと、Mioもようやく肩の力を抜いて笑った。正確な年齢や本名、通っている大学まで明かすつもりはないが、少なくとも大学生程度の若さであることは今日の対面で知られている。それでもMioなら必要以上に踏み込まず、他人へ話すこともないだろうという安心感があった。


「それにしても、Lentoさんがライブ好きなのは本当に意外でした。私は今日だけでもしばらく満足ですけど」


「俺も今すぐ次をやりたいとは思ってませんよ。今日が楽しかったことと、来月もステージに立ちたいかどうかは別なので」


「その分け方、ちょっと分かる気がします。私も歌うのは好きですけど、明日から毎週8,000人の前で歌えって言われたら会社員に戻ります」


「明日も会社員でしょう?」


「そうでした」


 2人で笑っているところへスタッフが声をかけ、控室へ戻るよう案内された。イベントそのものはまだ続いているが、隼人とMioの出演は『言えないままで』の1曲だけで終了している。


 もう一度ステージへ呼び戻される予定もなく、アンコールへ備える必要もない。その区切りが、今の隼人には妙に心地よかった。


     ◇ ◇ ◇


 控室へ戻った隼人は、机の上に置いていたスマートフォンを手に取った。出演時間そのものは数分だったにもかかわらず、Lentoの公式アカウントには大量の通知が届いており、会場だけでなく有料配信を見ていた視聴者からも感想が次々と投稿されている。


【Lento本当に存在したんだ。ずっとネット上にしかいない人みたいな感覚だったから、シルエットだけでもステージに立ってるの不思議】


【Mioと最後まで目を合わせない演出が曲に合いすぎてた。最後に同じ光へ入るのに、それでも互いを見ないのが好き】


【思ってたより若そうに見えたけど、照明暗すぎて全然分からん。Lentoの匿名性が強すぎる】


【生の『言えないままで』、最後の声を伸ばし切らないところが音源よりさらに良かった】


 年齢について触れている投稿もあったが、照明のおかげで断定できるほどの情報は出ていない。20代ではないかという予想に対して、服装や体格だけでは分からないという反応もあり、以前から存在した30代説や40代説まで混ざっている。


 隼人はしばらく眺めてから、スマートフォンを机へ戻した。


 普段なら公開直後の数字や反応をもう少し確認するところだが、今日はそれよりも先ほどの感覚を自分の中へ残しておきたかった。椅子へ深く座って目を閉じると、広い会場を埋めた拍手がまだ耳の奥に残っているような気がした。


 前の人生でも、拍手は何度も聞いている。


 けれど当時の隼人は、拍手を素直に受け取ることができなくなっていた。ライブが成功すれば次はもっと大きな会場へ行かなければならないと思い、客が増えれば次も同じ人数を呼ばなければならないと焦った。拍手が止まる前から次の結果を考え、今日の喜びを明日の不安へ変えていた。


 今回は違った。


 拍手はもう止まっている。


 自分の出演も終わった。


 それでも、何かを失ったような感覚はなかった。


 むしろステージを降りたあとの静かな控室に座っている今まで含めて、今日という1日を楽しいと思えている。


「……これ、曲にできそうだな」


 隼人はスマートフォンをもう一度手に取り、反応を見るためではなくメモを開いた。まだ歌詞として整えるつもりはなく、今感じているものを忘れないために、いくつかの文章だけを残していく。


【拍手が止んだあとにも、生活は続いている。特別な夜が終わっても、それまで持っていたものが消えるわけではない。】


【終わることは、失うこととは違う。終われるからこそ、その時間だけを楽しむこともできる。】


 書き終えたところで、隼人は画面を閉じた。


 誰かから依頼されたわけではない。


 アニメにもVTuberにも関係なく、【運命のダイス】を使う必要も感じない。


 今の自分が歌うなら、きっとこういう曲になる。


 そんな輪郭だけが、既に見え始めていた。


     ◇ ◇ ◇


 イベント終了後、隼人は関係者が集まる打ち上げには参加せず、制作スタッフやMioへ挨拶を済ませて会場を離れた。Lentoの素顔を知る人間を必要以上に増やしたくない事情もあるが、何より翌日には普通に大学の授業が入っている。


 帰宅したのは、まだ日付が変わるよりかなり前だった。


「ただいま。思ったより早く帰れた」


「おかえり。ちゃんと歌えた?」


 リビングから顔を出した美智子は、8,000人の前で歌ってきた息子を迎えるというより、学校行事から帰ってきた時と大して変わらない調子だった。その普段通りの声が、今の隼人にはありがたかった。


「歌えたよ。緊張はしたけど、途中から普通に楽しかった」


「それならよかったじゃない。夕飯は向こうで食べたんでしょう? 果物なら冷蔵庫にあるから、欲しかったら自分で出してね」


「ライブの感想より先に食べ物の話になるんだ」


「帰ってきたなら、もう終わったんでしょう? 感想はあとで聞けるもの」


 美智子はそう言ってキッチンへ戻っていった。


 隼人は少し笑いながらリビングへ入り、ソファに座っていた父の隣へ腰を下ろした。父はイベントの有料配信を見ていたらしく、テレビ画面には既に終了した配信の案内が表示されている。


「どうだった?」


 隼人が尋ねると、父は少し考えてから答えた。


「最初に上げた曲の頃より、声に余裕が出たな。今日の歌は静かな曲だったが、昔みたいに声を綺麗に聞かせようとしてない分、今の方が自然に聞こえた」


「そこを見るんだ。てっきり会場が大きいとか、顔が見えなかったとか言われると思った」


「顔なら毎日見てるからな。父さんには照明で隠す意味がない」


「確かに」


 隼人が笑うと、父も口元を緩めた。


「ちなみに、今までの曲で一番好きなのはどれ?」


「最初のやつだな。『夜明けの途中』だったか」


「『夜を連れて』でも『帰らない季節』でもなく?」


「再生回数で好きな曲を決めるわけじゃないだろう。最初の曲は、今より少し力が入ってる感じも含めて好きだ」


 思いもしなかった理由に、隼人は少し黙った。


 自分にとって『夜明けの途中』は、〈12〉を選び、高校生活の中で初めて世へ出した曲だ。今聞けば未熟な部分も見つかるし、現在なら違う歌い方をするだろう。


 それでも父にとっては、その未熟さまで含めて好きな曲らしい。


「……そういうものか」


「そういうものだろう。作った本人と聞く側が同じ基準で選ぶ必要はない」


 父の何気ない言葉に、隼人は小さく頷いた。


 3,000万回や5,000万回という数字を見ながら曲の届き方を考えている自分のすぐ近くで、最初の1曲をずっと一番好きだと言う人間がいる。


 それもまた、音楽だった。


     ◇ ◇ ◇


 翌朝、隼人は普段と変わらない時間に起き、大学へ向かった。


 昨日のステージで使った衣装は家に置いたまま、今日はいつもの服で講義室の後方へ座っている。8,000人近い観客の前で歌った翌日に、教授の話を聞きながらノートパソコンへ講義内容を入力している状況は、自分で考えても少し可笑しかった。


 それでも、隼人はこの落差を気に入っていた。


 昼休みには友人たちと学食へ向かい、いつものように空いている席を探す。食事を始めてしばらくすると、向かいに座った友人がスマートフォンを見ながら、昨日のイベントについて話し始めた。


「そういえば『透明な手紙』のイベント、昨日だったんだな。Lentoが初めてライブ出たって、朝から結構流れてきたぞ」


「らしいね。配信もあったんだろ?」


「お前、Lento聞いてるのに見なかったの? 顔は結局出なかったけど、シルエット見る限り若そうって言われてる。大学生説まで出てるぞ」


 隼人は箸を止めず、できるだけ普段通りに返した。


「前は30代とか40代って言われてなかった? 照明で顔も見えないなら、年齢予想なんて当たらないだろ」


「まあ、それはそうなんだけどな。声だけ聞いて人生経験ありそうとか言われて40代にされるのも可哀想だけど」


「曲から年齢を推理する方が無理あるよ」


 隼人が笑うと、友人も「確かにな」と納得し、そのまま別の話題へ移っていった。


 昨日の自分が、今日はすぐ近くで昼食を食べている。


 その事実に誰も気づかない。


 隼人は秘密を守れていること以上に、ステージから降りたあと本当に普通の生活へ戻れていることを嬉しく感じた。


     ◇ ◇ ◇


 イベントから数日後、隼人は自室で新しいプロジェクトファイルを開いた。


 締め切りも依頼主も存在せず、誰かへ提供する予定もない。もちろん【運命のダイス】も使わず、イベント当日に控室で残したメモだけを机の横へ置き、ギターを抱えた。


 最初に作ったのは、8,000人の歓声を再現するような派手な旋律ではなかった。むしろライブが終わったあと、会場の外へ出て普段の街へ戻っていく時間を思わせる、穏やかなコード進行だった。


 大きなステージから降りても、電車はいつも通り走っている。


 家へ帰れば家族がいて、翌朝になれば大学や仕事へ向かう。特別な出来事があったからといって、人生そのものが別物へ変わるわけではない。


 昔の隼人なら、それを寂しいと感じたかもしれない。


 ライブでどれだけ盛り上がっても、終われば客は帰っていく。夢のような時間から日常へ戻される感覚が嫌で、次のライブや次の結果を求め続けていた。


 今は、その日常があることを安心だと思える。


 特別な時間を特別なまま終わらせ、普通の生活へ持ち込まないからこそ、またステージへ立った時に楽しめる。終わった瞬間から次を欲しがらなくても、今日の楽しさまで消えるわけではない。


 隼人は何度もギターを鳴らしながら、旋律と歌詞を少しずつ組み立てていった。


 今回は誰かの声を想像する必要がない。


 自分で歌う。


 8,000人の前に立ち、その翌日に大学へ行った今の自分だから歌える曲にする。


 制作を始めて数日後、曲の中心になる言葉が自然に決まった。


【拍手が止んだあとで、僕らはまた暮らしていく。】


 隼人はその一文をノートへ書き、その上にタイトルを加えた。


【『拍手のあとで』】


 大きな夢を叶えたあとにも、人生は続く。


 夢が叶わなかった日にも続く。


 誰かに褒められた夜も、誰にも見つけてもらえなかった夜も、その先には同じように朝が来る。


 35歳までの人生を経験した隼人にとって、それは夢を諦めるための考えではない。


 夢を人生の中へ置いたまま、壊さずに持ち続けるための考えだった。


     ◇ ◇ ◇


 『拍手のあとで』が完成したのは、イベントから約1か月後だった。


 アニメとのタイアップもなく、誰かとのコラボでもない。Lentoが自分で作詞と作曲を行い、自分の声で歌っただけの新曲として、特別に大きな宣伝をせず普段通り公開した。


 それでも、イベントを見ていた視聴者は曲の背景にすぐ気づいた。


【初ライブの次に「もっと大きな場所へ行く」じゃなくて、ライブが終わったあとの曲を出すのがLentoらしい】


【「拍手が止んだあとで、僕らはまた暮らしていく」って、仕事終わりにも刺さるんだけど】


【ライブの歌なのに、聞いてたら卒業とか旅行の帰りとか色んな終わった日のこと思い出した】


【特別な日が終わって普通に戻るのを寂しいだけにしないの好き】


 隼人はコメントを読みながら、少しだけ安心した。


 初ステージを経験した自分だけの曲にはしたくなかった。ライブをしたことがない人でも、旅行や祭り、卒業式や大切な人との時間など、特別な何かが終わったあとの感覚へ重ねられる余白を残したかったからだ。


 公開後の数字も、派手に爆発するのではなく安定して伸び続けた。


【『拍手のあとで』】


【公開24時間 再生回数 764,218回】


【公開3日 再生回数 1,638,427回】


【公開7日 再生回数 3,146,827回】


 そして公開から1か月が経つ頃には、再生回数は700万回を越えていた。


【『拍手のあとで』】


【公開30日 再生回数 7,428,614回】


 『夜を連れて』のように5,000万回へ向かって急速に伸びる曲ではない。


 〈35〉の『帰らない季節』や〈44〉の『言えないままで』のように、【運命のダイス】から得た曲でもなかった。それでも隼人にとっては、今の自分が自分だけで作ったという意味で十分に大切な曲だった。


 隼人は制作ノートへ公開後の記録を書き込んだ。


【『拍手のあとで』。運命のダイスは使用していない。初めてLentoとしてステージへ立ったあと、自分で作った曲。公開30日で再生回数7,428,614回。】


【拍手が止んだあとで、僕らはまた暮らしていく。特別な時間が終わっても、その時間の価値まで消えるわけではない。】


 以前なら、その下へ次の目標を書いていたかもしれない。


 次は1,000万回を目指す。


 次はもっと大きな仕事を受ける。


 次はさらに広い会場へ立つ。


 けれど今の隼人は、ページの残りを無理に埋めようとは思わなかった。


 空白のままノートを閉じ、翌日の大学で使う資料を机へ広げる。ステージへ立ちたくなれば、またその時に考えればいいし、新しい曲を作りたくなれば、その時に作ればいい。


 初めて8,000人近い観客から受け取った拍手は、隼人を再び音楽だけの人生へ引き戻すものにはならなかった。


 むしろ拍手が止んだあとにも、大学があり、家族がいて、友人との時間があり、その中で音楽を好きなまま続けられる生活が残っている。


 前の人生では作れなかった余白を守ったままでも、ステージへ立つことはできる。


 そしてステージから降りることもできる。


 隼人にとって本当に嬉しかったのは、大きな拍手をもらえたことだけではなかった。好きな場所から自分の意思で降り、それでも音楽を好きなままでいられたことだった。

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